64.わたし以外わたしじゃ……
クーヤくんとの別れ際、言われたことがある。
――何か、変なもの食べたりとか、吸ったりとか、してない?
クーヤくんはわたしのこの状況を、記憶喪失じゃなくて、前世の記憶だけを強く引っ張り出しているんじゃないかと言っていた。麻薬で見る幻覚のようなものだって。あるいは催眠術に近いものかも、と。
この世界には神様も魔法もないけれど、心を支配する残酷な方法は幾らでもあるらしい。詳しくは教えてくれなかったけれど、クーヤくんは神官たちがわたしに対してそういったことをしていなかいかを心配してくれたみたい。
その時は何も言わなかったけれど、心当たりが一つだけ。
毎日飲むように言われている銀色の薬。クーヤくんの言葉を信じるのなら、怪しいのはあの飲み物だ。なので、試しに飲むのを止めてみた。
銀色の飲み物は頭痛に効くけれど、考えることに向かない。頭痛がするのはたぶん〝フェリシア〟としての記憶を思い出す時だから、この痛みは必要なものだと思うことにした。
とはいえ、銀色の薬は絶対に飲むように神官から言われている。そろそろ頭痛も前ほどひどくないし、飲むの止めていい? って聞いたら、ボフミルに無理やり飲まされそうになった。その反応がさらに怪しいと思ったので、銀色の薬はこっそり流して捨てている。
そうして三日目の夜。
わたしは基本的に一日中、地下にある書庫の中で、〝神の国〟にまつわる知識の仕分けをしている。そうはいっても数はそんなに多くないので、もうすぐ終わりそうなんだけれど。
「封印指定されたら禁書にするってボフミルは言っていたけど……これをこの国が独占しているのが嫌な感じがする」
今、私が読んでいたのは、水にいれると爆発する土についての報告書。粘土のように柔らかいらしい。水に触れると爆発するので保存方法が細かく書かれている。まるで金属ナトリウムみたい。出土場所も書かれていて、科学の教科書を読んでいる気持ちになった。
これが本当に金属ナトリウムだったとして。わたしはナトリウムの正しい使い方や便利な使い方をこの国の人たちに教えてあげられない。水にいれると爆発するから危険なもの、としてこの報告書には書かれている。でもナトリウムといえば、塩だってナトリウムだし……。
この世界に原子や分子の概念があるかは分からない。今後、科学が発達したらきっと分かることも多いはず。科学の発達の良し悪しはわたしには分からないけれど、そっと報告書を封印指定じゃない束に重ねておいた。
そろそろ寝支度しようかなと伸びをした時、コツコツと足音が響いた。誰かが来る。重たい扉がぎぃっと開くと、ロナルディーナがやってきた。
『体調はいかがですか、サチ』
『あ、はい。大丈夫です』
ロナルディーナはにこにこと笑顔を浮かべながら、わたしの作業していた机に歩み寄る。彼女は一番上に重ねられた金属ナトリウムっぽい物質の報告書を手に取った。
『水に入れると爆発するのですか。こんな危ないものは、封印しても良いのではありませんか』
『まだ判断できません。わたしの世界のものと同じなら、これを封印することはできないと思います』
『どうして?』
どうしてと言われましても。
『これ、精製だけじゃなくて出土場所も書いてありました。水に触れて爆発するなら、出土場所そのものが危険です。その危険性はきちんとその土地の人に知らせるべきです』
地球では金属ナトリウムは自然界に存在しないって言われてた。たしか反応しやすい金属で、塩みたいにすぐに何かとくっつく性質があったから。それがこの世界では単体で存在しているのが不思議すぎる。もしかしたら金属ナトリウムじゃない未知の物体かもしれないけれど。
とはいえ危険な物質であることには変わりないので。安全な採取方法や活用方法を模索してほしいところ。そういう意味で、禁書として封印しないほうを選びました。
でもロナルディーナはそれが気に食わないようで、わたしが仕分けた紙を禁書指定の山のほうへ積み直してしまう。
『サチは人の愚かさを知らないのですね』
深々とため息をつかれてしまった。過去に何があったかは知らないけれど、それをわたしに押しつけられても困る。この人たちは一事が万事そんな感じだから、話しているとすごく疲れてしまうんだよね……。
