ファハドの獣化
「ファハドくんが獣化!?」
この位置からではエミリーにはファハドの表情は見えない。
しかし、この独特な重苦しい気配はアドルフの獣化を思い出させる。
警戒するようにピンと立った耳に、毛を逆立てた尻尾。アドルフの時と同じように、長く鋭い真っ黒に染まった爪。
「ファハドは強い。十分獣化の適正はあったはずだ」
確かにファハドは強かった。先ほどの動きでもそれは十分すぎるほどわかった。
おそらくルーカス、バーナード、アーノルドにも適正はある。
しかし、適正はあるにしろ、なぜ獣化したのか……
「ファハドはさ、すっげー優しいんだ。一度仲間と認めたやつは絶対に助けようとする。獣化するのは大きく感情が揺さぶられた時って言われてるけど、俺は何かを強く守りたいって思った時だと思うんだ」
中級魔物が攻撃をしようとした直前の、ファハドの叫びを思い出す。
「俺が獣化した時、エミリーの魔法が俺を引き戻してくれた。エミリーの魔法のおかげで戻れたんだ。だからきっとエミリーの魔法があれば、ファハドも元に戻れると思うんだ……エミリー、力を貸してくれるか?」
アドルフの不安げな声にエミリーは力強く頷いた。
「もちろん、私にできることなら」
しかし問題は、アドルフの時と同じように強い光属性の魔法で体を包み込むなら、直接ファハドに触れなければいけない。
一帯に広げている薄い魔力では正気を取り戻させる事はできないのだ。
今思うと、アドルフの時は感情のまま、だいぶ無茶なことをしたと思う。ルーカスにも今後あのような無茶はしないでくれと、強く注意された。
獣化によって力を制御できないファハドに触れるのは容易なことではない。
「どうやってファハドくんに直接触れればいいんだろう……」
アドルフの時は怪我をしていたこと、そしてウォルターに気を取られていたこともあり、何とか触れられた。
しかし、今のファハドは周囲をとても警戒している。これでは触れる前に攻撃を受けるかもしれない。
「それなら俺に任せてくれ!」
「任せるって……いったいどうするつもり?」
「俺が絶対動きを止めて見せるから!」
「ちょっと待って! アドルフくんはまだ本調子じゃないんだよ? そんな状態じゃ……」
万全な状態でも、獣化した相手を止めるのは難しいはずだ。
それを今のアドルフが止めるのは無理がある。
しかし、アドルフはいいやと首を振る。
「大丈夫だ! 俺はエミリーのこともファハドのことも信じてるもん! じゃ、頼むな!」
そう言うとアドルフはファハドに向かって走り出した。
「アドルフくん、待って!!」
エミリーが叫ぶが、アドルフはその間にもファハドの方へとすごい速さで距離を詰める。
アドルフに気づいたファハドが、爪で攻撃しようと、腕を振りかぶる。
アドルフは予想していたように軽々と剣で弾いた。
「ファハド! しっかりしてくれ! アドルフだ! お前と戦いたくはないんだよ!!」
ファハドは真っ赤に染まった目を一瞬細める。
しかし、すぐに二撃目を放ち、アドルフはその爪を何とか剣で受け止めた。
「ファハドがんばれ!! エミリーが獣化を戻してくれるから!! ファハドは強い心を持ってる! だから大丈夫だろ? 力に飲み込まれるな!」
ファハドの攻撃を躱しながら、アドルフは何度も呼びかける。
アドルフの懸命な呼びかけに、ファハドがピクリと反応する。
「……ア、ド……ルフ……」
ファハドの動きが一瞬鈍くなる。
その隙にアドルフは剣で爪を弾き、ファハドの両手を掴み、押さえ込んだ。
「エミリー、今だ!!!」
エミリーは急いで駆け寄ると、ファハドの背に触れ、光属性の魔法でファハドを包み込む。
「うっ……」
ファハドは小さく呻き、ギュッと目を閉じると苦しげに顔を歪めた。
しかし、しばらく経つと穏やかな表情へと変わる。
そして次に目を開くと、理性を取り戻したキラキラと美しく輝く金色の瞳に変わっていた。
「……アドルフ? エミリー?」
「ファハド、大丈夫か? 俺たちがわかるか?」
「ファハドくん、どこか痛いところはない? 大丈夫?」
ファハドは小さく頷くと、じっと自分の体を確かめる。
「僕、獣化してた?」
「ああ。でもエミリーが戻してくれたから、もう大丈夫だ!」
「エミリー、ありがとう。二人とも心配かけてごめんね……」
微かに表情が動き、ファハドが申し訳なさそうに眉を寄せる。
アドルフとエミリーは目を合わせると、ファハドに向かって微笑んだ。
「大丈夫だ!」
「ファハドくんが無事でよかった!」
「ありがとう……」
ファハドが二人の言葉に、ホッとしたように穏やかな表情で笑った。
「えっ!? ファハドがこんなしっかり笑ってるの初めて見たかも!」
アドルフがじっと見つめると、ファハドが恥ずかしそうに視線を逸らした。
それでも回り込んで表情を確認しようとするアドルフに、ファハドがアドルフの顔を手で押しやる。
微笑ましい様子に、エミリーが笑っていると、ファハドがアドルフを押しのけるとスタスタと歩き出す。
「早く帰ろう」
途中で立ち止まり、二人に声をかけたファハドの頬は赤く染まっている。
アドルフとエミリーは視線を合わせニコッと笑い合うと、ファハドを追いかけた。
「それで? 何でアドルフは外に出たんだ? しかも何でみんなそんなボロボロになってる?」
宿に帰ると、扉の前で黒い笑顔を浮かべたルーカスが待ち構えていた。
「あっ……いや……その緊急事態でさ! 魔物が町に出たって二人に早く伝えなきゃと思って……」
アドルフがゆっくり後退り、エミリーの後ろにそっと逃げ込む。
「ほぉ? それでまさかエミリーを危険な目に遭わせたりしていないよな?」
ルーカスのさらに深まる黒い笑みにファハドまでがそっとエミリーの後ろへと逃げ込んだ。
「まぁまぁ、ちょっと落ち着けってルーカス。とりあえず部屋でゆっくり話そうぜ」
バーナードのおかげで何とか部屋に戻れたエミリーたちは、先程の出来事をルーカス、バーナード、アーノルドに話した。




