32.領地をお散歩(side.ヴィクトル)
滞在四日目。ヴィクトルが書斎に行くと、外出着のフェリシアがいた。時期柄、寒くなってきたので、彼女はもこもこのケープを羽織っている。
「ヴィクトル様、ごめんなさい。今日明日はちょっと予定があるので、翻訳のお手伝いができません」
「今から出かけるのかい?」
「明日、テネッコン作りに協力してくれる工房の方がいらっしゃるんです。なので今日のうちにテネッコンの設置場所を決めないといけなくて」
さきほど先触れが届いたのだとか。すっかり忘れていたと肩をすくめるフェリシアに、ヴィクトルもつい苦笑する。
「目星はついているのかい」
「だいたいは。候補地が二カ所あるんですけど、決めかねていたので、実際に現地に行ってみようかなって」
そう言ったフェリシアは、ふと思い立ったように小首を傾げる。
「ヴィクトル様も一緒に来ますか? あまりうちの領地に来ることもないでしょうし、案内しますよ」
「それなら行ってみようかな」
家主というか、部屋の主であるフェリシアを差し置いて一人で書斎に籠もるのも居心地が悪い。一週間ずっと引きこもっているつもりだったヴィクトルだけれど、そういうことならと、フェリシアに着いていくことにした。
外套を羽織って馬車に乗りこむ。フェリシアとヴィクトルを乗せた馬車は滑らかに走り出した。
テネッコンの設置は、月の観測がしやすいようにいくつかの条件を満たした場所でないといけない。遮蔽物のない場所。空気が澄んでいて街明かりからも遠い場所。そして天候が安定する場所。可能な限り高い場所であればなおさら良い。
そんな条件を満たす場所は、エリツィン伯爵領でも多くはなくて。
「最初に行くのは〝べプオークの丘〟です」
「べプオークって……あのべプオーク?」
「そうです。涼しくなるとキリキリ鳴く小さい虫のべプオークです」
べプオークの季節は過ぎたので今日は静かだろうけれど、そこにテネッコン用の施設を置くのはどうだろうか。
「研究の邪魔にはならないかい」
「やっぱりそう思いますか? でも季節の風物詩なので、ずっとではないんですよね」
「それでも研究の妨げになるならやめたほうが良いんじゃないか?」
たとえ年中じゃなくても、研究の場に虫の声が響き渡るのはいかがなものか。
「月を見るなら観測時間も夜だし、べプオークが鳴くのも夜だ。それ以外にここが良いと思った理由はあるのかい?」
「ここ、丘を降りた先に古い墓地があるんです。丘を開拓しようとしたら見つかった墓地みたいで、不気味なせいか買い手がないんです。なので有効活用できればと」
どうやら曰く付きらしい。それは別の意味で研究員も嫌がったりしないだろうか。
「もう一つの候補地は?」
「ウェペナクス山です。うちの領地で一番高い山なんですが、ここの頂上に施設を作ろうとしたらちょっと建設費が馬鹿にならないんですよねぇ……」
それはそれで厄介だ。ただでさえ、テネッコンそのものの開発費も相当なもの。一大事業なので大きな金額が動くのも致し方ないけれど、何事も身の丈というものがある。候補地とは言うものの、フェリシア自身が担保できる建設費の予算を超えるようで、決めあぐねているのだとか。
「分かってるんですよ。こういうものは初期投資が大事だって。でも私、あんまりお金の使い方、上手じゃないみたいで……」
「商人としてはあんまり、利益が出なさそうだ」
サピエンス合衆国への出張の時にも思った。歯ブラシやテネッコンへの投資の仕方。目利きとしては良いのかもしれないけれど、後先考えないのが欠点なのは間違いない。フェリシアは目先のものに飛びついてしまう傾向がある。
そんなことをつらつら思っているうちに、馬車はべプオークの丘にまでやってきた。少しだけ小高い場所にある丘は、冬も近くなると空が少し近く感じられる。灰がかった色をしたどんよりとした雲に覆われて、心なしか肩が重くなったような気もした。
「丘というからもう少し見晴らしが良いのかと思ったけど、鬱蒼としているね」
「まぁ、お墓への道ですからね。丘を下った向こう側に墓地があります」
墓地への道が分かるよう古びた道標が立っているものの、丘のてっぺんには何もない。小高くなった山林といった所感だ。ヴィクトルは馬車から降りて周囲を散策するフェリシアのそばを付かず離れず着いていく。
「人は通っているのかな」
「墓守もいなくなってしまった墓地ですからね。持ち主不明のお墓ばかりです。ハルウェスタには弔い上げも墓じまいの概念も、ないみたいだし」
ぼそりと囁いたフェリシアの言葉を、ヴィクトルは耳聡く聞きつけた。
「墓じまい?」
「お墓をしまうんです。お墓の面倒を子々孫々と面倒見られるわけではありませんから」
なるほど、とヴィクトルは感心する。
貴族には代々継いでいる墓地があるし、平民にも共同墓地はある。だがここのように墓守すらもいなくなって、管理されなくなった墓地はどうなるのか。放置され、雑木林になり、よけいに近寄りがたいものになってしまえば、死者も浮かばれないだろう。
そうなる前に墓をしまう。それは面白い考えだ。