なのでわたしは話題を変えることにした。
『ロナルディーナさんがここに来るのって珍しいですね』
『そうでした。明日、神樹ゴドーヴィエ・コリツァの伐採の儀を執り行います。朝、迎えの神官が来ますので、指示に従うように』
それだけ言うと、ロナルディーナは踵を返そうとした。わたしはそれを引き止める。
『あのっ、ロナルディーナさん! 聞きたいことがあります!』
『なんでしょうか』
ロナルディーナは足を止めて、わたしのほうを振り返る。にこりと笑顔も添えられた。
『わたし、この儀式が終わったら帰れますか?』
『帰る? どこに?』
ぞわりと背筋が粟立った。
ロナルディーナの眼差しはあまりにも冷たくて、話しかけたわたしを愚かだと貶しているかのよう。でも表情はにこやかで……聞きたいことはいっぱいあったのに、その顔を見たら言葉が引っ込んでしまった。自分を自分で抱きしめながら、うつむく。
わたしの肩に、細い指先がかかる。
『冗談ですよ。信じる者は救われると言いますから。神樹ゴドーヴィエ・コリツァが、きっとサチを神の国へと導くでしょう』
ふわりと香る、甘い匂い。
ロナルディーナの香水が鼻腔をくすぐると、まるで頭の奥が痺れたかのように思考が鈍くなって。
『ねぇ、サチ。頭は痛くないかしら』
『頭……いたくない、です』
『嘘。私には分かりますよ。我慢しないで本当のことを言いなさい』
ロナルディーナがそう言うと、頭が痛い気がしてきた。ツキツキと、ツキツキと。脳を誰かがノックしているみたい。
『サチ。頭痛がする時はどうするのだったかしら』
『くすりを、のみます』
『そうね。サチは良い子だわ』
いつの間にか銀色の液体がなみなみと注がれたカップが机の上に置いてあった。わたしはロナルディーナにそれを渡されて、カップに口を付ける。そうしろとロナルディーナが言うので、そのまま飲み干そうとして。
ズキン、とひと際強く頭痛がして、カップを落としてしまった。
「いたい……っ」
『……暗示が解けかかっているのかしら。それとも完璧じゃなかったのかしら。神子って本当に厄介ね。やりすぎても、前回の神子みたいに壊しかねないし……』
ロナルディーナが何か一人でぶつぶつとぼやいている。よく聞きたいと耳を澄まそうとしても、頭痛がひどくて耳鳴りまでしてきた。これは、良くない。吐きそう。
「うぅ〜……っ」
『汚いわね。ボフミル、適当に処置しておいて頂戴』
『御意』
誰かが去る代わりに、誰かがやってきた。肩を掴まれて、無理やり立たされる。ベッドに突き飛ばされた。
『お前が神子など甚だ腹立たしい。異端を異端と見極められないただの気狂いではないか』
男の声がする。さっきまで女の人だったのに。
ベッドの上で楽な体勢を求めてもぞもぞしていたら、いきなり髪を引っ張られて。無理やり身体を起こさせられて。
「いたいっ! いたいってばぁっ!」
『さっさと飲め。手を煩わせるな』
口もとに何かがあてがわれる。液体だ。口の中にとろりと入ってきた。噎せた。
「けほっ、こほっ」
『面倒な。さっさと飲め』
飲みたくないのに無理やり飲ませられる。とろりとした液体を飲むと、頭がぼうっとして、お酒を飲んだ時のように視界がぐらぐらと揺れだした。
なんだか、涙が出てくる。
なんで、こんな扱いをされないといけないのか。
どうしてわたしがこんな目に遭わないといけないのか。
「帰りたい……家に帰りたい……」
ぽろぽろと涙が流れていく。ベッドの上でくたりとしていると、人の気配が遠ざかっていった。
しばらくして、わたしはめそめそとしながら、シーツをたぐり寄せて頭からかぶった。
帰りたい。家に帰りたい。でも帰れない。だってわたしは。水森咲千は。きっと、たぶん、死んでいる。
「帰りたいよ……おとうさん、おかあさん……」
『……泣いているのかい、フェリシア』
どれくらい泣いていたんだろう。気がついたら、誰かがそばにいて、わたしの名前を呼んだ。
『ヴィクトル、さん?』
『あぁ。クーヤ殿から話を聞いて、君に会いに来たんだ』
クーヤくんから?
