62.フェリシアとチサ(side.ヴィクトル)
目を離すと何をするのか分からない。手の届かない場所で取り返しのつかないことをされるより、自分がその隣にいて支えてやりたい。彼女に対してそう思うようになったのは、いつの頃だっただろうか。
フェリシアの隣に自分がいたい。火の中に飛びこむ覚悟に比べたら、身分差を埋めるための努力なんてきっと簡単だ。そうとすら思ったのに。
「えぇと……ヴィクトル、さん? ですか? わたしの、上司の……」
クーヤも双子も言っていた。まるで知らない人のように話されたと。でもそれは神子の立場として、そういう振る舞いを求められたからだろうと、そう思っていた。
でも、違った。
まるで心臓が軋むように痛む。ヴィクトルはそれに気づかないふりをして、ゆっくりと頷く。
「君はフェリシア・エリツィン伯爵令嬢。それは分かる?」
「えぇと、その……」
彼女の視線が左右に彷徨く。言いづらそうにする様子はいつものフェリシアだ。それから彼女は、観念したようにヴィクトルを見上げて。
「わたしの身体が〝フェリシアさん〟という人の物だと聞いています……わたしは、その……この人の身体に入りこんでしまった別の魂だって、ロナルディーナさんから聞きました」
ヴィクトルの理解が一歩遅れた。別の魂が、フェリシアの身体に入りこんだ?
「……その別の魂というのが、ミモリサチ?」
「あっ、よくご存知ですね! そうです、水森咲千と申します! 水森が性で、咲千が名前です」
フェリシアの顔で知らない人間の名前を言われる。あまりにも奇妙な感覚に、ヴィクトルの表情は強張りそうになった。
でも、怖い顔をしていては彼女を怖がらせるだけ。今の彼女にとって、ヴィクトルは突然現れた知らない人間のようだから。
自分の気持ちをぐっとこらえて、ヴィクトルは笑おうとした。でも、その笑顔は失敗して、泣き笑いのような、変な顔になってしまう。
「サチ、か……違和感があるな」
「そうですね……わたしの名前なのに、ヴィクトルさんから呼ばれると、ちょっとしっくりとこないです」
彼女もまた首を傾げている。その表情がフェリシアそのものなので、余計にヴィクトルの胸がさざ波立つ。
「それでヴィクトルさんは何しにここへ? 煙突から落っこちてくるなんて、あわてん坊のサンタクロースみたいですね」
「サンタクロース?」
聞き慣れない言葉だ。これもアニマソラ神樹国の神官たちが言う〝神の叡智〟なのだろうか。
ヴィクトルが聞き返すと、彼女は真顔でこっくりと頷いて。
「クリスマスの夜にプレゼントを置いていく赤い服を着たおじさんです。この世界ではシンタクラースと言って、ユールラッズ雪原国の伝統行事として……っ!」
話している途中で、彼女は頭を抱えてしまった。とっさにヴィクトルはふらついた彼女の身体を支える。
「大丈夫かい?」
「あ、はは……その、たまに、この世界の話を思い出そうとすると、頭痛がするんです……おかしいですよね……わたし、この世界の話なんて知らないはずなのに」
そう話す時の彼女の表情が、いつかのフェリシアと重なった。あれは、そう。火山の町ウルカノラで、ヴィクトルがフェリシアを叱った時。あの時のフェリシアは、まるで迷子の子どものように途方に暮れていた。
今の彼女は、その時のフェリシアと同じ。
言葉や表情に残るフェリシアの面影に、ヴィクトルはすとんと腑に落ちた。
「……やっぱり君は、フェリシアなのか」
「え……?」
森林のような緑の瞳が、ヴィクトルを見た。
ヴィクトルは彼女の頬にふれる。
「君は間違いなくフェリシアだ。たとえ神の国から来たとしても、君はフェリシア・エリツィンとしてここで生きていた。それは僕が証明する」
彼女の瞳が不安に揺れる。
ヴィクトルの言葉に、困惑したような表情になる。
「証明って……わたし、あなたのこと、知らないのに」
「僕は君のことを知っているよ。約束したからね。君が綴る本の最後には、僕が君の名前を綴ってあげるって」
「約束……?」
頭痛がするのか、彼女の表情が辛そうに歪んだ。これ以上話すのは、彼女の負担にしかならない。ヴィクトルはそう思って、彼女から離れようとして。
「待って……! ヴィクトルさん、本って、なんですか……っ! フェリシアさんが、何をしようとしたのか、教えてください……っ」
ヴィクトルの袖を掴み、引き止めた。その表情は苦しそうで、ヴィクトルは躊躇する。
「頭痛がするんだろう? 休んだほうがいい」
「だめです! なんか、だめなんですっ! 今聞かないとっ! 分かんないんですけど……っ、わたし、すごく大切なことを忘れてるんだと思うんですっ」
必死になってヴィクトルに縋る彼女の姿。
――私、もっと色んな場所に行きたいんです……! 外交官の仕事、辞めたくないです……!
