8.魔法の呪文はガラムマサラ
時はちょっと遡る。
食べ物と言えば、調べようと思っていたものがもう一つ。
そうあれは、貿易大国と名高いガムラン連合王国に行った時のこと。三つ隣の国であり、そこそこ交易があるために呼ばれた即位式。そこで食べた、懐かしきカレーの味が忘れられなくて。
友好国の外交官として招かれた晩餐会。
すごく懐かしい匂いと味……よりはちょっとクセのあったカレーが、また食べたい。
「……フェリシア、香水変えた?」
「いいえ?」
またカレーが食べたいなぁと思いながら、いつものように他国向けの書状の下書きをヴィクトルに渡す。書類を受け取ったヴィクトルは不思議そうに首を捻っている。
「なんだかとてもスパイシーな香りがするけれど」
「お腹が空きそうな匂いだよな」
同じくヴィクトルへ書類を渡しにきたらしい同僚のイェオリが、私の肩口ですんっと鼻を鳴らす。私はそれとなく彼の赤毛を引っぱってやった。
「いったいなぁ!? 何するんだよっ」
「女性の匂いを嗅ぐなんて非常識」
私以外の令嬢にやったら、間違いなくスキャンダルだよ。私で良かったね。しかもここが外交官の執務室で良かったね。他の令嬢がいたら、明日にはイェオリの醜聞が広がってたよ。
しゅばっと俊敏に動いて私から距離をとったイェオリだけど、それでもやっぱり鼻をくんくんひくつかせている。
「やっぱり美味しそうな匂いがする」
ヴィクトルからもじっと見られてる。
まるで私が犯人みたいに……! まぁ、私が犯人ですけど!
「香水じゃないです。香辛料です。カレーの材料です」
私はお守りのように首から下げていた、カレースパイスの匂い袋を彼らに見せてあげる。
「……フェリシアだから驚かないけどさ。どうして職場にそんなものを持ってきたのかな?」
「カレーの香辛料調合に詳しい方がいないかなって思って?」
ヴィクトルの質問に、私も質問形で答えてしまう。ヴィクトルが深いため息をついて、両手で顔を覆ってしまった。
「どうして香辛料調合に詳しい人物が、ここにいると思ったんだい……」
「皆さん、他国に赴かれている機会も多いので、それなりに異国の文化を知っているのかと思って」
そう言いつつ執務室をぐるりと見渡すと、室内にいた全員に思いっきり顔を逸らされてしまった。どうして!
「とりあえずフェリシア、今提出した書類を持って、ちょっと別室に行こっか」
「秘密のお話ですか。ここじゃ駄目です?」
「ここだと皆の鼻に悪いんだよ。自覚して」
私はハッと気がつく。まさか私、うっかりスメハラしちゃってた……!? 昨日休みだったから、ずっと家でスパイス調合してたせいもあって、私の鼻が狂ってたせいで……!
私はごめんなさいと言おうと踵を返したけど、そんな私の肩をヴィクトルが掴む。そのままイェオリに見送られながらヴィクトルに引きづられ、別室に強制連行されてしまった。仕方ないね、謝罪はまたあとでしよう。
❖ ❖ ❖
「で、どうしてカレーの香辛料に興味を持ったの」
「前に、ガムラン連合王国へ行ったじゃないですか。あの時のカレーの味が忘れられなくて。また食べたくて、香辛料を取り寄せてみたんです」
ついでに、前世で食べていたカレーに近い味にしてみようと凝り始めたのがよくなかった。香辛料の香りを嗅ぎすぎて、匂いがちょっと今分かりづらくなってしまったんだよね。
そういう経緯です、と伝えると、ヴィクトルは小さく嘆息する。ついでとばかりに、私が提出した書類にも目を通しながら、小言を連ねていって。
「別に僕はね、君の趣味を否定したいわけじゃないよ。外国語を学びたいなら、外交官になるといいよって勧めたのは僕だしね。だからといってね、さすがに職場の風紀を乱すのは良くないと思わないかい?」
「風紀を乱す……? えっ、カレーの匂いってお腹が空く幸せの匂いじゃないんですか?」
「香水もそうでしょ。つけすぎると臭い。それと同じ。気をつけて」
ちょっとどころか、だいぶショックだ。今日の私は、やっぱり歩くスメハラ人間だったらしい。それは大変申し訳なかった。
「分かりました。二度と職場にカレースパイスを持ち込みません」
