第1話 凍える森の逃亡者
雪が降っていた。
いや、降っているどころではない。吹雪だ。
白銀の針のような雪が、空から無数に突き刺さり、森の木々を覆い尽くすように積もっていく。
その雪を踏みしめながら、二つの影が森の奥を駆けていた。
一人は少女、もう一人は年端もいかぬ女の子。
黒く錆びついた足枷が、二人の足に重く絡んでいた。
走るたび、千切れた鎖の先が跳ね、ガチャリと耳障りな音を響かせる。
姉であろう少女の左脇腹には深い傷があるらしく、衣服の隙間から赤黒い血が染み出していた。
それでも彼女は止まらない。
血に濡れた手で傷を押さえ、もう一方で妹の小さな手を握りしめる。
倒れたら……終わりだ。捕まれば、あの地獄に戻される。
「走って、ミオ……っ、もう少し……っ」
絞り出された声はかすれていた。喉は凍え、肺は悲鳴を上げている。それでも叫ぶ。止まっちゃだめだと、自分に言い聞かせるように。
妹──ミオと呼ばれた銀髪の獣人の少女は、ただ黙ってその手にしがみついていた。
表情はない。けれど、小さな唇は真っ青に染まり、微かに震えていた。
背後から怒声が響く。
「こっちだ! 足跡があるぞ!」
「チッ、ついてねぇな──何でこんな所で事故るんだよ!」
森の中で、奴隷輸送の馬車が事故を起こしたのだろう。
何が原因だったのかはわからない。だが、姉妹にとってそれはわずかな──本当に、わずかな希望だった。
が……その認識は誤りだったのかもしれない。
森の奥から、低い呻き声が響く。
ガルル……と、獣のような、それでいて人語のような不気味な音。
木々の間を抜け、何かが近づいてくる。
血の匂いに惹かれた魔物だ。
「……いや……こっち、くる……!」
ミオが初めて声を発した。震えた小さな声だったが、姉にはそれがしっかりと聞こえた。
彼女は歯を食いしばると、さらに歩を早める。
足枷のせいでまともに走れない。
裸足の足はすでに裂け、赤い血が白い雪に鮮やかににじんでいく。
それでも立ち止まらず、ただ必死に駆ける。
やがて、木々の隙間に一つの影が見えた。
小屋──雪で半ば埋もれてはいるが、確かに建物がある。
「……あれ! あそこに……!」
姉は妹の手を引いたまま、ほとんど転がるように雪をかき分け、小屋の扉へと駆け込んだ。
がたん、と乱暴に扉を閉じ、側にあった荷物を当てがう。
姉妹は息を殺して、壁際に身を寄せ合う。
外の怒声はまだ聞こえるが、小屋の存在には気づいていないらしい。
雪が足跡を隠してくれているのかもしれない。
姉は乱れた呼吸を整えながら、妹の頭を抱き寄せる。
その手の震えは止まらない。冷え、恐怖、そして失血による衰弱が、じわじわと命を削っていた。
「……ミオ、大丈夫……?」
「……うん。お姉ちゃんこそ……血、いっぱい……」
ミオは小さく顔を上げ、姉の傷口を見た。
その目には、言い表せない不安と、それを必死にこらえる強さが混ざっている。
「大丈夫。すぐ、止まるから……少し、休んで……」
そう言って、姉はミオの頭にそっと手を添えた。
温かい手だった。冷えきった世界の中で、そのぬくもりだけが彼女たちをどうにかつなぎ止めていた。
だが──その静寂も、長くは続かない。
扉の外、雪の中を踏みしめる音が、ゆっくりと、小屋へ近づいてくる。
追手なのか、それとも魔物なのか。二人にはわからなかった。
息を殺して、ただ祈るように身を寄せ合う。
わずかな希望が、消えぬように……。
それが“あの人”との出会になることを──このときの二人はまだ、知る由もなかった。