「もしここにするなら、あの忘れられた墓地もお墓じまいしてあげたほうがいいですよね。その費用と、共同墓地の手配もしないといけないかなぁ……」
ぼそぼそと呟くフェリシア。
普通なら、そんな曰く付きの土地に大事な施設を置こうとするのは避けるのだけれど、フェリシアはそのあたり気にしていないらしい。
「費用の工面が大変なら、しばらくはこのままにしておいても良いんじゃないかい」
「それは寂しいです。この領地はうちの管轄なんですし、見つけてしまった以上は責任とってお世話しますよ」
忘れられた死者すらも世話をすると言い切ったフェリシアの頭を、ヴィクトルはそっと撫でた。
昼になったので城下へと移動する。
フェリシアおすすめのパン屋でパンを買い、また馬車に揺られていく。エリツィン伯爵領は小麦が特産ということで、パンの種類が豊富だった。フェリシアはジャムやバターをたっぷり使った甘いパンが好きらしい。ヴィクトルはフェリシアが城下に広めたという〝カレーパン〟なるものを食べた。油でパンごと揚げているのが目新しく、中にカレーが入っていて食欲をそそられた。
腹ごしらえをする間にも馬車は進み、ウェペナクス山の麓に着く。
「さて、山を登ります」
「まさか、歩くのかい」
「歩きます。馬車は通れないらしいので」
そう言って山道に行こうとするフェリシアを慌てて引き止める。
「待ちなさい。馬車の馬を借りよう」
「えー、私、一人で馬に乗れません」
「この馬なら二人乗りができる。鞍はあるかい?」
ヴィクトルが御者に聞くと、御者は笑顔で鞍を用意する。お嬢様がウェペナクス山を登ると言っていたから、念の為用意していたらしい。首尾の良すぎる御者に、普段からフェリシアが伯爵家でどのように過ごしているのかが伺い知れる気がした。
手際よく馬に鞍を装着してもらうと、ヴィクトルはフェリシアを馬に乗せ、自分も後ろへと乗りこむ。山道で不安定な足運びの馬に、フェリシアはちょっとこわごわとしているようで。
「怖いかい?」
「怖いというか……支えがないと不安です」
「落とさないから安心して」
フェリシアにもう少し体重を自分に預けるように言って、馬を進めさせる。ぎこちなく身体を強張らせるフェリシアを安心させるため、片手を彼女の腹へとまわす。
「……ヴィクトル様って、女性に対していつもこうなんですか?」
「どういうことだい」
「その……距離感が近いというか……お腹に腕を回す必要あります?」
なぜか批難されたヴィクトルは呆れた口調で言い返す。
「君が不安だと言ったからだ。怖いなら腕を離すけれど」
「絶対にやめてください。離したら落ちます。間違いなく転げ落ちます」
自分の腹に回されたヴィクトルの腕を、フェリシアはぎゅっと掴んで早口に主張した。ヴィクトルは苦笑しながら、そのままの状態で山頂を目指していく。
ようやく山頂付近にまで来ると、少し開けたところに出た。フェリシアを馬から下ろし、ヴィクトルは近くの木へ馬を繋ぐ。
「そっちに山越えする人たちの休憩場所があるんです。そこをもっと広げられたら良いんですけど。休憩所兼天文台みたいにできたら理想です」
フェリシアに案内されてついていくと、屋根つきのベンチが設営されていた。さらにここからエリツィン伯爵領を見渡せるように、見晴らしもよくされている。たしかにここにテネッコンを設営できたら理想だろう。
「木材は開拓する時に出る伐採した木を再利用するとしても……その他の輸送費がやっぱり嵩張りそうですねぇ」
「山道が狭いのが問題だね。そっちの整備も視野に入れないと。商人たちはこの道を通って山越えはしないのかい」
「しませんね。急ぎの早馬と、地元の人が狩りに来るくらいです」
街道が整備されているので、大荷物を抱える商人がわざわざ通れない道を無理に通る必要はない。ヴィクトルも、多少の迂回になってもさほど損失にはならないなら街道を選ぶ。
フェリシアは「うーん」と頭を悩ませる。
「どっちが良いかなぁ」
「建設費用の概算は出ているのかい? 僕も一枚噛んでいるわけだから、色々と助言ができるかもしれない」
「本当ですか」
フェリシアの新緑色の瞳がきゅるりと輝く。光の魚が彼女の瞳の中で嬉しそうに泳いだ。
「ぜひお願いしたいです! それならすぐに屋敷へ戻りましょう! もー、最初からヴィクトル様に頼れば良かった!」
「頼ってくれるのは構わないけどね。君が自分でちゃんと考えて選ぶように。するのはあくまで助言だけだよ」
はーい、と返事をするフェリシアがさっさと馬のほうへと近づいていく。自己申告通り、馬に乗るのはこわごわとしていたのに、馬自身には怖がるそぶりはまったくない。鼻を撫でて「帰りもよろしくね」なんて言って話しかけているくらいだ。
そんなフェリシアを微笑ましく思いながら、ヴィクトルは彼女を抱き上げて馬へと乗せた。
あれマツムシが鳴いている〜。
実家は山なのですが、そろそろ秋の虫たちが求愛を始める頃でしょうか。子供の頃、クーラーのない部屋で窓を開けて寝ていたので、秋の虫たちの大合唱はお馴染みです。