31.ドレスの賞味期限(side.ヴィクトル)
ヴィクトルがエリツィン伯爵邸に滞在して三日目。書斎に向かう道中、フェリシアの情けない声がエリツィン伯爵邸内に響き渡った。
「持っていかないでぇ〜!」
「駄目です! 仕立て直します!」
廊下でメイドにすがりつくフェリシアがいる。メイドはドレスを抱えていて、どうやらフェリシアはそのドレスを持っていかれるのを阻止しようとしているらしい。
進路方向にいる二人に気づいたヴィクトルはちょっと悩んだ。
(見ないふりをして一旦引き返すべきだろうか。それともこのまま書斎へと進むべきか)
悩む間にも、二人の会話は聞こえてくる。
「腕がつっかえて朝からめそめそしてたのはお嬢様ですよ」
「ちょっとだけ悲しかっただけなの! 大丈夫だから! 着れるから!」
大丈夫の一点張りをするフェリシアに、メイドが憐れみに満ちた視線を向ける。
「太ったお嬢様が悪いのです」
「痩せたら着れるからぁ!」
「痩せるのを待っていたら型落ちするので、どちらにせよ仕立て直します」
涼しい顔をしながらもとんでもない膂力で、すがりつくフェリシアごとすたこら歩き出すメイド。メイドに引きずられる伯爵令嬢という信じがたい光景に、呆気にとられたヴィクトルはついその場から逃げ遅れてしまった。
「ミシリエ男爵様。おはようございます。お見苦しいところを失礼いたします」
メイドと視線があった。礼儀正しく挨拶するメイドに、さすがのヴィクトルも知らないふりは難しくて。
「これはいったい、どうしたんだい?」
「ヴィクトル様! 私のドレスを助けてください! お気に入りなんです!」
「お嬢様が太ったのが良くないんです」
フェリシアもヴィクトルに気がついたようで、必死の形相で訴えてきた。訴えを聞いたヴィクトルも、ようやく状況が飲み込める。
とはいえ、ご令嬢の体型に言及するのは紳士的な行いとは言えない。しかもここはフェリシアの生家。宿泊させてもらっている身で、失礼なことは言えやしない。
「フェリシアはあまり太っているようには見えないけど」
ヴィクトルが苦笑しながら伝えると、メイドは呆れたように物申す。
「そりゃ、コルセットをすれば腰はしぼれますから。そうじゃなくて、お嬢様がお太りになられたのはここ!」
「ひゃう……っ」
このメイド、ドレスを脇に抱えると、お嬢様の二の腕を掴んだ。容赦なく、フェリシアの二の腕をモミモミモミモミする。
「二の腕! ここのぷよぷよは! コルセットでどうにかできるものではありません! 今の流行り袖は二の腕のここをリボンで絞る形なんです。今朝、腕が詰まって泣いていたのはお嬢様です!」
「ひぃん……」
メイドに言い負かされて何も言えないフェリシア。そんな彼女に、さらにメイドは主張する。
「私たちのお嬢様なんですから、みっともない格好はさせられません。このドレスは仕立て直します」
「うぅ……お気に入りなのにぃ……」
めそめそん……としょぼくれたフェリシアは、いつも以上に悲しみに打ちひしがれている。なんだか可哀想になったヴィクトルは助け舟を出した。
「見たところ、さほど派手なドレスでもないし、自宅で着るくらいなら、型落ちも気にならないのでは?」
「ヴィクトル様……!」
フェリシアの新緑色の瞳がぱあっと明るくなる。
けれどメイドは一歩も譲らない。
「ミシリエ男爵。お言葉ですが、そうして甘やかしてもお嬢様のためにはなりません。私は前回の帰省の時までに再三、同じことをお嬢様に言ったのです。次回までにお痩せにならなかったら、このドレスは仕立て直すと」
さすがのヴィクトルも呆れてフェリシアを見た。フェリシアはさっと視線を逸らす。つまりこのやり取りは初めてではないと。何度も同じやりとりをして、そのたびにドレスの仕立て直しは保留にされたと。
