1 狐の事情
「殿下、私の話をお聞きください。エメリヒ殿下!」
「小賢しいぞ」
エメリヒと呼んだ男に伸ばした手は、彼が振り返った勢いに負け追い縋れなかった。クラウディアは空に浮いた手を胸元で握り直し、それでも視線は真っ直ぐにエメリヒを見据える。銀盆に張った水が朝陽に照らされたように、仄かに青銀の差した水色の瞳は透徹で美しいが、それがエメリヒの心を動かすことはない。
クラウディアを一瞥し、エメリヒは踵を返す。翻った丈の短いマントの裏地は繊細な刺繍が施され、この国が誇る最高級品だ。ウエストコートもトラウザーズも同様に上等な仕立てで、この大陸の西を占めるオルド王国の王太子が纏うのに相応しい。
エメリヒは王太子で次期国王になる。そしてクラウディアは、そのエメリヒの婚約者である。
執務室に続く廊下を大股で進むエメリヒに取り縋ろうとまた伸ばした手は、横から現れた人物に弾かれ、結局エメリヒには届かなかった。
「殿下! 遅いので迎えにきました!」
クラウディアを押し退けエメリヒの腕に絡み付いた女は、蕩ける笑みを浮かべて彼を見上げる。その目尻の垂れた瞳は桃色で、それは彼女の特殊な魔力が発現した色だ。ふわふわとした桃色の髪を肩上で揺らす彼女は、ハーン伯爵家の令嬢アイコ。十五の春に特異な魔力に目覚めたアイコは、伯爵という身分ながら王太子であるエメリヒの近くに侍ることを赦されていた。
この世界には、魔術が存在する。神話や伝説の時代に比べて使用できる者は格段に減り、素質に血筋が大きく関わる魔術が使えるのは、王族や高位貴族がほとんどだ。平民や下位貴族から出現するのは稀で、そして往々にしてそうした者たちは高い魔力や特殊な魔術を使える。アイコも例に漏れず、光の魔力に目覚めた。
火、水、風、土という四大元素以外の魔力保持者は王国の記録によれば五百年振りで、光の魔力は傷や病の回復以外にも痩せ細った土地を浄化によって豊かにし、さらにはまるで太陽の如く閃光で大地を更地にすることもできると文献には記されている。
その力があればと、オルド王国は大陸の中央から東に位置するヴァロレーヌ帝国に戦を仕掛けようとしていた。
しかし、元々の国力に歴然とした差があり、圧倒的に劣るオルド王国では負けるのは目に見えている。さらに厳格な身分差が存在するこの国は、税を搾り取られ例え幾ら稼ごうと平民のままである多くの国民に戦争を耐え抜くだけの余力はないし、現状の国庫や軍備、人材を考えても王国に民を支える力もないだろう。そして何より、帝国にも特異な魔力の持ち主が存在しているのだ。
ヴァロレーヌ帝国第二皇子、ユヴェル・ド・ヴァロレーヌ。
「殿下、いまの我が国では帝国と戦っても勝ち目はありません。ヴァロレーヌとは条約締結に向け交渉中で、来週には使節団の方々が訪問されます。お考え直しください!」
「私がいれば、勝てますよぉ」
「そういうことだ。差し出がましいぞ、女狐め」
女狐。その一言に虚を突かれたクラウディアを置き去りにし、エメリヒは腕にアイコをぶら下げたまま足早に執務室へと入っていった。エメリヒの婚約者であり末は王妃となるクラウディアは、本来なら王太子の執務室にも入れる身分であるが、アイコに傾倒し溺愛するエメリヒには煙たがられ、そのアイコにも嫌われているクラウディアは、いまや彼に拒まれ近寄れない。入ろうとすれば、見張りの兵に止められるだろう。
その見張りの兵や一部始終を見ていた侍女たちは、遠巻きにクラウディアを眺め悪意ある表情でくすくすと笑う。それを跳ね返すように毅然と顎を上げ、クラウディアは優雅にドレスの裾を捌き王宮の廊下を進んだ。
クラウディア・フォン・フォックは、オルド王国宰相を父に持つ侯爵家令嬢だ。血筋によるところが大きい魔力を脈々と受け継ぐフォック家の当主である父クラウスは、頭の切れる有能な宰相であり王族に匹敵する魔力を持っている。魔力の属性は瞳に表れると言われ、歴代の当主と同じく水の魔力を表す瞳は純度の高い青で、クラウディアと比べるべくもないほど美しい。