わたしはシーツからちょっとだけ目をのぞかせた。菫色の瞳が見える。ヴィクトルの、綺麗な目。
『泣いていたけど、どうしたんだい。頭痛がひどい?』
ふるふると頭を振る。そうするとヴィクトルはシーツ越しにわたしの頭を撫でてくれて。
『じゃあどうして泣いていたんだい』
『……帰りたくなっちゃったんです』
一瞬、ヴィクトルの手が強張った。でもすぐにまた、わたしの頭を撫でてくれる。
『ここは君にとって、過ごしづらい?』
わたしはこくんと頷いた。
『ここは寂しいです。わたしは神子であって、それ以上でもそれ以下でもない。わたしは水森咲千なのに、それを共有できる人が誰もいない。……ヴィクトルさん。フェリシアさんだったら〝わたし〟を共有できますか』
この部屋は息苦しい。神子としての役割を押しつけられるばかりで、わたしはわたしらしく生きられない。わたしを水森咲千と呼ぶくせに、神官は〝水森咲千〟に興味がないの。
でも、フェリシアだったら。
わたしがこの世界で生きている〝フェリシア〟だったら。
『こんなに寂しくないのかなぁ……っ』
大粒の涙で視界が歪む。
その瞬間、大きな腕がわたしを包み込んで、抱きしめてくれた。
『……ごめん、フェリシア。いや、サチ』
ヴィクトルがわたしの名前を呼ぶ。フェリシアじゃなくて、サチと呼ぶ。
『僕、きちんと理解していなかったよ。君がフェリシアだと信じて疑わなかった。クーヤ殿から、フェリシアとサチの関係性を聞いたよ。フェリシアもサチも同じ人間だけど、違う人間だってことを理解していなかった』
ヴィクトルの腕がぎゅうっとわたしを締めつける。ここにいるのが〝わたし〟だと示すように、わたしの輪郭を教えてくれる。
『君の先に、サチの生きた先にフェリシアがいたんだ。それは揺るぎない事実だ。僕からはそうとしか言えないけれど……でも、君も、サチという存在も、僕やこの世界の人たちにちゃんと繋がっているよ』
あんなにひどかった頭痛が、ヴィクトルの言葉ですっと引いていく。耳を塞ぐようにしていた耳鳴りも消えていった。ただ、ヴィクトルの言葉だけが私の全身に響いていく。
私は煤だらけのヴィクトルの背中に腕を伸ばす。ぎゅうっと彼にしがみつく。
『わたし、ヴィクトルさんの中に、いますか』
『いるよ。ちゃんといる』
『……ずるいなぁ……すごくずるい……』
分かってる。こんなにも彼に思われているのは〝水森咲千〟じゃない。〝フェリシア〟だってこと、分かってる。でも私は、未来の自分が羨ましくて仕方がない。
『ヴィクトルさん、一つ我が儘を言ってもいいですか』
『いいよ。叶えられることなら』
言いましたね?
男に二言はありませんね?
『それなら……キスしてください。一瞬だけで良いんです』
ヴィクトルの息が止まった。
そっと身体が離される。
『それは……さすがに……』
『この間の。覚えてますよ。あの時は私から受け取っちゃ駄目ですって言いましたけど、撤回します。私の分を、サチからの好きの気持ちも、受け取っておいてください』
ふわふわとした心地よい酩酊感。もう孤独感なんてない。この人がいれば。ヴィクトルがいれば。私は何者だっていい。そう思えたから。
私はシーツを被ったまま、ヴィクトルの首へと腕を回す。
『サチ……っ』
『私が好きなんだから、たぶんフェリシアも……』
その先は言ってあげない。
シーツ越しに、ヴィクトルへとキスをした……と、思う。
『……サチ、大丈夫かい、サチ?』
そうだった。薬を飲まされたのを忘れていた。
ぐるりと視界が暗転する。目がまわった私は、ちゃんとキスができたか分からないまま、意識を手放した。




