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2 虎の訪問

 華美な装飾を施された正門を通り、優美さを保ちながら実用性を重視した黒塗りの馬車が王宮に入ってきた。クラウディアはドレスを摘まんで腰を落とし、(こうべ)を垂れてヴァロレーヌ帝国の紋章が彫られた馬車から、その人が現れるのを待つ。

 オルド王国の内情はあれど、国交条約締結に向けたヴァロレーヌ帝国からの使節団は、本日この王宮へ到着した。帝都から王都までは馬車で大体二週間ほどかかるため、訪問初日はまず用意した離宮で休んでもらう手筈になっている。少数精鋭で訪れるとは国を代表してユヴェルと遣り取りした書簡で知っていたが、馬車は計四台、その周りを囲む馬に騎乗する者も十名いるかいないかだった。

 馬の蹄が石畳を鳴らし嘶きとともに馬車が停まる気配に、クラウディアはドレスを摘まむ指先まで意識を巡らせた。案内役とて派手にならないよう、今日のクラウディアは紺に近い色のドレスを纏い、レースの詰襟の上に小振りなアクアマリンを散りばめたネックレスという装いだ。髪はすべて結い上げネックレスと揃いの髪留めで纏め、すっきりとした印象になるよう心掛けた。

 美しく、淑やかに、オルド王国を代表する者として恥じぬように。

 馬車の扉が開かれ、こつこつと足音が近付き、そして止まる。クラウディアはぐっと腹に力を入れた。

「ようこそお越しくださいました。心より歓迎の意を申し上げます」

「ヴァロレーヌを代表して、感謝いたします」

 初めて聞く声は、柔らかくも凛々しい響きだった。

(おもて)を上げてください。歓迎してくださるのならば、どうぞ花の(かんばせ)を拝見する栄誉を私に」

 そう乞われ、クラウディアは落とした背を真っ直ぐ伸ばし顔を上げる。そこにいたのは、背が高く色素の薄い美丈夫だった。

 纏った衣装は詰襟の黒い正装で、胸には彼の功績を示す勲章がびっしり並び、右肩から掛かるマントは青みを帯びた銀色の生地にミルクティーを流し込んだかのような色糸で刺繍が施されている。陽を浴びた銀色の髪は光を散らして輝き、僅かに垂れた目尻は近寄り難い美しさの容姿に甘さを醸す。

 そして何より、銀色の瞳に散った金の虹彩は角度により千変万化し、虹色にさえ見えた。その稀な色を宿す瞳は、まさしく特異な魔力を持つ証だ。

 しなやかに鍛えられた体躯だが虎というには獰猛さに欠け優美で柔らかな印象の男性であるが、目の前の彼がヴァロレーヌ帝国第二皇子で間違いないだろう。

 花の顔とは彼のことだと思うが、これから交渉し友好を築くには世辞も必要だろう。釣り目がちでひょろりと細い容姿も相まって女狐と揶揄されるクラウディはそう受け取り、しかしそんなことは覆い隠し微笑む。

「オルド王国フォック家が長子、クラウディア・フォン・フォックと申します」

「ヴァロレーヌ帝国第二皇子、ユヴェル・ド・ヴァロレーヌです。貴方にお会いできるこの日を、心待ちにしておりました」

 目許を緩めたユヴェルは蕩けた笑みを返し、クラウディアへ向かって手を差し出した。ユヴェルから感じるのは明らかな好意で、それに戸惑いながらも握手のためにクラウディアも手を持ち上げる。すぐさまユヴェルに手を取られ、大きな手のひらにそっと乗せられたかと思えば、彼はレースの手袋越しにクラウディアの手の甲に口付けた。

 腰を軽く折り流れた銀髪は光そのもののようで、そこから覗く伏せた睫毛がふいに持ち上がり、銀に暁光を散らした瞳がひたとクラウディアを見つめる。眼差しは強く、引きずり込み絡め捕られるような錯覚に、クラウディアの唇は微かに戦慄く。