それもまた、いつかのフェリシアの姿と重なる。
記憶を失っても、フェリシアはフェリシアだ。
だからヴィクトルは彼女に笑いかけた。安心させるように。彼女の願いは自分が叶えてあげると言うように。
「君は……フェリシアは、本を作ろうとしていたんだ。〝存在しない言語〟を知る人たちを集めた本を」
「〝存在しない言語〟……?」
「この国ではそれを〝神の国〟のものだというらしい。でも君は、その〝存在しない言語〟をニホンゴやエイゴだと言っていた」
緑の目が大きく瞠られる。
それからおそるおそるとした様子で、彼女はヴィクトルに問いかける。
「どうしてフェリシアさんは、本を作ろうと……?」
「そうだね……僕が聞いた時はこの〝存在しない言語〟を知る人が現れた時に、心の支えになればいいと言っていた」
「心の支え……」
そう。フェリシアはそう願いながら〝存在しない言語〟にまつわる人々の話を集めていた。それがどういう意味か、ヴィクトルはずっと分からなかったけれど。
「君は、フェリシアがどうしてそれを作ろうとしたのか分かる?」
「ふぇっ!? わたしですか!?」
ぎょっとしたように聞き返される。こんな反応すらフェリシアと同じなのだから、やっぱり別人なんてあり得ない。ヴィクトルは目を細めると、彼女に向けて微笑んだ。
「うん。君に聞いてみたいな」
「えぇっと、うーん……」
忙しなく緑の瞳を右往左往させながら考えるその様子も、フェリシアらしい。彼女の仕草、その一つ一つが、やっぱりヴィクトルのよく見慣れたもの。こんなにも自分がフェリシアのことを見ていたなんて。
彼女の表情をじっと見つめていたら、不意に彼女は顔をあげた。
「あの、たぶんなんですけど……フェリシアさん自身が、心の支えにしたかったから、とかですかね……?」
「フェリシア自身が?」
当時、自分がフェリシアにした言葉と同じ言葉を彼女は言う。ヴィクトルが聞き返すと、彼女は頷いた。
「もし、なんですけど。もしわたしがフェリシアさんだったら……その、他の人が日本と違うこの世界でどうやって生きていったのか、この世界に根づいていったのか、知りたくなるかもなって、思いまして……」
「この世界に、根づく?」
そんな視点、今まで持ったこともなかった。
思いがけない答えにヴィクトルがじっと話の先を待っていると、彼女はそわそわとしながらも言葉を続けて。
「わたし、大学で歴史について勉強していたんです。昔の人の文化や生き方を学ぶのが好きで……だから、思うんです。わたしが〝わたし〟のまま、別の世界に生きることになったら。きっとわたしは、先人たちの生き方から、この世界での生き方を学ぼうとするんじゃないかなって」
彼女の言葉はまるで水のようにヴィクトルの胸の中に染みわたった。
(そうだ。フェリシアから感じるあのもどかしさは……きっと、そうだ)
フェリシアが〝存在しない言語〟を持つ人を見つけた時に見せる、安堵の表情。きっとフェリシアは先人たちの生きた跡から、何かを見つけては心の支えにしていたのだろう。
それはヴィクトルには理解できないところ。そしてフェリシアはそれを、ヴィクトルには教えてくれなかった。たぶんフェリシアのほうも、ヴィクトルに理解を求めようとは思っていなかったのかもしれない。だからいつも、確信をつこうとすればはぐらかされた。
