28.存在しないのに存在するもの
19話のあとがき部分に「馬毛歯ブラシにまつわるフェリシアのメモ」を追記しました。フェリシアのメモ用の手帳はきちんと製本した転生者リストとは別で後世に残っていると思います。文豪の下書き原稿のように。
「フェリシアさんはさ、やっぱあれ? 同じ世界の奴を探してるのって、もとの世界に戻るため?」
思いも寄らない質問に、私はびっくりしてしまう。
「えっ、もとの世界に戻る、って? どういうこと? 戻れるの?」
「いや、こっちに何人も転生者がいるなら、法則があるのかと思って」
どうやらクーヤの思いつきらしい。そんな〝もしも〟ができたら、私だって興味がそそがれてしまう。
「もう。ちょっとだけ期待しちゃったじゃない」
「えぇ? 俺、割と本気だけどな。この世界、マジで無理ゲーだし。元の世界に戻りてぇもん」
うんざりしたような口調でぼやくクーヤ。
私はそんなことを言う彼のことが心配になる。
「クーヤくんは、この世界のこと、嫌いなの?」
「嫌いって言うかー……良いところがない。飯は不味いし、漫画の続きも読めないし。医療も移動手段も不便。挙句の果てには治安が悪すぎ。絶対に日本のほうがいい」
クーヤの感じ方に、私は慄く。
そんなこと、考えたこともなかった。日本食が懐かしくて、和食を求めたりはしたけど……この世界に良いところがないなんて、思ったことはない。
「たしかに治安が悪かったり、医療も遅れているけど……この世界にしかないご飯や、この世界だから読める本を読むのは楽しいよ」
「フェリシアさん、もしかして貴族?」
「え、うん」
「そっかぁ。俺も一応似たようなもんだけどさ。楽しい以上に殺伐しててしんどくない?」
殺伐と言われてもピンとこない。貴族の生活のことを言っているの? 社交界とか、コミュニケーション能力が足りなくてしんどく思うところはあるけれど、殺伐とはちょっと違うような……?
答えあぐねていると、クーヤはじっと私の顔を見てくる。
「フェリシアさんはこっちの世界で苦労してないんだね」
「苦労の具合で言えば、日本と似たりよったりかな」
色々と便利だった日本だって、苦労することは多かった。この世界は手間のかかる不便さが多いけれど、その手間が楽しいことだってある。
これが貴族ではなくて平民に生まれていたら、違う苦労があったかもしれない。でも今、私は一生懸命、この世界で生きるための努力をしたいと思っているから。
「羨ましいなぁ」
「そう? クーヤくんも米グランプリ総なめするくらいだから、自由を楽しんでるんじゃない?」
「米グランプリは楽しいけどぉー。これは手段だからさ」
「手段?」
「そ。同じ転生者を探すための」
よっこらせっとクーヤは立ち上がる。短く刈った黒髪をかきあげ、獲物を見つけたように金色の瞳をギラつかせて。
「フェリシアさん、手を組まない?」
「手を組む?」
「そう。元の世界に戻るためのさ」
私はひるんだ。クーヤの元の世界に帰りたい気持ちは、私には分からない。さよならを言えなかった人たちに、最後のお別れを言いたい気持ちはあるけれど。どうしても帰りたいという気持ちは湧いてこない。
頭の中に浮かぶのは、この世界で出会った人たち。
〝フェリシア〟を産んでくれた両親と、親友のリリアーヌ。同僚のイェオリ。食堂のテシャさん。今回の旅路で出会った人は数え切れないほど。天体望遠鏡を作ってノエルと再会する約束をした。
そしてなにより。
この世界にはヴィクトルがいる。
私を妹のように思ってくれているらしいヴィクトルは、いつだって私に振り回されて苦労していると思う。でも彼は、なんだかんだ言って私のやりたいことを尊重してくれる。それは出会った頃から変わらない。私が何をしたいか、そのために何をすればいいのか、手を引いて教えてくれる人。
もしも私が前触れなく元の世界に帰ってしまったら、それは前世の繰り返し。私はきっとまた、この世界の大切な人に何も言えないままだ。
「……私は、日本に残してきた人たちに元気でやっているよって伝えられればそれで十分。この世界で知り合った人たちを置いてはいけないかな」
「そっかぁ……あ、ツレが追いついたぜ」
クーヤに言われて振り向くと、ヴィクトルがすごい形相でこちらへ走ってきた。その後ろには真顔で走る女性。たしか、クーヤがカズミヤと呼んでた人?
