穏やかな朝
「アドルフくんだね。これからよろしくたのむよ」
「おう!」
エミリーが差し出した手を、アドルフは笑顔で握り返した。
「そういえば……さっき他に誰かいなかったかい? アドルフくんの他に二人、声が聞こえた気がしたんじゃが……」
「え……あ、いや……その……いない! いなかったぞ!」
いかにも怪しい態度のアドルフに、エミリーは胡乱げな目を向ける。
(まぁ、でも私だって嘘ついちゃってるし……まぁ身元もよくわからない人間にあまり話せないわよね……)
「それならいいんじゃが」
エミリーは仕方がないと諦めるとアドルフは何とか誤魔化せたといように、安堵の息をついた。
エミリーは素直すぎるアドルフの反応にこっそり苦笑しつつ、気になっていることを聞く。
「そうじゃ……私はこの国の通貨は持っていないんじゃ。どこかで換金できるところはないかい?」
ヴァージル王国の同盟国では通貨を換金できる場所が必ずある。
しかし、なんといってもこの国は他国との国交を絶っている獣王国だ。
もし換金場所がなければ、無一文で生活しなければいけないことになる……
「あー……この国には必要ないもんだから町中に換金できる場所はないんだ。できるとしたら王宮くらいじゃないかな?」
「お、王宮……」
王宮になど行けるはずがない。
本来なら、こうして人間が獣王国に無断で入ってしまったことも問題なのだ。
王宮に行くということは、それをわざわざみんなに知らせに行くような行為だ。
エミリーの悩ましげな様子に、アドルフはとんっと胸を叩く。
「大丈夫だよ! さっき俺に任せろって言っただろ? ここにいる間は俺が食べ物や服を買ってくるからさ!」
「それはありがたいが……それではアドルフくんの負担が大きくなるじゃろ? せめて何か私ができることはないかい?」
「別に大丈夫だよ! 俺が言ったことだし、心配するなって!」
「じゃがな……」
そこまでしてもらうのは申し訳なく、エミリーが困った顔で見つめていると、アドルフが苦笑を浮かべる。
エミリーが納得しないとわかったのだろう。
アドルフはうーんと考え込むと、ぱっと何か思いついたように顔を上げる。
「あっ! エリーばーちゃんは料理はできるか?」
「料理かい? 簡単なものならできるけど……」
通常、貴族令嬢は料理なんてしない。
しかし、エミリーは幼い頃から領民たちに料理を習っていたのだ。
幼いエミリーを元気づけるため、屋敷の者がよく領地に連れ出してくれた。
領民たちはエミリーを心配し、農作物が採れればエミリーにお裾分けだと、たくさん分けてくれた。
そのまま食べれない物はわざわざ料理をして持って来てくれるのだ。
本来、貴族令嬢が料理人でもない平民の作った料理を食べるなどありえないことだ。
しかし、エミリーはそんなみんなの気持ちが嬉しかった。
使用人は止めようとしたが、エミリーが嬉しそうにしていると、結局みんな仕方がないと止めることはしなかった。
そうして料理を振るまってもらううちに、エミリー自身が料理に興味を持った。
ダメ元で教えて欲しいと言うと、領民たちは最初は驚いていたが、沢山の料理を教えてくれた。
みんなエミリーの様子が次第に元の明るい様子になっていくことが嬉しかったのだろう。
みんなが自分の子供や孫のように可愛がってくれた。
(まさかみんなの教えてくれたことが、こんなところで役に立つなんて……)
胸が温かくなる感覚と、そんなみんなにもう会えないという寂しが押し寄せる。
(いいえ……生きていればまた会えるかもしれないじゃない!)
エミリーは自分自身に喝をいれると、頭を振り、意識を切り替えた。
「そうか! なら良かった! 俺料理は苦手でさ……俺が食材を持ってくるから、エリーばーちゃんは料理を頼めるか?」
「わかったよ! 任せておくれ!」
「おう! それじゃあ改めてこれからよろしくな!」
アドルフは嬉しそうに尻尾を振りながら手を差し出し、二人はもう一度、笑顔で手を握り合った。
「アドルフくん! そろそろ起きないと遅刻してしまうよ?」
「ん……あとちょっと……」
なかなか起きないアドルフに痺れを切らしたエミリーが肩を揺する。
「ほら! この前もそう言って予定に遅れたって言ってただろう」
「う〜……わかったよ……」
アドルフは目をさすりながら、まだ起ききっていない、とろっとした目で、何とか立ち上がる。
そしてうーっと伸びをすると、手を服の中に入れてポリポリとお腹をかく。
そしてそのままバサリと上着を脱いだ。
可愛いらしい見た目と反して、しっかり鍛え上げられた筋肉にエミリーはぱっと目を逸らす。
「アドルフくん!」
非難を込めて名前を呼ぶと、アドルフはふにゃりと笑う。
「ごめんごめん。エリーばーちゃんがいるの忘れてたよ。上で着替えてくる」
あれから二週間、穏やかな毎日を送っている。
その間にアドルフが騎士団員であることや、国境の安全確認の調査のため定期的に騎士団で見回りをしていることを聞いた。
そしてその騎士団が調査の時、寝泊まりに使用するために山小屋があるらしい。
今はアドルフが話を通し、他の騎士団員はここから近い村に駐屯しているそうだ。
仕事の邪魔をするのは申し訳ないと思いつつも、さすがに人間が獣人族しかいない村に入ると目立ってしまう。
さらにこの辺はたまに魔物も出るようで、エミリーの警護のため、アドルフだけこちらで寝泊まりしているのだ。
騎士団同士なら二階のベットを使えるのだが、「ばーちゃんも女性だしな!」とアドルフは一階のソファーを使ってくれている。
本当に何から何まで申し訳ない。
他の騎士団員も迷惑しているだろう。
しかし、誰も文句を言いに来ない。
実際のところ、監視など他に何か思惑があるのだろうが……
それでも獣人とはずっと人間より温かい、心優しい種族なのかもしれないとエミリーは考えている。
「エリーばーちゃん起こしてくれてありがと! 時間ギリギリだったよ……そんじゃ俺、騎士団に報告に行って、帰りに食材買ってくるよ!」
アドルフは着替えを済ませて、慌てて二階から降りてくる。
そして元気に尻尾と手を振りながら、にっと笑ってバタバタと出て行った。
「全くいつもバタバタなんだから……」
なんだか放っておけない可愛らしさがあり、弟の世話でもしているような気分になる。
だが今、こうして生活できているのはアドルフのおかげだ。
彼にはとても感謝しているのだ。
(いつか恩返しできるといいな……)
エミリーはふっと笑みを浮かべると、小屋の掃除を始めた。