「滞在中は、クラウディア様が案内役も務めるとお聞きしております」

 ユヴェルの吐息が、レース越しにクラウディアの肌を舐めた。唇は離れたが僅かな隙間ができた程度で、クラウディアの手はユヴェルにしっかりと握られたままだ。

「え、ええ。ご不便などございましたら、何なりと私へお申し付けください」

「お心遣い痛み入ります」

「お疲れでしょうから、まずお泊りいただく離宮へご案内いたします」

 困惑を押し隠してそう答えると、ユヴェルは目尻を落として頬を緩める。いまならと自らの手を引き抜こうとするが、やはりクラウディアの手は胸元辺りで差し出したユヴェルの手のひらに乗せられ彼と繋がっていた。屈めた背を伸ばし、ユヴェルは目線で向かう先を問う。

「離宮はこちらですか?」

「はい……」

 頷いたクラウディアに一層笑みを深め、ユヴェルは離宮へ向かってゆっくりと歩を進めた。クラウディアはユヴェルに手を引かれながら横に並んで歩くしかなく、案内する立場だというのにユヴェルにエスコートされている状態だ。

「あの、歩き難いでしょうから、手を」

「オルド王国は風光明媚な場所が多いですね。道中も楽しめました」

「……気候が温暖な場所が多いですから。ユヴェル皇子にお喜びいただけたのでしたら、僥倖でございます」

「ユヴェルで構いませんよ。私もクラウディアとお呼びしても?」

 吹き抜けの廊下を進む二人の後ろには、使節団でもユヴェルに近いもの数名とクラウスが選んだ官吏と護衛が従うだけだが、それでも衆目がある。しかしユヴェルはそんなことなど構わずクラウディアを覗き込み、目を眇めてこちらをじっと見つめてくる。

 廊下に差す陽から陰になったいま、ユヴェルの虹彩に散った金は薄い水色が混じり美しい。

 身分としてユヴェルの方が圧倒的に上で、その彼からの申し出を断れる訳もない。躊躇いながら頷こうとしたところで、甘ったるく間延びした声に遮られた。

「クラウディア様ぁ? と、もしかして!」

 その声に視線を流すと、王宮の中心部に続く廊下から歩いてくるエメリヒとアイコが視界に映る。アイコに腕を差し出しエスコートしていたエメリヒは、クラウディアを目に入れた途端にアイコに向けていた微笑みを消し、表情を硬くした。それでもユヴェルに気が付き、王太子然とした態度でこちらへ歩んでくる。

 しかしそれよりも早く、エメリヒの腕をするりと離しアイコが小走りで近寄ってきた。そのままユヴェルに飛び付こうとする勢いに、彼の右後ろに控えていた側近らしき男性が前に出て止める。屈めた腰を起こしたユヴェルはエメリヒとアイコを一瞥し、小首を傾げてクラウディアへ問う。

「こちらの方々は」

「我が国の王太子であらせられるエメリヒ殿下と、ハーン伯爵令嬢でございます」

「ああ、貴方がエメリヒ殿下でしたか。私はヴァロレーヌ帝国の使節団代表、ユヴェルと申します」

 さすがに王太子であるエメリヒを前にして、ユヴェルは握っていたクラウディアの手を離し右手を胸に当て軽く腰を折って会釈した。それはこの大陸の覇者であるヴァロレーヌ帝国の皇子として洗練された所作で、思わず不躾に見つめていると姿勢を戻したユヴェルと視線が合い、僅かに瞳を細め甘さを含んだ眼差しで返される。

 そんなクラウディアとユヴェルを眉を顰めて一睨みしたエメリヒは、しかし口端を持ち上げて笑みを形作る。

「オルド王国王太子エメリヒだ。確か、貴公の滞在中に夜会を開く予定だとか」

「はい。お帰りになる前日に、フォック家のタウンハウスで開催いたします」

 クラウディアを見ることなく尋ねるエメリヒに、瞼を伏せて答えた。ユヴェルはこちらを見て問いかけてくれた、と浮かんだ思いは見て見ぬ振りをし、クラウディアは余計な口を挟まずひっそりと控える。

「夜会には私も参加する。その際にまた顔を合わせるだろう」

「ああ、それは楽しみですね」

「ユヴェル様、私、アイコと言います! ハーン家の令嬢なんですけどユヴェル様と同じ特別な魔力持ちで」

「アイコ」

 アイコの魔力を帝国侵攻の切り札と考えるエメリヒによって、アイコの言葉は遮られた。王国内での機密事項には当たらないが、戦を仕掛けようとしている相手、しかも脅威である特異な魔力を持つユヴェルにアイコの情報を漏らしたくはないのだろう。