そう、確かにクラウディアも魔力を持っているが、微々たるものなのだ。それは瞳の色にも表出し、父に似ず薄い水色の瞳だった。王太子の婚約者に選ばれるには、家柄や教養、財力や人脈などもあるが、魔力の質や大きさも重要な条件になる。大した魔力の持ち主ではないクラウディアがエメリヒに宛がわれたのは、父が宰相として王国に多大な貢献をしていること、そしてフォック家が由緒ある名高い貴族であり後ろ盾として申し分ないこと、そして本人の魔力が微量だとしてもフォック家が優秀な魔力を持つ血筋であること。これらによって、クラウディアは十一歳でエメリヒの婚約者となり七年になる。
王族として強い火の魔力を持ち、次期国王として能力も申し分ないエメリヒの婚約者として常に指差され笑い種にされてきたクラウディアは、それならば魔力以外で自分のできることをしようと決心した。勉学に励み、あらゆる教養を学び、淑女に相応しいマナーを身に着け、宰相であるユリウスに付いて政治さえも修め、父の右腕として未来の王妃として相応しくあるよう、国政にも関わっている。
そんなクラウディアを蔑み揶揄し、人々はフォック家の女狐と罵詈する。あの釣り目を見ろ、また悪巧みをしているぞ、などと言われようが、クラウディアはオルド王国をよりよくしようと奔走していた。
「殿下は説得できたかい?」
「いいえ、聞く耳を持っていただけませんでした。ハーン伯爵令嬢がいれば、戦に勝てると……」
エメリヒに取り次ぐこともできず、クラウディアは執務を終えたユリウスとともに王都中央にあるタウンハウスへ戻ってきた。夕食を終え、書斎で向かい合いそう切り出した父ユリウスへ、クラウディアは首を横に振って返す。
「そうか。陛下も同じ答えだったよ」
宰相としてユリウスも国王へ帝国との戦を思い留まるよう進言したが、アイコの魔力があれば帝国さえも鎮圧できると言い張るばかりだった。
「陛下は暗愚ではないはずなのに、五百年に一度という光に目が眩んでおられる」
「エメリヒ殿下もです。国力や軍備の差、何よりヴァロレーヌ帝国にも特異な魔力を持つ第二皇子が控えていることを考えれば、平素の殿下なら戦などと提案されないでしょう」
この度の帝国との戦を提言したのは、エメリヒだった。彼は開戦に向けて軍拡を進め、戦略の核にアイコを据えてヴァロレーヌを手に入れるのだと声高に叫んでいる。
魔力は発現が確認されたら、王立魔力省に申し出ると定められている。魔力とそれに伴う魔術を研究する王立魔力省が魔力を鑑定し、魔力持ちは国に記録される。場合によっては国に保護されることもあり、アイコはそれに該当した。
王族を凌ぐ魔力量に四大元素以外の特異な力を持つアイコは、その愛らしい容姿に人懐っこい性格で周囲を魅了し、それは王族や政治の中枢にまで及んでいる。魔力持ち、さらには特異な魔術は途轍もない戦力ではあるが、ヴァロレーヌ帝国には同じく特異な魔力持ちがいるのだ。
第二皇子であるユヴェルの魔力は明かされていないが、底なしの魔力量と強大な魔術を使うと伝え聞く。しかもその力に驕ることなく敵の動きを見極め軍を指揮し、冷静に相手の心臓を仕留める。しなやかで隙がない強者である様は、帝国に生息する動物に例えられ、ヴァロレーヌの虎と畏怖と敬意を込めて呼ばれていた。
ユリウスはソファに深く身を沈め、亜麻色の髪を掻き上げクラウディアへ視線を向ける。親子だけあってユリウスも釣り目だが整った顔立ちは涼やかで、年齢による皺が目尻に寄り、クラウディアより柔和な印象だ。不正を赦さず利害を貪る政敵には蛇蝎のように嫌われているが、柔らかな物腰に機知に富んだ会話、怜悧に整った容姿と、男女問わず好かれている。
「それで、ヴァロレーヌ帝国からの使節団はどうなったのかな?」
「軍拡は進んでおりますが、帝国に宣戦布告した訳ではありませんので、予定通り来週には王都に到着されます。私が案内役を務めさせていただきます」
