狂気
「大丈夫。私たちがついてる」
震えるエミリーの肩をルーカスが優しく引き寄せる。暖かい温もりで緊張し冷たくなっていた体に熱が戻ってくる。
(そうだわ。大丈夫。私にはルーカス様たちがいてくれるもの)
エミリーは小さく頷くと、気合いを入れるように、大きく息を吐き出した。
「ではそのレイラさんはどちらにいらっしゃるのですか?」
エミリーの問いかけにマチルダは嬉しそうに笑うと、トンと自分の胸に手を当てる。
「ここよ」
「それはどういうことですか? あなたはマチルダ様でしょう?」
「ええ。そう、私はマチルダよ。でもねレイラは私とずっと一緒にいるのよ」
(いったいどういうこと? まさか妄想ってことはないわよね……)
エミリーは警戒しながら、マチルダを観察する。
「それではレイラさんに直接会い、言葉を交わすことはできないのですか?」
「直接ねぇ……仕方ないわね。それじゃあ特別に会わせてあげるわ」
マチルダはにっと笑うと、部屋の奥の大きな鏡に向かって歩き出す。そして鏡の正面に立つと、エミリーたちを振り返った。
「レイラよ」
マチルダは鏡に映る自分の姿を指し示す。
(彼女は何を言っているの? いったい何のつもり?)
「何を言って……」
エミリーが戸惑いながら口を開いた時、鏡に背を向けているはずの鏡の中に映るマチルダがゆっくりとエミリーたちのほうへと振り返る。
「何で……」
(あり得ないわ……目の前のマチルダ様は動いていないのに……どうして鏡の中のマチルダ様が動くの……)
『こんにちは。みなさん。会えて嬉しいわ。私がレイラよ』
思考を奪われるような魅惑的な美しい声に、エミリーは一瞬意識を奪われそうになり、咄嗟に耳を押さえる。
(これは……精神操作魔法の一種だわ……まさか声だけで精神操作にかかりそうになるなんて……)
緊張でエミリーの背筋を汗がつたう。
美しい、もっと聞いていたいと思わせる声であるのに、エミリーの本能が危険だと訴えている。
(ルーカス様たちは大丈夫かしら……)
エミリーが視線を動かすと、ルーカスとアドルフも険しい顔で耳を手で押さえ、レイラを睨みつけていた。
エミリーは二人が精神操作にかかっていないことに安堵の息を吐く。
そういえば以前、獣人族は魅了や精神操作などの魔族や魔物が得意とする魔法は効きにくいとルーカスが話していた。
『あら? 珍しい……私のこの声を聞いて正気を保っていられる男がいるなんて』
耳を塞いでいるにもかかわらず、その声は直接頭の中に響いてくる。
可愛らしく首を傾げるレイラだが、ニッと笑うその表情には何か悍ましいものを感じる。
なんとも気持ちの悪い感覚に、エミリーは自分自身を落ち着かせるため、ふーっと大きく息を吐き出した。
「レイラさん、あなたの目的は何ですか? あなたは本当に五百年前に獣王国で光の守り手に退けられた魔族なのですか? なぜ今マチルダ様の姿になっているのですか?」
『あらあら、質問が多いわね……でもいいわ。今は気分が良いから教えてあげる。確かに私は五百年前に光の守り手によって倒されたわ。体を消し飛ばされたの。それでも精神体だけで何とか五百年生きて来たわ』
「精神体で五百年だと……」
人間では考えられない話だ。
驚きの事実にエミリーたちは息をのむ。
するとレイラは三人の表情を見て楽しそうに微笑んだ。
『体がなくなってからは精神体を維持するだけで大変だったわ。だけど少しずつ少しずつ時間をかけて力をためたのよ。やっと精神体での活動に慣れてきた時、マチルダに出会ったの』
レイラがマチルダを見て微笑むと、マチルダもまた嬉しそうにレイラに向かって微笑んだ。
「私はレイラに会えて本当に良かったと思っているのよ! レイラがいなければ今の私はなかったもの」
『私こそマチルダと会えて良かったわ。私は今までマチルダほど闇属性と相性の良い人間と出会ったことないもの。マチルダが私を受け入れてくれたからこそ、私は精神体ではなく、こうしてマチルダと体を共有して人と関われているのだから』
レイラはにっこりと笑みを深くするが、その笑みにエミリーはぞっとする感覚を覚える。
明らかにマチルダのレイラに向ける親愛の情とレイラがマチルダに向ける感情は違う。
しかし、マチルダはそれに気づいている様子はない。レイラに対する絶対的な信頼があるようだ。
「それよりも……私もう我慢できないわ! やっとあの女がこうして目の前に現れたのだもの! レイラ、早く殺してしまいましょうよ」
突然狂気的に叫び出し、笑みを浮かべるマチルダにルーカスたちはエミリーを守るように背に庇う。
先ほどまでと態度が急変したマチルダに、エミリーは眉を寄せる。
(普通の精神状態ではないわ……やっぱりマチルダ様自身もレイラさんに操られているようね……きっとそのせいで精神が不安定になっているのだわ……)
「やっぱり気にいらない!! どうしてあんたはいつも誰かに守られているの? どうして全てを手に入れているの? 私のほうが可愛い! 私が一番なのに!!」
「マチルダ様、落ち着いてください!」
「うるさい!! あんたはいつも私を見下しているのでしょう? 王太子の婚約者、光の守り手、全ての人から敬われて守られる立場……私がずっと欲しかったもの……だから奪い取ってやったのに!! また私の幸せの邪魔をするつもりなのね」
マチルダは頭を掻きむしり、焦点の定まらない目で叫ぶ。
(だめだわ……何を言っても今のマチルダ様には届かない……)
「全部私のものなんだから! 絶対に返さない! 私の前から消えなさいよ!! お前なんていなくなればいい!!」
その瞬間、マチルダの体から黒いモヤが一気に吹き出した。