「ええー。でもまぁ、このままでもルートに入るしいっか」

 止められたアイコは不服そうに頬を膨らませるが、ぼそぼそと呟き、そしてにっこりと笑って再びエメリヒの腕に腕を絡ませる。失礼すると辞去し、エメリヒとアイコは大庭園の方へ去っていった。

「お騒がせいたしました」

「いえ、王太子殿下と挨拶できましたから。確か殿下は、クラウディアの婚約者ですよね」

「はい。……え?」

「そうですか、彼が」

 あまりに自然に呼ばれた自分の名に驚き見上げれば、ユヴェルはエメリヒの背中を見送っていた。横顔から窺える瞳の虹彩には金が焼けたような蘇芳色や紺が混じって散り、銀色の睫毛が落とす影は昏い。浮かべたユヴェルの微笑みはうすら寒く、クラウディアの肌を刺した。

「ユヴェル様、ご令嬢の前ですよ」

 側近に窘められたユヴェルはぴくりと肩を揺らし、クラウディアへ視線を戻し目許を緩ませるとひやりとした雰囲気は霧散する。瞳の虹彩に散るのは金に淡い水色や柔らかな朱で、和んだユヴェルにクラウディアは知らずに詰めた息をそっと吐いた。

 そんなクラウディアの視界に、上等な黒い衣服に覆われた腕が差し出される。腕、肩、首と辿りあったのはこちらを見つめるユヴェルの笑みで、腕に掴まれとクラウディアを促していた。しかし、微かに首を横に振ってクラウディアは固辞する。

「お心遣いは無用です。それに……」

 濁した言葉尻に含ませたものをユヴェルは正しく察し、そうですかと呟き腕を下げた。気遣いを無碍にしてしまったが、王太子の婚約者としておいそれと異性とは触れ合えない。先ほどのエスコートはふいを突かれ、歓待する客であり身分として上の立場になるユヴェルを振り払えなかったからだ。

「彼は、貴方を慮ることなく振る舞っているようですが」

 心中を見透かすようなユヴェルの言葉がちくりと胸を刺すが、クラウディアはやんわりと微笑む。

「だからといって、(わたくし)が同じように振る舞っては連鎖の尾が繋がるだけです」

「貴方だけが耐える必要はないのでは、クラウディア」

「……ユヴェル様は、お優しいのですね」

 さすがに敬称は取れないが、ユヴェルが言うように多少崩して彼の名を呼ぶ。ユヴェルから伺えるのはクラウディアを思いやる優しさで、父クラウス以外からは久しく向けられることがなかったそれがむず痒くも温かい。

 仄かに温まる胸から押されて零れ出たクラウディアの笑みは、触れた優しさに柔く解けていた。ユヴェルは一つ瞬き、そうしてクラウディアより高い熱で瞳を蕩かせて返す。

「離宮へ参りましょう。こちらです」

 楚々とドレスの裾を捌き、クラウディアは先導して廊下を歩き出す。その真っ直ぐ伸びたクラウディアの背は華奢で、しかし懸命に自らの足で立ち進んでいるのをユヴェルは知っている。

 クラウディアの背を見つめる瞳の銀色は底深く、虹彩に散る金は蜜をたっぷりと融かし込み胸焼けするほどに甘ったるい。うっそりと笑うユヴェルの瞳は熱に焙られ焦がれ、どろりと粘性を持ってクラウディアに絡み付くのを、背を向けた彼女が気付くことはなかった。



 使節団が到着した初日は離宮に案内し、王国側はクラウスとその腹心たちとクラウディア、帝国側はユヴェルと側近たちとで会食をして終わった。ヴァロレーヌ帝国との開戦へ傾く王宮内では万が一があるかもしれないと警戒し、使節団の滞在中、食事はフォック家から派遣した料理人が離宮の厨房で作り提供する。

 離宮は国王の祖母が晩年を過ごすため、王宮の隅に建てられた。静かな環境は条約締結の協議にも向いており、使節団滞在二日目になる今日は主要人物たちが客間に集まり、条約の内容について確認を行った。この会談に至るまでの間、国を跨いで文書を遣り取りし交流する物品などはあらかじめ決めてある。今日、明日で内容に間違いがないか双方が顔を合わせて確認して詳細を詰め、明後日には条約を纏めた書類に署名し、その翌日には使節団は帰国する予定だ。

