19.初恋の味のために
馬の尻尾の毛を使うことに対する衛生観念。
この認識のすり合わせをしてみようと思って問いかけてみたものの、カトカさんはすごくびっくりしてしまったみたいで。
「もしかして、みんなそれが理由で買ってくれないんですか……!? 宗教上の理由とかじゃなくて!?」
馬の尻尾の毛を口に入れてはいけないっていう戒律のある宗教が存在しているなら、私もぜひ知りたい。面白宗教にもほどがある。
でも私たちも商人も、歯ブラシを口にできない理由は宗教上の理由ではなくて。
「少なくとも、私は上司にそう言われて使うのを止められました」
「風評被害です!」
私もそう思う。でも一度言われてしまうと気になってしまうのも人間の仕様だ。ヴィクトルが何も言わなければ私は歯ブラシを使っていたのに……!
「歯ブラシに使う馬の毛は尻尾の根本、尾脇毛という毛です。それにブラシ用の馬たちは普通の騎乗用の馬とは別で育てています。貴族向けに加工するヘアブラシと同じ馬なので、汚れがつかないように徹底的に綺麗にしてるんです」
こっちに来てください、とカトカさんに案内されて工房を出る。向かうのはヘアブラシ工房専用の馬牧場。街の中にある牧場とは方向も全然違って、街のはずれのほうにあるらしい。昨日の視察でいった馬牧場とはまったく違っているので、まずここからして歯ブラシになる馬の飼育が違うんだろうと思った。
そうしてカトカさんについて行った先で見た光景に、今度は私のほうがぽかんとしてしまった。
「こちらが貴族用のヘアブラシや歯ブラシのために尻尾の毛を分けてくれる馬たちです。馬の中でも潔癖症で、綺麗好きの子を選んでいるんですよ」
馬の毛並みの艶が、昨日見た牧場の馬たちと格段に違う。馬にも美意識があるのかもしれない。歩き方がパリコレモデルのように洗練されているし、何より顔つきが違う。あれは一流モデルの馬面だ。ごめん、私も何言っているのか分かってない。とにかくオーラが違う。
それに何より、視界に入るのは。
「あれは何ですか……? 馬のぱんつ……?」
「ぱんつというより、おむつですよ。おむつをはかせていれば、尻尾に排せつ物が付着することはありません」
おむつを履かせられている馬。それでいいの。ここまでするの。歯ブラシを作るためにここまでするカトカさんの行動力に私は戦慄する。
「歯ブラシは馬の尻尾のここ……根本のコシの強い尾脇毛を使っています。なので排せつ物はどっちみち付かないのですが……この牧場を常に衛生的に保つためにと考えた結果、こうなりました」
最初は馬に対してここまですることに抵抗もあったらしい。でも、それ以上に歯ブラシが欲しかったのと、案外馬の性格によっては受け入れてもらえたから、吹っ切れたそう。
馬用のおむつなんてあるんだ……と愕然としていると、カトカさんは笑顔で私のほうを見てくる。
「どうでしょうか。これで歯ブラシは口に入れても安心だと分かってもらえましたか? このあと毛を刈ったら、薬液につけて洗って、煮沸して、櫛を通して、何度もそれらを繰り返して、丹念に手入れをしていくんです」
理解しました。この馬毛の歯ブラシはカトカさんの執念と馬の優しさでできているんですね。ぶっちゃけこの光景を見たら、一番最初の先入観はなくなったので、私も口に入れてもいいかな……? と思い始めている。
ここまでしてくれているのなら、あとはもう売り方だけ。物は良いんだもの。どうやって売っていくのか、だけれど。
「カトカさん、商人の方々にこの牧場は見せましたか?」
「いえ、歯ブラシを作るようになってからこの牧場に来られた方はいなかったと思います」
「それならまずはここに商人を連れてきてください。一人や二人くらい、仕入れを真面目に考えてくれる人が現れるはずです」
「えっ?」
カトカさんが目を丸くする。
私は片目をつむってみせて。
「それから歯ブラシを十本ほど買わせてください。私がその良さを広めてきます」
カトカさんはぱちぱちとまばたきする。私の言葉を咀嚼して理解すると、少しだけ自信がなさそうに肩を落とした。
「広めてくるって……そんなことできるんですか?」
「私、これからサピエンス合衆国に行くんです」
あの国なら、この馬毛の歯ブラシを使うことによる利点を学術的根拠に基づいて理解してくれる人がいるはず。なのでサピエンス合衆国で歯ブラシを広めることができたら、大陸規模で歯ブラシを売っていくことも可能なはず……!