「そうだね、クラウが頑張っていた帝国との和平の一環だ。それに戦へ傾く王宮では、帝国親和派は少ない。クラウが使節団に付くのが最適だろう」
疲れを滲ませながらもクラウスはクラウディアへ微笑み、労わる。こくりと一つ頷いたクラウディアの頬は仄かに赤く染まり、その愛らしい姿にクラウスはまた笑みを深めた。
就寝の準備を整えた侍女が退室し静まり返った部屋を横切り、クラウディアは窓際にある机の上に置かれた小箱に手を伸ばす。魔石を利用したランプの灯りは柔らかく、鍵の掛かった中に仕舞われていた手紙をぼんやりと照らしていた。
少し癖のある美しい文字で綴られた手紙の最後には、ユヴェル・ド・ヴァロレーヌと署名されている。その名前を指先でなぞり、顔を合わせたことはない彼の人へ思いを馳せる。
オルド王国とヴァロレーヌ帝国は和平を結んでいる訳ではないが、国土と国力の強大な帝国に王国が手を出すことはなく、帝国は噛み付かないのならばと静観している状態だ。国が関わらないギルドや商会は国境を越えて貿易や人材派遣などを行っているが、国として公式な取り引きや交流はない。それをクラウディアが先頭に立ち、ヴァロレーヌ帝国と交渉を重ね、まずは国交を開始する条約締結直前まで漕ぎ着けたのだ。
この交渉のオルド王国側代表はクラウディアであり、ヴァロレーヌ帝国の代表はユヴェルだった。帝国の虎と呼ばれるユヴェルは、帝国軍を率いる傍ら皇太子を支えて執務もこなしているようで、まさか帝国へ話を持ち掛けて彼が出てくるとは思っていなかったクラウディアは、とても驚いた。しかしユヴェルは聡明で才知に溢れ、交渉は順調に進み国交開始まであと一歩まで来たというのに、アイコの出現によりそれも立ち消えようとしている。
国交を開き、それから和平条約締結まで持っていくことがクラウディアの目標だった。帝国はあれだけ広大ながら豊かさを保ち、実力があれば誰にも機会が与えられ、そうでないものにも等しく保障があり社会全体で助け合う風土と仕組みがある。未来の王妃として、クラウディアはこのオルド王国の身分差による格差をなくし、帝国のような国にしたいのだ。
王国の代表として文書のやり取りを行う中で、ユヴェルから個人的な手紙をもらい、彼と文通をする仲となったクラウディアはそんな夢を手紙で語った。ユヴェルは揶揄うことはせず、真剣に受け止めながら帝国での日々を綴って返してくれた。そんな優しい姿と虎などと呼ばれる猛々しさが、どうにも噛み合わない。
文字として美しくはあるが変哲のない、けれど何処かくすぐったいユヴェルの名前を眺めながら、クラウディアはそっと頬を緩める。そんな表情も小賢しい女狐がほくそ笑んでいると王宮では蔑まれるのだろうが、いまは自分一人だけだ。クラウディアは、ユヴェルと直接会える日を指折り数え楽しみにしていた。
『何故、そこまで国を憂い尽力なさるのですか』
それはいつだかのユヴェルからの手紙に書かれていた。お気に入りのペンを握り、クラウディアは在りし日の思い出を綴って返す。
それは、エメリヒの婚約者になる前のことだ。まだ幼いがクラウディアだが、宰相を務める父の背を見て育ち、また由緒正しい侯爵家であるフォック家令嬢として誇りを持ち、慈善活動にも精を出していた。母は産後の肥立ちが悪くすでに亡くなり、父は王都での勤めがあり領地を不在にすることが多い。そんな中で家庭教師や家令たちに囲まれ、税を預かる貴族として領民の命と生活を守りよりよくすることは義務であり当然のことだとクラウディアは教えられた。
それを改めたのは、教会を慰問し施しを行った帰り道だ。教会に身を寄せる子供たちと一緒に遊び回り、支援物資をシスターに渡し困りごとを聞き、馬車でカントリーハウスへ帰る途中で倒れている人影を見つけた。確認すると言った護衛の戻りが遅く扉を開け馬車から降りれば、護衛がしゃがみ込んだ先にいたのはクラウディアと年の頃の変わらない少年だった。