「本日予定していた事項は、確認を終えましたね」

 眼鏡の弦を弄ってそう告げたのは、榛色の髪をした男性だ。ひょろりとした彼は名をセドリックと言い、ユヴェルの側近である。初日にユヴェルに近付くアイコを止めたのはまた別の男性で、平民から腕一つでのし上がりユヴェルに取り立てられ護衛となったのだと、ユヴェル自身がクラウディアに教えてくれた。

 ソファに座り休憩を挟んでいたクラウディアは、紅茶の入ったティーカップをソーサーに戻して顔を上げる。

「はい。明日、大まかな交流品目に紐づく詳細を確認すれば問題ございません。このあとは、お休みになられますか? ご希望があれば私がご案内いたします」

「それならば、手紙にあった庭を是非とも拝見したい」

 クラウディアが尋ねれば、ユヴェルは目を輝かせてそう答えた。個人的に文通していた手紙の中で、確かにクラウディアは王宮の庭が美しいと書いたことがある。軽く話題に触れただけだというのに覚えてくれていたことが嬉しく、クラウディアは頬を緩めて頷いた。向かいのソファに腰掛けたユヴェルは眩しそうに目を細め、少し離れた机で休憩していたセドリックを振り返る。

「夕食までお前たちは自由にしてくれ」

「私はそれで構いませんが、グレンは付けさせていただきますよ」

「私に護衛は必要ない」

「それはそうですが、しかし」

 当たり前のように言い放ち小首を傾げるユヴェルに、セドリックは言い淀む。グレンはユヴェルの護衛で腕は確かなのだろうが、帝国の虎と呼ばれるほどの強さを誇るユヴェルに敵はいない。

「お手を、クラウディア」

 立ち上がりクラウディアの前に立ったユヴェルは、右手を差し出す。大きな手のひらの上に指先を揃えて乗せれば、骨の太い指が曲がりクラウディアの関節に引っ掛かって握り込んだ。そのまま引き上げられたクラウディアは膝を落として礼を示し、ユヴェルを扉へ促す。

 握り込まれた手を抜く際、ユヴェルの指関節が深く曲がり爪が皮膚を名残惜し気に掻いたように思うが、表情には出さずクラウディアはユヴェルと並んで離宮から庭へ続く廊下を進む。結局、遠巻きながらユヴェルの護衛であるグレンとクラウディアの侍女が付き従うことになったが、隣のユヴェルは柔らかな笑みを浮かべていた。

 離宮から王宮内部へ入ると行き交う人が増え、ユヴェルの美しさに一瞬惚け、帝国皇子という身分を思い出し脇へ避けて(こうべ)を垂れる。そして隣に立つのがクラウディアであることに気が付くと、表情を歪めて嘲りを滲ませた。

「女狐が帝国に取り入って、何をするつもりなんだか」

「ほら見なさいよ。虎にちやほやされて、狐がだらしなく笑ってるわよ」

「悪名高い虎を招き入れて国を売るつもりじゃないだろうな」

「狐は悪知恵だけは働くからな。戸籍調査を徹底させて、税をさらに巻き上げようって言い出したんだろう?」

「えっ、あの話って本当なの? ただでさえ厳しいっていうのに、お貴族様はいいわよねぇ」

 会話の体だがそれらは聞こえよがしにクラウディアへ向けられたもので、クラウディアは微笑みを揺らすことなくユヴェルの隣を歩いて進む。フォック領民の戸籍を念入りに再調査させたのは真実だった。その目的はいままで長雨による収穫不良や災害時などの補償が一戸当たりだったのを、一人当たりにするためだ。納税は一戸当たりの収入に応じて課されているが、申請があれば減税処置も取っている。

 そうクラウディアが説明しようと、また何かしらの粗を探して嘲り罵られる。それはいままでもそうであった。彼らにとって政策は問題でなく、フォック家という名家に生まれながらほぼ魔力を持たず、女だというのに小賢しく立ち回るクラウディアが目障りなのだろう。

 クラウディアの耳に届くということはユヴェルにも聞こえているはずだが、彼は凪いだ表情で悠然とクラウディアの隣を歩いている。ちらりと上目で窺うと視線が絡み、双眸をゆったりと細めた。

