第10話 照れ屋さんなんですよ、あの方は
あれほどの騒ぎが嘘のように消え去り、屋敷には再び静かな時間が流れていた。
けれど、フィオナの心は凍りついたまま。
(──私たち、とんでもない人の元に来てしまった……)
全身から力が抜けて、膝が勝手に折れた。がたん、と音を立てて床に落ちる。
そして、震える声で言葉を紡いだ。
「し、知らずに……大変な無礼を……本当に、申し訳ありません……っ!」
硬い床に額をつける。雪の冷たさが残る木の板の感触が、肌に痛かった。
けれど、それでも頭を下げずにはいられない。
ミオも、隣でそっと同じように膝をつく。
姉を見て、何が正しいかわからないまま、それでも必死に許しをこう。
沈黙の中、ふたりの震える姿を見下ろすように、ジークは立っていた。
髪はまだ寝癖が残っていて、シャツのボタンもかけ違えている。
ジークは、ほんの数秒だけ二人を見下ろし──やがて、面倒くさそうに頭をがしがしと掻いた。
「……くだらん」
ぽつりと、それだけを呟くと、すたすたとその横を素通りしていく。
振り返りもせず、廊下の先にある書斎の扉を開け、そのまま中へと消えていった。
「…………」
あっけにとられた姉妹は、しばらく動けなかった。
身体に残った緊張だけが、遅れてゆっくりと抜けていく。
そんな二人に、ルスがゆったりと歩み寄る。
やれやれといった顔で、肩をすくめながら微笑んだ。
「どうやら……『そんなことには興味もないし、気にするな』と、仰りたいようですね」
彼の言葉の裏に込められた意図を、まるで通訳のように優しく伝えてくれる。
「本当にあの方は……。もう少し人の気持ちを汲んでくだされば、どれほど助かるか」
ロッテがため息まじりに後ろからつぶやいた。
「でもまあ、照れ屋さんなんですよ、あの方は。とてもご本人には言えませんが」
ルスの言葉にロッテがクスリと笑い返し、絶体絶命と思われた危機は、まるで朝の些事のようにさらりと過ぎ去った。
誰も怒らない。誰も咎めない。
姉妹の過去を責める人も、その身分を問い詰める人も、ここにはいない。
玄関の扉は、奴隷商人たちが開け放っていったままだ。
そこから吹き込む風が、ほんの一瞬だけ、屋敷の空気を揺らす。
やがて来る冬の終わりを思わせるような、やわらかな風。白く光る雪景色に、雲の切れ間から日が差している。
姉妹はそっと顔を上げ、まだ少し呆けたような表情のまま、立ち上がった。
傷ついた身体も、冷えきった心も。
この場所に来てから、少しずつほどけていくような気がした。
ジーク・ヴァルト・セロ。
世界が恐れる、絶対的な力の持ち主。最恐の領主。
その彼が──途絶えかけたフィオナの命を繋ぎ、冷え切った体を暖め、フカフカのベッド、それに美味しい食事と、団欒を与えてくれた。
それだけでも奇跡のような出来事なのに。
何人たりとも逆らう事を許さない、絶対的な恐怖によって、その居場所すら庇護してくれるというのだ。
「……ねぇ、お姉ちゃん」
ミオが再びそっとつぶやく。
「わたしたち、ここにいて、いいのかな?」
フィオナは答えなかった。
ただ、隣に立つミオの手を、静かに握り返す。
──それが、答えだった。
雪がまた、ゆっくりと舞い始める。
けれど、それはもう、姉妹にとって“凍える絶望”ではなかった。
「お二人とも、早くお部屋へ。せっかく暖まった体が冷えてしまいますよ」
ルスの優しい声が屋敷に響く。
「あ……はい!」
この冬の中で、ようやく見つけた、小さな灯り。
それは、静かに揺れる暖炉の火のように。優しく、あたたかく──それでいて、けっして揺るぎない強さで、彼女たちを包んでいた。
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