「クラウディア様、馬車にお戻りください!」
「怪我をされているのですか?」
護衛に並び確かめれば、薄汚れた灰色の髪をした少年の衣服はぼろぼろで、硬く瞼を閉じていた。至るところに怪我を負い、特に腹部の傷は深そうである。せめてもと少年の腹部に手を翳し、クラウディアはなけなしの魔力を振り絞る。魔術で出した水で創傷を洗浄し、屋敷へ運ぶために顔を上げたところで怒声が響いた。
「何事ですか!?」
「野盗のようです! クラウディア様は馬車へ!!」
慌てて少年を担ごうと伸ばした手は、ぱしっと鋭い音とともに拒まれた。視線を移すとうっすら目を開けた少年が、クラウディアを睨んでいた。その容貌は幼いながらも整い、近寄り難い高貴な雰囲気に気圧され呆然と見つめていると、少年は鈍重な動作で立ち上がりよろけた体を石畳を踏んで堪え、のろのろと森が広がる方へと踵を返して走っていく。
「待って、そんな怪我で何処に行くのです!」
野盗らしき数名と応戦する護衛たちの隙を縫い、自身の名を叫ぶ声を背に受けながらクラウディアは森に入った少年を追いかける。慰問のためいつもより簡素な恰好ではあるが、長い裾に足を取られ縺れながらもクラウディアはすぐに少年に追い付いた。負傷した体では限度があり、よろよろと歩くよりも遅く走る少年の腕に触れれば、またクラウディアの手は少年によって弾かれる。
「……触るな」
「そんな怪我で何処に行こうというのですかっ!」
「見たところ貴族の令嬢か。厄介事に巻き込まれるのは嫌だろう? 放っておいてくれ」
「怪我を負った人を放っておける訳ないでしょう!?」
今度こそ強引に少年の腕を取ったクラウディアは、その腕を己の肩に掛けて少年を支えた。背丈の差がない少年の顔を間近から覗き込み視線を合わすと、見開いた少年の瞳とぶつかる。灰色のそれは理知の光が宿り、その美しさに一瞬見惚れたクラウディアは頭を振って切り替え馬車に戻ろうとするが、少年が踏み止まり叶わなかった。
「離れろ! ……っ」
少年に押されぐらりと傾いだクラウディアの頬を何かが掠める。どさりと草葉の落ちた上に倒れ少年を見上げると、肩にナイフが刺さっていた。どうやら飛んできたナイフから庇われたらしい。がさりと草を踏む音に辺りへ視線を走らせると、先ほどの野盗が一人、剣を構えてこちらへ向かってきているのが見える。
「俺のことは置いて、早く逃げろ。あいつらの狙いは、俺だ」
「置いていけません」
「それは貴族の義務か?」
「えっ」
油断なく野盗を見据えながら、少年は静かな声でクラウディアに問う。冷や汗を流す少年の横顔を仰ぎ、次いで野盗を見遣り、クラウディアは少年を助けようと一人でここまで追ってきた自分の感情を考える。
「持てる者が与える余裕か? それとも哀れみ、責任か? そんなもの、いつか底を突くぞ」
「……わかりません」
ぽつりと呟いたクラウディアを一瞥し、しかし少年は美しい瞳をすぐさま野盗へ戻す。
「正直なことだな」
何処か呆れ、小馬鹿にした響きを含み少年は鼻を鳴らした。いままでのクラウディアなら、貴族の義務であり責任で当然のことだと答えただろう。しかしそれも己の命があってこそであり、危機に瀕したいま、クラウディアの胸中はそれでも少年を助けたいと叫んでいた。
ぐっと足に力を入れた野盗が一気に距離を詰め、少年の心臓目掛けて切っ先を突き出す。それを後ろに倒れて避けたが、野盗は剣を振り上げた。
「駄目!!」
少年の傷を洗い空に近い魔力を捻り出し、クラウディアは野盗の顔に水を浴びせる。視界を潰された野盗が怯んだ隙に、クラウディアは少年に覆い被さった。
「退け! お前も死ぬぞ!!」
「嫌ですっ! 理由なんてわかりません! でも貴方に死んでほしくない!!」
「馬鹿っ!」