 クラウディアがユヴェルを案内したのは、王宮の大庭園ではなく裏にひっそりと佇む小庭園の温室だ。確かに大庭園は豪奢な花々が絢爛に咲き誇り、一分の狂いなく整えられた薔薇の垣根が美しい。しかしクラウディアは、この王宮の裏にある品種改良中の小振りな花や、新たな効能開発など研究用の薬草が植えられたこの小庭園が好きだった。ユヴェルに宛てた手紙に書いたのはこの小庭園で、支援する王立研究所の職員とともに薬草を摘んだことや、この庭に咲いた淡く色付く花々をクラウスの執務室に飾ったことなどを綴ったのだ。

「見事ですね」

 背の低い花々を眺めながら囁いたユヴェルの声音は柔らかで、クラウディアも口元を緩めて一つ頷く。

「皇城の庭も美しいのですよ」

「皇城は純白で優美な場所だと聞き及んでおります。庭も、夢のような美しさなのでしょうね」

「ええ。貴方に見せてあげたい、クラウディア」

 温室を覆うガラス越しの青空を見上げる顔をゆっくり巡らせ、ユヴェルはクラウディアへ笑みを向ける。きっちりと乱れなく略装を纏い降り注ぐ光に照らされたユヴェルは、高潔で神々しい。しかし目許をたわませクラウディアへ手を差し出す姿は、堕落を誘う淫らで甘美な悪徳が人の形を取ったようだった。

「どうぞ、帝国へ」

 クラウディアを促すように傾げた小首に合わせ流れた銀髪は陽を散らし、しかし皇族なのに首に掛からない程度の短さは珍しい。揃えて組んだ手に力が籠り、そんなクラウディアを見透かしてユヴェルはさらに笑みを深めた。

「私は武勲を幾つか立てていますし、魔力も多少は自信がある。それなりに強いのではと自負しております」

「ご謙遜を。ユヴェル様の高名は大陸に轟いておりましょう」

「ふふ、クラウディアに誉めていただけるのなら、捨てたものではないですね」

 銀色の虹彩に散る金はいまは混じり気なく、稀な色を宿す双眸がクラウディアを映してとろりと蕩ける。かつん、とオレンジ色の石畳を靴音を鳴らして踏み、ユヴェルが一歩距離を詰めた。微かに息を飲むクラウディアに、ユヴェルは吐息を零して密やかに笑う。

「私の名を使えばいい。帝国との国交を開いたのは貴方の功績で、その帝国に棲む虎は貴方だからこそ牙を収めているのだと。貴方にはこのユヴェルが付いているのだと知らしめ、貴方を虚仮にし侮る者たちへ、虎に喉笛を噛み千切られたいのかと言い放てばいい」

 自らへと差し出されたままのユヴェルの手を見つめ、次いでまっすぐに銀色の瞳を見つめてクラウディアは首を横へ振った。

「お気持ちだけ、頂戴いたします」

 ユヴェルの言葉は、侮られ見下されるクラウディアを慮ってのものだろう。気遣いは嬉しいが、それをすればヴァロレーヌ帝国と通じオルド王国を裏切るつもりだと判じられ、ユヴェルにまで迷惑がかかってしまう。

「ありがとうございます、ユヴェル様。御心(みこころ)はとても嬉しいですわ」

「国を思い尽くす貴方を嘲笑う。そんな王国にある必要はないのでは、クラウディア」

 かつんと鋭い音が鳴り、ユヴェルがまた一歩クラウディアへ歩み寄る。差し出したままのユヴェルの手が揃えて握り込んだ両手に触れ、身を固くするクラウディアの力などものともせずに指を一本、また一本と解して組んだ手と手を剥がし、左手を掬い上げた。

「貴方は真に民を憂い、慈悲と高潔を持って臨んでいる。それは王国の(・・・)民だけに与えられる慈悲でしょうか。すべての民に、それは等しく注がれるものなのでは?」

 ねえ、クラウディア。

 蜜のように甘ったるい声がクラウディアの耳を嬲り、どろりと粘性を持って絡み付き流し込まれる。

「どうぞ、帝国へいらしてください。皇城の庭を、貴方にお見せしたい」

 明確な言葉は避けたが、それは(いざな)いだ。ユヴェルは王国を捨てヴァロレーヌ帝国へ来いと、クラウディアを誘惑していた。唇を戦慄かせ目を瞠るクラウディアの様子に瞳をたわませ、ユヴェルは恭しくクラウディアの左手を持ち上げる。薄く形のいい唇がクラウディアの爪先に寄せられ、吐息が指を舐めるくすぐったさに身を竦めると、ユヴェルは喉を鳴らしてくつりと肩を揺らした。