「僕も二度とこんな注意したくないよ……」
げんなりして言うヴィクトルに、ごめんなさいと頭を下げた。彼は片手を軽く上げて、ついでに私に添削したばかりの書状の下書きを渡してきた。
「はい。スペルミスが六個。それ以外は問題なし」
「ありがとうございます」
「ついでにスパイスの調合の秘訣を知りたいなら、食堂の厨房に行くと良いよ。ガムラン連合王国出身の人がいるから」
「えっ、本当ですか」
「仕事が終わってからね」
俄然、やる気が出てきた。
別室への隔離なんてなんのその。私はヴィクトルに教えてもらった食堂の人に会うため、気合いを入れて書状の清書をした。
❖ ❖ ❖
休憩の鐘がなった瞬間、私は食堂に駆けこんだ。
「たのもう!」
「はい、たのもうねー。でも今はお昼じゃないよー。夕食にも早いよー。居残り残業お肌の天敵、お姉サン可愛いから夜道気をつけてー」
ゆるゆる呼びこみというか、合いの手というか。独特な雰囲気でいつも食堂の配膳をしているおじさんがいる。この人がヴィクトルの言っていた貿易大国ことガムラン連合王国出身のテシャさんだ。
私は食堂の配膳口に向かうと、配膳カウンターにいるテシャさんに声をかけにいく。
「テシャさん、カレーのスパイスの調合について教えてください」
「スパイスの調合? えー、そんなのてきとー。うちはカレー屋じゃないのよー。でもお姉サン好きなら、料理長にかけあっちゃうよー」
「食堂メニューで食べたいわけじゃないんです。自分で調合したいんですけど、理想の味にならなくて」
そう言うと、テシャさんは鼻をひくつかせて。
「お姉サン、スパイスいれすぎよー。二十種類くらい入れてるでしょー」
「えっ、分かるんですか……!?」
私、まだスパイスも出していないのに。
びっくりしていると、テシャさんはうんうんと頷いて。
「お姉サン、お腹空く匂いしてるもんねー。ずっとお腹空いてるんじゃないー? やっぱご飯食べてくー?」
なんかイェオリみたいなことを言われた。
私、そんなにお腹の空いてる匂いしているのかな……?
「ご飯のことより、スパイスについて教えてください」
「スパイスはねー、基本は三つよー。風味と辛味と色味。お姉サンのスパイス、風味が喧嘩しちゃってるよー。かわいそー」
お腹の空く匂いと言いつつも、風味が喧嘩しているのか。たぶん風味の強いスパイスを入れすぎたのが原因ってこと?
「カレーってすごいですね。こんなにもたくさんのスパイスから選んで、自分好みのものを作るんですもん」
「ガムラン伝統の味ねー。おいしいねー。ガラムマサラつくるの楽しいねー。喧嘩しないで作ってねー」
ん?
今、何かが気になった。
「ガラムマサラですか?」
「んー? あ、こっちの国だと、ミックススパイスかも」
「ガラムマサラ!」
待って! ガラムマサラ! ガラムマサラ! カレーに必須のガラムマサラ!
これは偶然ですか? いや必然でしょ!
「あの! ミックススパイスって、ガムランだとガラムマサラって言うんですか?」
「そだよー。国民人数分の種類あるよー」
「ガラムマサラー!」
すごい、すごい! カレー恋しいって思っていたけど、こんなところに転生者の足跡あるなんて! たぶんガラムマサラは地球由来だよね、そうだよね……!
「ありがとうこざいます! 私、がんばります! またお話を聞かせてくださいねー!」
「がんばって仕事してー。ディナー欲しけりゃ、ちゃんと来てー」
私はるんるん気分で食堂をあとにする。
ガラムマサラについて調べよう。やっぱり現地には何某か残ってるんだ。となると、ガムランの言葉で書かれた本を取り寄せなくちゃ。ちょっと楽して翻訳されたレシピでカレーを作ろうとしたのがよくなかったね。本格志向で原文読んでたら、気づいたかもしれないのに……!
ガラムマサラをたどる楽しみが増えて、私はスキップしながら執務室へ戻った。
食べ放題で必ずカレーを食べるのが趣味です。ビーフ系のカレーよりも、じゃが芋や人参がごろっと入っているカレーを見つけるとテンションが上ります。食べ放題でチョイスしてはいけないといつも後悔するんですが、好きだから困りますね……!