やはりクラウディアの魔力は大したことなく、ただ水を掛けられただけの野盗は怒りに目を燃やして再び剣を頭上に構えた。少年をぎゅっと抱き締め、クラウディアを剥がそうともがく少年に今度は突き飛ばされないようにしがみ付く。
覚悟を決めて目を瞑り、瞼を貫通するほどの光に包まれてクラウディアは意識を失った。
次に目を覚ましたとき、クラウディアはカントリーハウスの自室に寝かされていた。勢いよく上半身を起こしたクラウディアの背に手を添えた侍女に、急いで何が起こったのか尋ねようとして声が出ず咳込む。背を撫でられ手渡された水を含んでやっと一息吐き、クラウディアは口を開いた。
「彼はどうなったの。皆は無事ですか、何が起こったのです……」
「それが」
クラウディア付きの侍女が語るには、襲ってきた野盗を制圧しクラウディアの元へ向かおうとしたところで、森から凄まじい光が立ち昇ったそうだ。それはクラウディアが向かった方角で、森に分け入った護衛が発見したクラウディアは樹に背を凭せ掛けた状態で気を失っており、他に誰もいなかった。
「彼は、あの少年はどうしたのです!? それに、お、襲ってきた人も」
「お嬢様以外、周りに人影はなかったと申しておりました。これは、あとから騎士団長様から詳しいお話があるかと存じますが、どうやら襲撃してきたのはただの物盗りではないようでございます」
その言葉に、クラウディアは薄い水色に仄かに青銀の差す瞳を瞠る。
「お嬢様は、丸一日寝込まれておられたのです。いまはまだ、安静になさってください」
外傷は転んだときに負った切り傷くらいだが、極度の緊張と恐怖からかクラウディアは滾々と眠っていたらしい。生まれたときから世話になっている侍女にそう言われてしまえば逆らえず、大人しくベッドに身を沈ませる。横になった視界の端に映る自身の亜麻色の髪をぼんやりと眺め、煤けた灰色に薄汚れざんばらに切られた髪をした少年を思い描く。身に着けた衣服もぼろぼろで傷だらけ、憔悴しふらふらだというのに、気品を纏い瞳は曇りなく理知を宿し美しかった。
森で発見されたとき、クラウディアは樹に寄り掛かっていたという。もしかしたら、あの少年がそうしてくれたのかもしれない。
少年もクラウディアも丸腰だったが、武器を持つ相手に対して彼は無事だろうか。自分が助かったのだから、彼もきっとそうだと祈り信じながら、誘う眠気に抗えずクラウディアは再び瞼を閉じた。
その後、フォック領自警騎士団の団長から聞かされたのは、襲ってきた奴らは野盗を装ってはいたがあの動きは高度に訓練された兵士で、尋問にも口を割らず、捕まえた者すべて収監した牢屋の中で舌を噛み切り自決したそうだ。ただ、応戦中に彼らが叫んだあいつを追えという発音は音節をはっきりと区切って聞こえたので、出身はヴァロレーヌ帝国ではないかということだった。この大陸は少数民族などを除けば共通語が主な言語だが、その土地による独特な発音や言葉がある。クラウディアを護衛し戦った騎士は、それが帝国のものと思われると証言したと伝え騎士団長は話を締めた。
この出来事以来、クラウディアの胸にはあの少年が住みいつも自分に問いかける。
それは貴族の義務か。持てる者が与える余裕か。それとも哀れみ、責任か。
いいえ、いいえ。見栄でも理想でも偽善であろうとも、クラウディアは必死に首を振る。少年の生死も行方も結局掴めず、その後悔はずっとクラウディアの身の内で燻り消えることはない。もうこんな後悔はしたくない、だからクラウディアは努力する。
さすがに帝国の人間らしき兵に襲われたことや不可思議な光など詳しくは書けなかったが、昔に一人の少年を救えなかった後悔からの行動で、だから国を憂うという綺麗事ではなく、矮小なクラウディア自身の思いに基づくものだ、とユヴェルの手紙に返信した。
それに返ってきた内容は、彼はきっと無事ですよ、貴方の思いも届いていることでしょう、と。少し癖のある美しい文字で綴られた言葉を、手紙を、クラウディアはそっと抱き締め大事に小箱へと仕舞ったのだった。