30.猫の目時計(side.ヴィクトル)
ラウレンツ言語の翻訳作業を進めていたヴィクトルは、首が凝ったなと感じで顔を上げた。
机をはさんだ向こう側では、フェリシアが玄蒼国にまつわるヤマト伝説に書かれた本を黙々と読んでいる。取り寄せていた本が、出張していた間に届いたらしい。
(フェリシアと出会ったのは、もう五年も前か)
ヴィクトルはこの光景をなんだか懐かしく思った。
❖ ❖ ❖
たくさんの外国語を教えられる家庭教師を探している、と言われてお呼びがかかったのがヴィクトルだった。
当時、ヴィクトルは十九歳、フェリシアは十五歳。
教え子の年齢を聞いて、ヴィクトルは首を傾げた記憶がある。
新しく家庭教師をつけるには遅い年齢だ。あと一年もすれば社交デビューする年齢なら、言語の家庭教師よりもマナー講師などが呼ばれるだろうに。
不思議に思いながら出会った少女は、伯爵令嬢らしく上品で、真面目そうな子だった。実際、近隣諸国の簡単な言葉はほぼ完璧で、一生懸命勉強したのだろうというのが伝わった。
最初はただの教え子のつもりだった。知りたいことがあって、サンドイッチのレシピを翻訳することから始めようとした彼女を面白いと思った。そのために努力を惜しまないところも好感が持てた。
それが「この子、けっこう変な子だ」と思うようになったのは、すぐのこと。それはそう、ヴィクトルの授業にフェリシアが猫を同伴した時だ。
その日は雨だった。
「……フェリシア嬢? その猫は?」
「トケイです」
「いや、名前じゃなくて。これから授業するのだけれど」
「大丈夫です。大人しい猫なので、授業の邪魔にはなりません」
そう言って聞かないので、猫を机の上に乗せたまま、ヴィクトルは授業を始めることにした。外は雨。猫を雨宿りさせたいのだろうという、フェリシアの優しい一面を慮っての対応だ。
けれど、いつもは集中するフェリシアが猫のほうに気を取られてなかなか授業に身が入らない。こちらも忙しい合間を縫って家庭教師をしているのに、とヴィクトルも顔を顰めたくなる心境だ。
「フェリシア嬢。集中できないなら授業をやめるよ」
「いえ、あの、……すみません。猫の目が気になって……」
フェリシアも十五歳の少女だ。可愛らしいものや綺麗なものに目を奪われるのは仕方ないこと。それでも勉強の時間にまで持ち込むのはやはりよくないと、ヴィクトルは渋面になる。
「たしかに猫の目は綺麗だけれど」
「綺麗? ……あ、綺麗ですね」
今、なんだか少し、会話が噛み合わなかった気がする。気の所為だろうかと思っていると、フェリシアは突拍子もないことを言い出した。
「昔、猫の目が時計になっていると聞いたんです。それで今、猫の目で時間を計っていて」
「待ってくれ。猫の目が時計? 何の話だい」
きょとんとしたフェリシア。
ヴィクトルは頭痛がしそうな気持ちで、ゆっくりとフェリシアから話を聞き出す。
要約すると、猫の目は時間によって形を変えるのだとか。
「私の記憶だと、正午は猫の目って針だった気がするんですけど……朝からずっと卵形のままなんですよね。なので、猫の目の形が本当に変わるのか気になって」
「記憶違いとかじゃないのかい」
「歌があるので間違いないですよ」
そう言うと、フェリシアは呪文を唱える。
「六つ丸く、五七卵に、四つ八つはカキの核なり、九つは針」
「カキって?」
「橙色の実のことです。それの種が卵をとんがらせた形をしてるんです」
ヴィクトルもフェリシアも、そろって猫の目をのぞき込んだ。猫の目はどちらかといえば。
「卵じゃないかい?」
「朝から変わってませんね」
「やっぱり歌が間違っているとか?」
「もしくは、私たちが猫だと思ってるだけで、この子は猫じゃないのかも」
あっさりと引き下がるフェリシアだけれど、机の上から猫をどかそうとはしない。この猫もふてぶてしくて、ヴィクトルやフェリシアが近くにいてもマイペースにくつろいでいる。
「……それで? 今日の授業はどうするつもりなのかな」
「受けます。トケイは自由にしてていいからね。お外は雨だけど、お屋敷は好きにお散歩していいのよ」
フェリシアが猫相手に言い聞かせているのを見ながら、ヴィクトルはやれやれと肩を竦める。もうすぐ社交界デビューを控えているというのに、子供っぽい行動に呆れるばかり。
「それじゃ、授業を再開するよ」
「はい。よろしくお願いします」
それでも根が真面目な少女なので、ヴィクトルもついつい許してしまった。
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(思えば、昔からそうだったな)
フェリシアの突拍子のない行動は出会った時からだった。突拍子がなくても、本人はいたって真面目なので、ヴィクトルもなんだか放っておけなくなってしまう。見ていて飽きない、面白い子だと思っていた。
今も本を読みながら、せっせと何事かをメモしている。その様子を眺めながら、ふと声をかけてみた。
「そういえばフェリシア。君の飼っていた猫はどうなったんだい?」
「猫ですか?」
フェリシアが顔をあげる。新緑色の瞳がくるりと視線を巡らせた。
「あ、トケイのことですか」
「そんな名前だった気がするね」
「トケイは野生に帰りました」
フェリシアの言葉にヴィクトルは目を瞬く。
「……飼い猫を野生に放ったのかい?」
「飼い猫じゃないですよ。トケイは野良猫です」
名前を付けて世話をしていれば、立派な飼い猫だと思うのだけど。
フェリシアの予想だにしなかった言葉に、ヴィクトルはトントンと自分のこめかみを叩いた。その様子を見たフェリシアがこてりと首をかしげる。
「うちの庭で怪我をしていたのを見つけたので、怪我の手当をしたんです。一週間もしないうちに姿を消しましたよ」
おかしいことは何もありませんよね? と言いたげなフェリシアに、ヴィクトルもようやく納得した。
「そういうことか。納得したよ」
「私、森に飼い猫を捨てる非人道的な人間だと思われたんですか?」
「いいや?」
ジト目でこちらを見てくるフェリシア。
ヴィクトルはすっとぼけてにっこりと微笑む。そのまま自分の作業に戻ろうとすると、今度はフェリシアのほうから声をかけてきて。
「トケイと言えば。猫の目時計の真実に気がついたんです」
「真実?」
思い出したように言うフェリシアに、ヴィクトルも耳を傾けた。猫の目がどうのこうのと言っていた記憶はあるけれど、真実とは?
「あの日、雨でしたよね。猫の目の形はそもそも、明るさによって変わるんです。なので雨だったあの日、室内で過ごしていた猫の目は、時間関係なくずっと同じ形だったんです」
神妙な顔をして言うフェリシアに、ヴィクトルは瞬く。それからふっと微笑んで。
「やっぱりフェリシアの話は退屈しないね」
「そうでしょう、そうでしょう」
なんだかちょっと誇らしげに胸を張るフェリシアの頭を、ヴィクトルはぽんっと撫でて翻訳作業を再開した。
猫の目時計は甲賀流忍者検定初級に出ます。忍者になりたい人には必修です。ご参考までに〜




