23.外交官の〝わたし〟
予定を繰り上げて、ウルカノラの街を早く発つことになった。地震が日に数回起きると、数日に渡り続く可能性があるらしい。そうなると今度は火山が噴火する可能性が高まっていく。ウルカノラにある火山は小規模な噴火を幾度も起こしている山だそうで、火山灰が降り積もらないよう街の人たちは噴火に向けた支度を始めていた。
ヴィクトルはこれを危険と捉え、ウルカノラの街を発つことに。本来ならあと一日滞在する予定だったけれど、仕方ないね。
馬車の中は静かだ。原因は分かってる。私のせい。私が能天気だったせいで、ヴィクトルはずっと怒っている。気まずいというか、いたたまれないというか。ごめんなさいって謝ればいいのに、声をかけられずにいる。
(私は、何に謝ればいいんだろう)
ため息をつきたくなる。地震を軽んじたことだろうか。違う気がする。
――自分の命を守る気がないのか。
ヴィクトルの言葉が胸に突き刺さってる。守ってるつもりだった。私だってそんな簡単に死にたくない。でも人生って呆気なく終わるときは終わってしまうことを経験してしまった。それが昨日のことのように思い出せる。だから私、いつ死んでも良いような悔いのない人生を生きたいと、そう思って。
私の考え方はおかしいのかな。私、やっぱりこの世界に馴染めない? 前世とはまったく違う国で、世界で、私、本当に生きられる?
いつも肩から下げている鞄をぎゅっと握る。そうだ、本を。本を読もう。本を読めば気分転換になって、私も普段通りになれるはず。そう思って、手探りで鞄から本を出そうとして。
「っ!」
「おっと」
車輪が小石に乗り上げたのか、馬車が大きく揺れた。私の鞄から本が落ちる。仰向けでページが開いて落ちた本。本じゃなくて、私が書き綴ってきた転生者リストを作るためのメモ帳だ。
(やばいやばいやばい!)
私は慌ててメモ帳を拾おうとする。でも、私が拾う前にヴィクトルが拾ってしまう。
ど、どうしよう……!
ヴィクトルなら気がついてしまう。絶対に気がつく。私が書いた他愛ないメモたち。サンドイッチ伯爵から調べていって、人から聞いた話や大事なことを書き留めたメモ帳。早くメモ帳を取り返さないと……!
「ヴィクトル様! それ、返してくださ……っ」
「フェリシア。この文字は何だい」
見られた。
私の、メモ帳。――日本語で書いてあるメモ帳を。
さぁっと全身から血の気が引いていく。サンドイッチ伯爵の手記を読んでから、日本語を忘れていくのが怖くなった。だから自分しか見ないメモを日本語で書いてしまった。
アニマソラ神樹国で知った、エクサさんという転生者の人の人生が頭の中に浮かぶ。あの人は、前世のことを信じてもらえなくて、ずっと。
どうしよう、何か言い訳をしないと。馬鹿正直に前世の言葉ですなんて言えるわけない。ヴィクトルに知られたくない。頭のおかしな子に思われる。いや、ずっと思われてるけど。それとは違う、気味悪く思われたりなんかしたら。
どうして、ヴィクトルなの。
どうして出張するのが、どうして今ここにいるのが、どうして私のメモ帳を拾ってしまったのが。
大陸中の言語に精通した、ヴィクトルなの。
「フェリシア、もう一度聞くよ。この文字はどこの国の言葉?」
私は黙る。言えば良い。エルパダ王国の外交官から昔借りた、サンドイッチを発明した人の手記と同じ言語だって。言えば良い。私だけじゃない、他にも知っている人がいた言語だと。
でも、言えない。喉がひくりと痙攣する。唇を噛んだ。だって噛まないと。
「……ごめん、フェリシア。僕が意地悪だったよ。だからそんな顔をしないで」
そんな顔って、どんな顔?
私はメモ帳から顔をあげる。ヴィクトルの菫色の瞳の中に、今にも泣きそうな顔の私が映る。ああ、私ってばずるい。泣けば解決するとでも思ってるの? そんなことないのに。
ヴィクトルがメモ帳を返してくれる。ぐすっと鼻が鳴る。ほっとした。よかった。ヴィクトルはきっと、私の考え方を許してはくれていないけれど、私の大切な部分に触れるのをやめてくれた。
だからもし、謝るのなら。
「……ヴィクトル様、ごめんなさい」
「うん」
「昨日のこと。私の考え方おかしいって」
「うん、言ったね」
ヴィクトルの声がぐっと柔らかくなる。でも彼は自分が言ったことを撤回しない。そういう人だし、これは私が正すべきことだから、撤回されるほうが困ってしまうけれど。
「……私、言われて、気づきました。もしかしたら私って、自分で思っている以上に自分の命をすぐ手放してしまうかもしれない人間だって。そんなつもりは、なかったんです、けど」
ヴィクトルに言われて気づいたこと。考えたこと。
そんなつもりはなくても、どこかでいつ終わってもいい人生であるような心構えをしていたのは、一回死んでしまっているから。やりたいことをやる時間も、やり遺したことを後悔する時間も、前世の私にはなかったから。だから今の私がいつ死んでも良いようにと思って行動してしまうのは、きっとそういうこと。
こんな考え方、健全じゃない。死に直面した瞬間、きっと私は生きることをすぐに諦めてしまうかもしれない。ヴィクトルの言葉で、気がついた。言われるまで、気がつかなかった。
そんな私を、ヴィクトルは。
「ありがとう、ございます。かばってくれて」
二回目の地震の時、ヴィクトルは私を守るように頭を抱えてくれた。建物が崩れたり、瓦礫が飛んできても自分が盾になるように、守ってくれた。それは彼が、私の命を大切にしてくれているということ。