「何をしている」

「友好を温めていたのですよ」

 そう答えたユヴェルの呼気が、クラウディアの指先を掠める。屈めた腰を起こしたユヴェルはクラウディアを覗き込み、青銀が淡く混じる澄んだ水面に自身が映っているのを確かめると緩く口端を上げ、すっくと背筋を伸ばしクラウディアの肩越しへ顔を向けた。

 するりとユヴェルの手が離れ、包まれていた体温が消え指先が冷たい。震える呼吸を一息で整え、クラウディアもゆっくりと背後を振り返った。

「ユヴェル様に、庭をご案内しておりました」

「ユヴェル()か」

 そこに立っていたエメリヒはぼそりと何事かを呟いたが、クラウディアには聞き取れなかった。そんなクラウディアを眉一つ動かすことなく一瞥したエメリヒは、隣のユヴェルへ視線を投げる。

「庭でしたらこんな王宮裏の寂びたものではなく、ユヴェル殿下には是非、大庭園をご覧いただきたい」

「私がフォック嬢に我が儘を申しました。小さいながらも趣があり美しいと、ご令嬢から伺っておりましたから」

 披露するのに何故みすぼらしい庭をとエメリヒが含んだ棘をユヴェルが微笑みで溶かし、柔らかな眼差しでクラウディアを振り返る。目線を伏せ軽く膝を折って礼として応えたクラウディアの旋毛に、エメリヒの凍えた視線が突き刺さった。

「貴国と随分仲を深めているようで、婚約者として誇り高い限りだ」

「ええ。聡明で思慮深い、素晴らしい方ですね。エメリヒ殿下が羨ましい」

 エメリヒはクラウディアへ、ユヴェルと通じ王国を売り裏切っているのではないかと暗に問い掛けている。開戦を止められるのならば、それもいいのかもしれない。クラウディア一人と引き換えに王国の民が無事なのならば、視野に入れるべき選択肢だ。しかしその場合は、王侯貴族の身柄は保証されない。

「殿下も、花を愛でにこちらへいらしたのですか」

 それでもいまはまだ売国行為などしていないとエメリヒを見澄ますクラウディアの横で、穏やかな声音でユヴェルがエメリヒに尋ねる。瞬間、エメリヒの眉間に僅かな皺が寄ったが何処か傲然とした笑みを貼りつけ、胸に手を当てた。

「私はこの先の省庁に用があります故、失礼いたします」

 浅く腰を折り去辞を述べたエメリヒは、丁寧に撫で付けられ一つに結んだ黒髪を靡かせ立ち去っていく。クラウディアを横目で瞥見した彼の瞳は血を沸騰させたように鮮やかな真紅で、向けられた感情は苛立ちと仄かな侮蔑だ。

 離れた場所とはいえ護衛と侍女がおり、決してユヴェルと二人きりではない。それならばエメリヒとアイコは、と詮のない思考に触れようとする己を追い出すように、クラウディアは小さく(かぶり)を振った。隣でエメリヒの背を見据えていたユヴェルは、ついと目を細める。

「こちらの庭」

 頭上からの声にユヴェルを仰げば、稀な銀色がこちらを見下ろしていた。僅かに伏せた睫毛に陰って銀は色彩を欠き、しかし散る金色は硬く冷え、混じる紺や蘇芳にクラウディアの心臓裏がざわつく。

「エメリヒ殿下と何か思い出でも?」

「婚約して間もない頃、殿下とこの温室で語らったことはございますが……」

 しかしこの小庭園で行っている花や薬草の品種改良、研究はクラウディアが中心となって行っており、エメリヒの訪れはいつかしなくなった。少なくとも、最近は見掛けたことはない。

「ああ、なるほど。ふふ」

 クラウディアの答えに一人納得し肩を震わせて呟くユヴェルの顔は、口元を覆った手でこちらからは見えない。笑みを零したというのに、声の調子はつまらなそうに聞こえた。

 エメリヒの苛立ちが自らの血を沸騰させ火炎を纏うものなら、ユヴェルは静かに身の内に滾らすそれがふいに漏れて這い、相手に絡み付き心臓まで凍らせる。氷の手が背筋を撫でる感触にふるりと体を震わせると、すぐさまユヴェルは手を下ろし柔らかな笑みを浮かべた。