「なのにお痩せにならなかったお嬢様が悪いのです。次にこの形のドレスが流行するのは二十年先でしょう。お嬢様、恨むなら自分のぷにぷにな二の腕をお恨みくださいね」
「出張のせいだからぁ! 食べないと体力がつかなくて、それで……っ」
「そんなことを仰ってますけど、お嬢様が帰られてからこっち、料理長がうきうきとおやつを量産しているのを知っているんですよ。なんですか、あのドーナツというけしからんおやつは。次に帰省した時、屋敷のメイドたちがみんな豚になっていたらお嬢様のせいですからね」
ぷりぷりと怒るメイドに、ヴィクトルも今朝の朝食に添えられていた焼き菓子を思い出した。見慣れない輪っかの形をした焼き菓子について尋ねたら、ドーナツという名前だと教えてもらったのは記憶に新しい。しっとりとしていて甘いお菓子だった。ヴィクトルにはちょっと甘すぎたけれど、女性好みの味らしい。
「次こそ痩せるからっ! だからもう一回だけ待って! ドーナツのもっと美味しいレシピを教えるからあっ」
それは逆効果では、とヴィクトルが思っていると、案の定、メイドの目が吊り上がる。
「そう言ってつまみ食いして太っていくのが、お嬢様ですからね!」
フェリシアが図星をつかれてひるんだ。
これ以上は埒が明かないので、ヴィクトルはフェリシアを手招く。
「フェリシア、こっちにおいで。食べ物とドレス、君にとってどっちが大切なのかを考えよう」
「食べ物です」
即答だった。メイドがジト目になってるし、ヴィクトルもついつい生温い視線になってしまう。さすがのフェリシアもばつが悪いのか、いじけたように指をもじもじさせて。
「だって、美味しいご飯の誘惑には勝てません……」
「まぁ、食べないよりは良いんですけどね。小さい頃のお嬢様は少食だったので、こうして年々食べる量が増えていると安心します」
そう言われてみれば、人一倍食い意地が張ってるようなフェリシアは普段、あまり量を食べていない。出勤している時のお弁当はだいたいサンドイッチ一個。食堂に誘っても、食べきれないからと断られる。
考えれば考えるほど、太る要素なんて全然ない。
今回のドレスに関しても、これは太るというよりも、健康的になった結果なのでは。
「お願い、ご飯を食べるようになった私に免じて、そのドレスはそのままにしてくれる……?」
「お嬢様、食べ物には賞味期限というものがあります。ドレスにだって、賞味期限があるのですよ。一番素敵に着られるための期限が。お嬢様が痩せる前にその期限が切れてしまいます。人前にそのようなものをお出しはできないでしょう」
「それは、そうね……そうかもしれないわ……」
メイドの無茶苦茶な論に、とうとうフェリシアはうなだれながらも納得してしまった。それで良いのかとヴィクトルは思うけれど、フェリシアがおずおずとメイドから離れる。メイドは満足そうに頷いた。
「それではドレスをお預かりしますね。お嬢様好みのとびきり素敵なデザインにしてもらいますから」
「うん。お願いします」
「ではお嬢様、ミシリエ男爵、失礼いたします」
ドレスを脇に抱えたメイドはそう言うと、颯爽と去っていった。残されたヴィクトルがフェリシアを見ると、視線の合った彼女はにこりと笑って。
「おはようございます、ヴィクトル様!」
「おはよう、フェリシア」
何ごともなかったかのように挨拶をするので、ヴィクトルも苦笑しながら挨拶を返す。
そのまま二人は一緒に書斎へと入り、昨日と同じようにそれぞれの作業へと取りかかった。
フェリシアが少食な理由「コルセットがあるから」。最近は和風調味料やスパイス研究のために間食を増やした結果、食べる量が以前より増えました。その代わり、ドレスがいくつか犠牲になっています。