「頭のいい学者なら、虫歯予防のために馬毛歯ブラシを使ってくれるかもしれません。そこで使う人が増えれば、馬毛歯ブラシが今後も売れると思いますよ」
「本当ですか!」
そうなったらいいな、という希望的観測が多分に入っているけどね……!
でも、歯ブラシはそれくらいする価値のあるものだと思っている。私だって虫歯におびえる生活とはおさらばしたいし。ただ、そのためにはもう一つ開発したいものもある。歯磨き粉。フッ素とかホワイトニングとか。こだわれる要素はいっぱいあるんだから、ここの分野も開拓してほしい。そんな専門家を見つけるにも、サピエンス合衆国は適してると思う。
だから私はカトカさんと約束する。
「私が歯ブラシの良さを広めます。なので生産を諦めないでください」
「分かりました、フェリシア様! 私、絶対に諦めません。恋人との素敵なキスのために……!」
夕陽に向かって、私たちは誓い合った。
❖ ❖ ❖
ところで歯ブラシの発明者がカトカさんだと判ったけれど、残念ながら彼女は転生者ではなかった。もしカトカさんが転生者だったら、同じ時代に生きる心強い仲間になれたのかもしれない。でも世の中そんなにうまくはいかないようで、私が生きている間に転生者と出会えるのだろうか、と思ってしまう。
馬車の窓から小さく遠くなっていく馬牧場の街ガロップを見ながら物思いに耽っていると、ヴィクトルが話しかけてきた。
「名残惜しそうだね」
「そうですね。良い友人ができたので」
「たった三日で?」
ヴィクトルが苦笑している。たった三日であっても、私とカトカさんの歯ブラシでつながった友情は強固なもの。約束を果たすためにも、私はサピエンス合衆国に行かねばならない。カトカさんとの約束をヴィクトルに話せば、ものすごく呆れられた顔をされた。どうして。
「あの歯ブラシが口に入れても大丈夫だというのは分かったけど。僕はやっぱり遠慮したいかな」
「いいんですか? 将来、お嫁さんに『においが気になるのでキスできません』って言われても」
珍しくヴィクトルが目に見えて狼狽えた。口もとを抑えてしまう。
「……臭うのかい」
「嗅ぎましょうか」
「やめてくれ」
ちょっとからかったら真顔で返されてしまった。私も付き合いが長いとはいえ、上司の口臭なんて嗅ぎたくない。
「気になるなら歯ブラシを一本お譲りしますよ」
「一本? もしかして君、歯ブラシを買ったのかい」
「もちろんです」
サピエンス合衆国で布教するために二十本ほど買ってきた。馬毛の中でも希少な尾脇毛だから、まだ大量生産できるほどではないらしい。それでもこれだけあれば十分でしょう。もちろん、道中泊まる予定のハルウェスタの大使館でも在中外交官に布教するつもり。嵩張るものじゃないから、これくらい買っても荷物にはならないし。
「そのお金はどこから出したのさ」
「持ってきていた宝石をちょっと」
物々交換です。金貨一枚するネックレス一つで二十本分の歯ブラシはなかなかお高い。でも私が外交官のお給料で買ったやつを交換したので、誰にも文句を言われる筋合いはない。社交でちょっとばかり華がなくなるかもしれないけど。
ヴィクトルには呆れられてるけれど、私にとっては大切なことだもの。これくらいの投資は許してほしい。
「でも歯ブラシだけでは物足りないんですよね。これを見つけたからには、サピエンス合衆国でアレを作れる学者と出会いたいですね……」
「また何か企んでる」
企むとは失敬な。これはれっきとした、最先端医療への挑戦です。私は白い歯の笑顔が似合う女性になりたいの。そのためには歯磨き粉にだってこだわりたい。歯ブラシを手に入れてしまった以上、今の薬液マウスウォッシュだけでは物足りないの!
「まぁいいけどさ。サピエンス合衆国に着くまでにはまだ三ヶ月あるから、くれぐれもお金の使い所は間違えないように」
「はーい」
帰りのことを考えると、無駄遣い厳禁なのは分かっていますとも。
まだまだ旅は始まったばかり。
ガロップの蜂蜜色の石造りのコテージが立ち並ぶ街にさよならを告げ、私たちは次の街を目指した。
【メモ】
歯ブラシはガロップの村で生まれた。生まれた理由は虫歯が多いからとかではなく「好きな人とキスがしたいから」。前世の世界でどんな理由で歯ブラシが発達したかは分からないけれど、この世界での歯ブラシの誕生はぴゅあぴゅあで初々しい一組のカップルから生まれた。歯ブラシの発明家、カトカさんの恋が報われますように。
(転生者リストには記載ないけれど、日本語で書かれたフェリシアの手帳には記載が残っている)
※この物語はフィクションです。実際の馬毛歯ブラシの製造とは一切関係ありません。