たとえ実際に被害がなくても、彼は私を守ろうとしてくれた。私の何倍も早く鼓動していた心臓は、彼の感情を示してる。ヴィクトルだって地震に驚いたり、怖かったりしたはず。それなのに反射的に私を守ろうとした。浴場にまで血相抱えてきたのだって、私のことを心配してくれたからで。
彼は私のことを手のかかる妹だと言っていた。その通りなのだろう。だからそばにいた私を守ってくれた。そういう当たり前の行動ができる人なんだ、ヴィクトルは。
それに比べて、私は。
「ごめんなさい、ヴィクトル様。私の考え方、おかしかったです。ごめんなさい」
前世のことは話したくない。それに由来する私の考え方の歪さを全部は話せない。それでも、それでも。
「私、もっと色んなところに行きたいんです……! 外交官の仕事、辞めたくないです……!」
私と同じ思いを持つ人と出会いたい。私と同じような人たちの人生を見つけたい。拾い上げて、彼らがどうやってこの世界に根づいたのかを知りたい。
そのためには外交官という、今の私が一番良い。
でも私の上司はヴィクトルだ。ヴィクトルが帰れって言ったら強制送還されるし、辞めろって言われたらクビにされる。今回のことで、外交官に向かないと言われて辞めさせられるとか、絶対に嫌だ。両親に報告されても強制送還になりそうだからそれも嫌。だからどうかと、ヴィクトルに訴えたら。
はぁ、とヴィクトルが深く嘆息する。
私は緊張で背筋がこわばって。
「別に今回のことで君をクビにはしないよ。まぁでもこの仕事が終わったら、しばらくは出張なしかな」
うぅ……それは悲しい。だって私、出張して色んな国に行くの、好きなのに。
肩を落としてしょんもりとしていると、ヴィクトルが私の頭に手を置いた。ぽんぽんと優しく撫でてくれる。
「僕らが、君を一人で出張に行かせない理由を話そうか」
顔を上げる。
ヴィクトルが私を一人で出張に行かせない理由?
「外交官って、二人一組の行動じゃないんですか?」
「そのルールを作ったのは、君が外交官になることが決まってからなんだ」
ヴィクトルが言うには。
外交官に限らず官吏自体が男職場だ。近年は他国でも女性の社会進出が進んだ影響で、ハルウェスタでも女性の官吏登用が始まった。でも外交官はその特殊な業務上、出張も多くて女性に不向きな官職だと思われていたようで希望者がまったくおらず、女性職員がいなかった。
そんな時にやってきたのが私。ヴィクトル直々の教え子で、多言語習得への意欲が高い私だった。外交官たちはみんな大喜びだったとか。
「でもさ、外交官って安全な仕事ってわけじゃないんだよ。他の官吏に比べて他国への出張が多いからさ。……事故率もすごく多い仕事だっていうのは、話したよね」
外交官に本当になるのかって聞かれた時に教えてもらった。他国へ出張するというのは大変だ。治安の悪い街道には盗賊がいることだってあるし、泊まる宿をしくじれば寝込みを襲われることもある。高官には貴族のほうが多いのもあって、そういった金目のものを狙った悪人のかっこうの餌食なのだとか。
それだけじゃなくて。
「駐在外交官も、国によっては突発的に戦争や紛争、革命が起きたりして、命が脅かされることだってある。あのウルカノラでも八十年前に大きな地揺れがあって、滞在していたハルウェスタの外交官が巻きこまれた」
それほどの大きな災害は百年や二百年に一度あるかどうかのもの。でも実際に起こってしまったことだから、ハルウェスタの外交官たちはただ恩恵だけを享受しないで、危機感も持つ。そうして行動している。
その危機感が、私には足りないんだとヴィクトルは言う。
「良くも悪くも、君は貴族のご令嬢だ。本来なら危ないものから一番遠い場所にいるべき人だ。だから僕たちは君が安全にいられるように心を配っているんだ。……外交官としては、ちょっと甘やかし過ぎたのかもしれないけれどね」
ヴィクトルが苦笑する。
私は心の中で違うよ、と答える。
私がおかしかったんだよ。貴族の令嬢だとか、女性だとか。それ以前の問題なの。生まれる前から私の根っこにあった部分が露呈してしまっただけ。普通のご令嬢だったらもっと危機感を持っていると思うよ。私みたいに護衛がいてもいなくても一緒、みたいな感覚は持ってないと思う。
そっか、だからヴィクトルはいつも私についてきてくれるんだ。私が護衛もつけず、一人でふらっと出かけるから。温泉だって、私は一人で行くつもりだった。それを段取りして、私が気を使わなくて良いように護衛の人の代わりに付いてきてくれて。
たしかにヴィクトルは私を甘やかし過ぎかも。でも貴族としても、そういった危機感が欠如していた私のほうがずっと悪い。
「……ごめんなさい、ヴィクトル様」
「そのごめんなさいは、エリツィン伯爵夫妻にも言ってあげなさい。昔から君は奔放なところがあるって心配してたからさ」
「……はい」
子供の頃のやんちゃっぷりを思い返して殊勝に頷く。両親にも心配かけちゃってたね。心当たりしかないね。
私は手の中にあるメモ帳を見下ろす。
この世界で生きた、私と同じような人たち。
彼らは生きて、死んで、生まれ変わって。どういう気持ちで、この新しい人生を生きていたんだろう。
彼らの人生に触れたい。
もっと、もっと。
そうして彼らの人生を拾い上げることができたら。
(私も、この世界に根づくことができるだろうか)