 凍てつく気配は霧散し、垂れた目尻を緩めてユヴェルは微笑む。

「こちらの庭は、フォック領を思い起こさせる」

「王都へお越しの際に、我が家の領地をご覧になったのですね」

「それもですが、昔に訪れたことがあるのです」

 フォック侯爵家の領地はオルド王国の東端に位置し、ヴァロレーヌ帝国と接している。帝国からの賓客である使節団が、戦を推し進める王国内を通り王都まで安全に旅できるよう、親和派の領内を跨ぐ行程で調整した。今回の条約締結、そして会談を推進したのはフォック家で、使節団が王国に入り一番初めに通ったのがフォック領であるためそう話を振ったが、ユヴェルから返ってきたのは意外な答えだった。

「フォック領に?」

「はい、過去に一度。緑が豊かで落ち葉が辺り一面を覆い、樹々の隙間から陽が零れ温かく降り注ぐ」

 温室は研究用に樹木も植えられ、ガラス越しの陽光を透かして石畳に降る木漏れ日は緻密な模様を描き美しい。その周りには薬草や楚々とした花が咲き、ユヴェルに言われクラウディアは自分がこの庭が好きな理由がすとんと腑に落ちた。

「あの清らかで穏やかで、自然本来の美しさが根付く森に似ています」

 ユヴェルの声こそが木漏れ日のようで、静かに燦々と温室へ降る。クラウディアがどうしてか思い出すのは、あの少年を最後に見た森だった。

 薄汚れた灰色の髪に、理知を宿した灰色の瞳。満身創痍でぼろぼろで、けれどしっかりとクラウディアへ問い掛ける少年と出会ったあの森を、どうしてか思い出す。

「私を、この帝国の虎を動かしたのは、貴方だからです」

 ガラス越しの陽を浴び、銀の髪は光そのもののように輝いていた。虹彩に散る金は鮮やかなオレンジにも見え、紫や赤に縹、陽を透かす葉脈を思わせる緑を混ぜ、銀色の瞳に虹が煌めく。胸に手を当て笑みを浮かべるユヴェルは気品に溢れ美しく、常人に非ざる色を纏う様はまさに天の現身(うつしみ)だ。

 それだというのに、何故かあの瀕死な状態で立っていたぼろぼろな少年がユヴェルに重なる。ほんの数刻過ごしただけで笑った顔なんて見れなかった。端正な顔立ちだったがそこにあったのは険しい表情ばかりで、それでもそんな彼が優美に微笑めば目の前のユヴェルのようになるのだろうと想像がつく。

 胸を締め付ける感慨深さに淡く目許を緩めれば、ユヴェルは慈しむ笑みを浮かべた。

「貴族の義務を越えこうして行動に移すクラウディアだからこそ、愛おしい」



 あれは、エメリヒの婚約者に選ばれる数か月前のことだ。

 社交シーズンに入りクラウスから呼ばれたクラウディアは、領地から王都のタウンハウスへ移った。デビュタントはまだ先だが、宰相である父の背を追い領地運営や政に関わることを自ら望むクラウディアを社交に伴い、要人と顔を繋ごうというクラウスの狙いだ。

 シーズンではあるが宰相の仕事がなくなる訳ではなく、クラウスとともに参内し環境庁の職員と挨拶を済ませ、話し込むクラウスを残してクラウディアは建物の外に出てきた。王宮は広く、勝手のわからない幼いクラウディアはすぐ傍にガラス屋根を見つけ、そちらへ足を向ける。

「こちらも王宮の庭園でしょうか?」

 いまもクラウディア付きを務める侍女が、鮮やかさのない庭を見渡す。しかしクラウディアは意匠を凝らしたガラス張りの温室に目を奪われ、そちらへ歩き出した。王宮だけあって手入れはされているが花もほとんど植えられていない庭は緑が茂り、視界は遮られ声も届きにくい。一瞬のことにクラウディアを見失った侍女が自分を呼ぶ声は聞こえず、温室に意識を取られたクラウディアはそのガラス扉に手を掛ける。