(それはかなり……悔しいな)
クーヤに言われたことが胸に棘となって残っている。フェリシアが話そうとしなかったことを今、ヴィクトルは暴こうとしている。それを心に留めながら、目の前にいる彼女に問いかけた。
「……君のことについても、教えてくれるかな」
「わたしですかっ? えぇっ、話すことなんてほとんどないんですけど……っ!?」
「言っただろう? 僕はフェリシアが綴った本の最後に、君のことを書く約束をしたんだって」
しどろもどろになる彼女に、ヴィクトルは片目を瞑ってみせた。すると彼女の頬が真っ赤な林檎のように熟れて。
「顔面偏差値高すぎませんか……」
「何か言ったかい?」
「いいえっ!」
小さなつぶやきはヴィクトルには届かなかった。彼女はしばらくちらちらとヴィクトルを見ていたけれど、不意にてれっと笑みくずれる。
「フェリシアさんって、素敵な方なんですね」
話をそらそうとしたらしい彼女が突然そんなことを言うから、ヴィクトルは面食らった。
「……どうして、そう思ったんだい?」
「だってヴィクトルさん、フェリシアさんのことが好きなんでしょう?」
はにかむ彼女に、今度はヴィクトルのほうが赤くなった。とっさに手で口もとを隠して、視線をそらしてしまう。
「……そんなに、分かりやすいかい?」
「こんなに煤だらけになってまで、フェリシアさんのところに来て。ここの人たちってすごく閉鎖的だから、こうやって忍びこむしかできなかったんじゃないですか? その、ここにいるのがフェリシアさんじゃなくて、わたしで申し訳ないんですけど……」
申し訳なさそうに言う彼女に、ヴィクトルは手を伸ばした。安心させるように、ここに居てくれて良かったんだと伝えるように、金色の頭をぽんと撫でてやる。
「いいや、君はフェリシアだよ。ただ少しだけ、忘れてしまっているだけさ」
森林のような緑の目が大きく見開かれる。それからくしゃりと表情が歪んで。
「わたし、生まれ変わったら、ヴィクトルさんみたいな人を好きになりたいです」
「それは僕の気持ちを受け取ってくれるってことかい?」
「わたしから受け取っちゃ駄目ですよ。ちゃんとフェリシアさんから受け取ってください」
泣き笑いのような表情で、彼女はヴィクトルから離れた。それからヴィクトルの背中をぐっと押してきて。
「そろそろ戻ってください。神官さんが薬を持ってくる頃ですから」
「薬を飲んでいるのかい」
「頭痛がひどくて……痛み止めを飲んでるんです」
そう言った彼女は今も頭痛がするのか、少しつらそうだった。逡巡しているいうちに、どこからかコツコツと靴音が聞こえてくる。地下に続く階段を歩く音。ヴィクトルはハッとして息を呑む。
「ほら、急いでくださいっ」
彼女に急かされて、ヴィクトルは暖炉の中へと潜りこむ。
「……無茶はしないように。きっと君を、取り戻してみせるよ。フェリシア」
はにかむ彼女の表情を目に焼き付けて、ヴィクトルは煙突の中にある隠し通路へと潜りこんだ。
自分の部屋へと戻る道すがら、ヴィクトルは思う。
(彼女は気づいていないかもしれないけど……彼女はずっとハルウェスタ語で話していた。忘れているだけで、彼女はやっぱりフェリシアだ)
どうしてフェリシアの記憶がないのか。
それがきっと、フェリシアを取り戻す鍵になる。