「フェリシアいた! 勝手にうちの子を連れて行かないでくれるかい!?」
ハルウェスタ語でまくしたてるヴィクトルに、クーヤはきょとんとする。
「なんて言ってんの?」
「勝手に私を連れて行ったのを怒ってる」
苦笑しながら伝えれば、クーヤは頭のうしろで手を組みながら悪戯っぽく笑った。
「ごめんな! 俺、お姉さんに惚れちまって、つい抜け駆けしちまった!」
「惚れ……!?」
玄蒼国語の会話は私にはちょっと難しい。私が何だって? ヴィクトルが愕然としてるけど、クーヤは何を言ったの? そのクーヤが私の肩に腕をぐるりとまわして、頬を寄せてくる。
「というわけで、お姉さんをお持ち帰りしようと思うんだ、カズミヤ!」
「クーヤ様にもとうとう春が? めでたやめでたや」
え、カズミヤさんはどこから紙吹雪を出したんですか? ばっさーばっさー振りかけられてるんだけど、よけい意味が分からない!
「クーヤくん? もう少しゆっくり話して。私、玄蒼国語はまだうまくヒアリングできないの」
「うちに来てよって勧誘してるのを話してるだけだぜ」
ほんとにぃ?
それならどうしてヴィクトルは今にもクーヤを射殺しそうな目つきをしているんですかね……?
「冗談はほどほどにするといい。――フェリシア、行くよ」
「はいっ」
前半は玄蒼国語で、後半はハルウェスタ語で。私に分かるようにヴィクトルは言葉をつむぐ。
私はクーヤからまわされた腕をよいしょ、とはずした。それから鞄からいつもの手帳を取り出して、ページを一枚、破く。
「えっと、手紙はいつでも待ってる。それと、これもあげる」
「なにこれ?」
「日本風カレースパイスの調合レシピ。私のオリジナル」
「まじでぇ!」
今日一番、クーヤの金色の瞳が輝いた。私は笑いながら、彼の黒い頭をひと撫でして。
「美味しいご飯は元気が出るから。日本が恋しくなったら、このカレーを食べてみて」
クーヤにとってこの世界は生きづらいかもしれない。それでも私は同郷の彼にだけは伝えたいことがある。
「私たちは死んじゃったけど、こうしてもう一度生きる権利をもらえたのだから、精いっぱい生きようよ」
きちんと伝わるように日本語で伝えれば、クーヤはくしゃりと顔を歪めた。笑っているような、泣いているような。そんな表情で。
「……いいなぁ、フェリシアさん。そういう風に考えられるの」
難しいよ、と言いたそうな口ぶりに、私はもう少しだけ声をかけてあげたかったけど。
「フェリシア! 行くよ!」
せっかちな上司に腕をとられてしまったので。
またいつか、クーヤともっとゆっくり話す日が来るといいな、なんて思いながら、その場をあとにした。
ずんずんと歩くヴィクトルの背中はちょっと怒っている。間違いなく、またもや私が一人で勝手な行動をしたからだと思うけど。それにしたって。
「あの、ヴィクトル様。腕が痛いです」
ヴィクトルが少しだけ手を握る力を緩めた。それでも離さない。そのまま、今日の宿まで戻ってきた。
いつになったら手を離してくれるのかと思っていたら、ヴィクトルは借りた部屋に入ってようやく手を離す。
「フェリシアに聞きたいことがある。さっき君が話していた言葉はどこの国の言葉?」
やっぱり聞かれると思っていた。
極力、ヴィクトルの前では話しているところを見られたくなかったけれど、ここで別れたら二度と会えないかもしれない。だからクーヤへの激励に日本語を使った。そのことを後悔はしていない。
部屋には私とヴィクトルの二人だけ。
クーヤが現れたことで、日本語が言語として存在することが証明できる。今を逃しては、もうヴィクトルに打ち明けられる機会もないかもしれない。そう自分に言い聞かせて、決心した。
「日本語のことでしょうか」
「どこの国の言葉なんだい」
「この世界のどこにもない国です」
ヴィクトルの視線が厳しくなる。菫色の瞳が細まって、私を射抜いた。
「ふざけているのかい」
「ふざけていないです。でも、この世界のどこにもないんです。私がヴィクトル様からたくさんの言語を学ぶきっかけになったのも、日本語です」
この世界のサンドイッチが、サンドイッチと発音しなかったら。私はきっとヴィクトルと出会わなかったかもしれない。