 適温に保たれた温室の中も、やはり色味には欠け草木ばかりだ。しかしその緑豊かな様子が懐かしくも落ち着き、小さなクラウディアは両手を広げて大きく息を吸い込んだ。自然と綻ぶ表情に頬を緩め、整えられた石畳を踏み歩く。

 萌える緑は陽を透かし、樹木はガラス越しの光を浴びて輝いている。木漏れ日が描く模様は様々に変化し、思い出すのはあの森での出来事だった。穏やかで美しい森に現れた、満身創痍でぼろぼろな姿が異質な少年。

 無事でいるだろうか。立ち止まり祈りを捧げていると、小さな物音を耳が拾う。

「どなたかいるのですか……?」

 問い掛けたクラウディアの声に、茂みの影が揺れる。覗き込めばそこにいたのは、黒髪の少年だった。抱えた膝に埋めた顔を上げ、険しい表情でクラウディアを睨み付ける。

 血を透かした真紅の瞳は色鮮やかで、しかし目許にはうっすらと隈が見えた。黒髪に真紅の瞳を持つ少年など、この王宮内ではクラウディアより二つ上のエメリヒ王子だけだ。

「勝手に立ち入り、申し訳ございません。すぐに去り……」

「構わない。ここは王宮に出入りできる者に開かれている」

 (こうべ)を垂れるクラウディアを、エメリヒは片手を上げて止めた。エメリヒが護衛も連れず、一人でひっそりとしたこんな場所にいる理由はクラウディアにはわからない。しかし、エメリヒは棘を纏い険があり、疲れが見えた。

 猫科の動物が牙を剥いて威嚇する様に似ていて、それはクラウディアにあの少年を思い出させる。

 それは貴族の義務か。持てる者が与える余裕か。それとも哀れみ、責任か。痛みを堪えながら静かに問う声は、クラウディアの耳奥にこびり付いて離れない。

 瀕死ではないにしても目の前に蹲るぼろぼろの少年を放っておけず、クラウディアはエメリヒの隣に座って顔を覗き込み、笑い掛けた。

「私はフォック家のクラウディアと申します。今日は父と一緒に初めて王宮へ参りました。こちらの庭は、緑が鮮やかで美しいですね。私の領地も自然豊かなのです」

 オルド王国唯一の王家直系である王子に不敬とは承知で、クラウディアは目を合わせる。ぴくりと片眉を僅かに上げたエメリヒに笑みを深めて返し、クラウディアは曲げた首を戻して領地での出来事を語る。

「先日は教会を訪れた際、山羊の乳からチーズを作ったのですが」

 隣のエメリヒから相槌も返答もないが、構わずクラウディアは一人で話を続けた。そのうち自分を呼ぶ切羽詰まった侍女の声が聞こえ、クラウディアは腰を上げる。

「呼ばれておりますので、失礼いたしますね」

 こんな人気のない場所に供も連れずにいるのだから事情があるのだろうと、侍女がこちらに気付く前にクラウディアはエメリヒに別れを告げ温室を去る。ちらりと振り返って様子を窺ったエメリヒは、微動だにせずじっと虚空を見つめていた。

 その後、実質エメリヒの婚約者選定である王妃主催のお茶会に招待されたクラウディアは、エメリヒの婚約者となる。お茶会でも選ばれたあとの顔合わせでもエメリヒは王子に相応しい微笑を浮かべていて、あの表情が剥がれ落ちたエメリヒを知るクラウディアはその違いに彼の辛苦の一端を見た思いだった。

「私はフォック家に生まれましたが、魔力をほとんど持ちません。ですから、他にできることを頑張ります……殿下の婚約者に相応しくなれるように」

「ああ」

 婚約者になり顔合わせを済ませ、クラウディアはエメリヒと小庭園の温室を歩いた。自身がエメリヒの婚約者に選ばれたのは、色んな思惑が重なった結果なのは理解している。それでも選ばれたのなら力を尽くし、エメリヒとともに頑張りたい。

 もうあの少年を救えなかったような後悔をしたくはない。だからクラウディアは、努力するのだ。

「一緒に国を支えよう、クラウディア」

 そう言ったエメリヒの声音は、力強くも優しい。そっとエメリヒを窺えば真紅の瞳はクラウディアをじっと見つめていて、視線が合うと柔らかに目尻を落とした。真紅は熱を孕んで鮮やかに燃え、美しかったことを覚えている。

 あの日、確かにクラウディアとエメリヒは婚約者だった。



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