ヴィクトルに私の大切な手帳を差し出す。一度は見られるのが怖くて引っ込めてしまった手帳。ここには私が見つけて大切に記した転生者たちの足跡がある。
「信じてもらえるかは分からないけれど……私にはハルウェスタ語以外にも、生まれたときから言語の知識があります。でもこの言語を使う人は周りにいませんでした。だから私は、この言葉を知る人を探し始めたんです」
そうしてたどり着いたエルパダ王国の〝トーキョウ〟というパン屋の店主の日記。その時の感動を、ヴィクトルに共有できるかな。
「私以外にも、この日本語を使う人がいました。そうしたら欲が出てしまったんです。この世界にはもっと、私と同じような人がいるんじゃないかって」
訥々と、私の気持ちを話していく。
ヴィクトルは相変わらず難しい顔つきだけれど、私はここで一つ、大事なことをカミングアウトした。
「実はラウレンツ言語も、ヴィクトル様より読めます」
「……なんだって?」
ヴィクトルの声がひっくり返る。菫色の瞳に好奇心の色が混ざって、いつもより明るく見えて。
「私の持つ言語とは違いますが、文字のルーツは同じです。長い船旅の中で、私もちょっとずつ読んでいたんですよ」
あとで一緒に読み比べてみませんか、と言ったら、ヴィクトルは天井を仰いでしまった。
「……初めて君を羨ましいと思ったよ」
「羨ましいですか?」
「誰にも読めない言葉を解読するなんて浪漫だろう。もし読めたら、この上ない達成感で僕はしばらく腑抜ける自信がある」
大真面目でそんなことをのたまうヴィクトルに私は笑ってしまった。腑抜けたヴィクトルなんて想像もつかない。
「話を戻すけど。世界のどこにもない国の、言語だけが存在するとしよう。君はさっきそのニホンゴで、あの少年と意思疎通をしていたね。その言語はどういう経路で発達、共有したんだい?」
「わかりません」
私は日本語で綴った手帳をぱらぱらとめくる。
「私からしてみれば、生まれた時から身についている言語なんです。クーヤもそう。普通の言語とは違って、この世界で共有されてきた歴史は今のところ見つかっていません」
「サンドイッチ、芋、米、スパイス、トランプ、歯ブラシ、音楽。……それも、ニホンゴとやらの言語に繋がる?」
「そうです」
歯ブラシは違ったけれど、ヴィクトルが今挙げたものは私がたしかな手応えを感じて調べたものたち。この世界に転生した人たちが残した軌跡を私はたどってきた。
「私の中にあるものは、この世界のあちこちに散らばってます。それを集めるために、私はたくさんの言語を学びたいと思ったんです」
だから、ヴィクトル。
「私にもっとたくさんの言葉を教えてください。仕事も今まで以上にがんばります。だから……また、出張に連れて行ってください」
火山の街ウルカノラの失態でしばらくは出張禁止って言われたけれど。前世ほど移動手段も発達していない世界では、人生をかけても行ける場所は限られてしまう。だからこそ、少しでも多くの土地へ行くために、出張の機会は逃したくなくて。
頭を下げれば、頭上からヴィクトルの小さな嘆息が聞こえた。
「君は本当に手のかかる子だよね。目の前のものにつられていつの間にか迷子になっている子供と同じだ」
「うっ、おっしゃる通りですぅ……」
「だから目の届くところに置いておかないと、僕のほうが不安になるよ」
いやもう本当に申し訳ございません!
そこまで目の離せない子供のような扱いをされているとは露知らず、いつもいつも暴走しまして……!
恐縮していると、ヴィクトルの表情がふっと和らいだ。菫色の瞳が優しく細められて、私の頭にぽんっと大きな手のひらがのせられる。
「僕が読めない言語があるなんて、言語の魔術師の名折れだよね」
同じ外交官のキリール様がヴィクトルにつけた二つ名。ヴィクトルはこの二つ名を嫌がってきたと思うけれど。
「僕も君の調べ物を手伝ってもいいかい?」
屈託なく笑うヴィクトルに、私は泣きそうな気持ちで頷いた。
【米王ライスマン】
玄蒼国出身のクーヤ。前世の名前は東川隆。転生者を探すためにあらゆる米関係のコンテストを総なめしたらしい。すごい米の炊き方にこだわりがある。手紙ですごくおいしいお米の炊き方を教えてくれた。この世界のことがあんまり好きじゃないみたいだけど、いつか彼もこの世界のことを好きになってくれると嬉しい。




