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すばらしきかなこの世界  作者: 蝉時雨
第一章 クランコンテスト編
8/54

第一章(7)

◆Ganache◆


「フィーロ……」

 頬を赤く染め、うっとりとした表情でシェリカが弟の名を呟いた。凄くいとおしそうな声だ。気持ち悪い。まあ、見た目はまさに姫を助ける王子といったところか。顔が同じなところがひどくシュールなんだが、この際どうでもいい。考えるのも馬鹿らしいし。ガナッシュの近くまで飛び出てきたクロアは、食い入るようにそれを見て口惜しそうに歯軋りしていた。おおよそ女のする顔ではない。とても放送できない。まさかなと思い後ろにいるはずのユーリに目をやると、彼女も複雑な表情をしていた。なんであの場にいるのが自分ではないのかと言わんばかりだ。命よりも大切なことなのか、それは。

「……大丈夫か、シェリカ? まあ、見た感じ大丈夫そうだけどな。つか、ちょい離れてな」

 フィーロはそう言ってシェリカの腰に回していた手を放した。シェリカは少々残念そうだったが、渋々頷いてフィーロから離れた。「……よし」「ほっ……」などという小声が耳に届いた。ホントこいつらは……。

 若干名に対しては呆れつつあったものの、ガナッシュはその光景には驚嘆していた。

 そう、あの力だ。炎の鬣の巨大な(かいな)から繰り出される凶悪な一撃を容易く受け止めるほどの力。比類なき剛力。あれこそが、ガナッシュがフィーロを《カタハネ》に勧誘することを決めた理由だ。

 炎の鬣もさすがに予想外だったか、動揺しているようにも見えた。あの怪力だ。押し潰さんとしているのに、びくともしないなどこれまでになかったことだろう。

 ――グオォォォォォォォォォォォォ……!!

「いいぜデカブツ。力比べといこうじゃないか」

 フィーロは不敵に笑った。いつもの情けない表情ではなく、あれはそう、紛れもない戦う者の瞳だ。

 その表情を見るやいなやガナッシュは身体がぞくっと震え上がった。恐怖か。いや、違う。これは高揚だ。さあ、見せてみろフィーロ。お前の力を。さあ――

「あ、やっぱ無理」

 ぷち。

「………………………は?」

 ぷち? いや、ちょっ……いやいや。ちょっと待て。いやいや、ちょっと待て。え? 今ぷちっていったか? 潰れた? 潰れたのか?

 というか。

「はあああああああああああああああっ!?」

 なんだ今の! ガッカリだ! なんていうか、凄くガッカリだ!! 滅茶苦茶いい感じだったよな!? あっさり押し負けるのかそこで! たぶん三秒も保ってないぞ! というかほとんど始まる前にやられた。ありえない。肩透かしにもほどというものがあるだろう。どうすればいいんだ、このやるせない気持ち。

「は、早すぎやろ……」

 レイジも動揺を隠せずにいる。

「よっしゃ、そのまま死ね」

 モニカはガッツポーズをした。……おい。

 ――グオォォォォォォォォォォォォォォォォォン!

 高らかに「ざまあみろ」という咆哮を上げる炎の鬣。それに反応したのはシェリカだった。

「っ……この熊公め! ぶっ殺してやるわ!」

 ぶちギレているらしいシェリカは懐から触媒カタリストを取り出した。赤い宝石を填めこまれたペンダントだ。あれは血晶石サングビジュか。竜の血が凝固して出来る非常に珍しい石で、雷の要素精霊が好む。水晶クリスタルなど要素に関係なく精霊が好む汎用性の高い触媒もあれば、このような特定の要素精霊に対してのみ使われる触媒も存在する。そういうものは概してより強力な要素魔術を行使することを可能にする。

 シェリカはペンダントを手に握り締め、詠唱を始めようと口を開いた。見えない圧力とともに、彼女の周囲を取り囲むように帯電し始める。

「韲蕾may――」

「やめろシェリカ!」

「――……っ!」

 叫んだのはフィーロだった。シェリカの詠唱は中断され、圧が消えた。普通の魔術士は詠唱を止めるなどということは出来ない。魔力と要素精霊の力という等価交換はいわば一つの契約だ。その途中で破棄にすれば、最悪の場合、要素魔術が暴走しかねない。あんな真似が出来るのも、シェリカだからこそなのか。

 フィーロがシェリカの許に駆け寄ると、左腕で器用に担ぎ上げた。「あ、やっ、ちょっ……フィ、フィーロ……っ!?」と先程よりも顔を赤くさせ、講義しようとするシェリカを余所に、フィーロはそのままガナッシュたちの許まで駆けてくる。

「逃げるぞ!」

「なっ……逃げるだと!? 何を今更……馬鹿なのかお前は! 今倒さずしていつ倒すんだ!」

 信じられない。この期に及んでまだそんなことをいうのか、この男は。

「これはボクらの依頼だ!」

「必ずしもやらなきゃならねぇ依頼じゃねーだろ!」

「だが誰かがやらねばならなくなる!」

 ――グ オ オ オ ォ ォ オ ォ ッ……!

 大地を揺るがす咆哮。

 衝撃で飛んできた小石が頬をかすめた。

 目は見えなくとも、聴覚やら嗅覚は健在なようだ。炎の鬣らこちらに目がけて猛然と突撃してくる。傷口から血の糸を無数に引きながら走る様は熊というより鬼のような恐ろしさがあった。

「クソっ……!」

 ユーカリスティアを構える。刀身がうねり、渦を巻いて、禍々しいフォルムの巨大な刃を形成した。

「……蒼の霊剣ラマディット・オンディーヌ

「ガナッシュだめだ!」

「一刀のもとに裁断する……いくぞ、目の見えない状態でこれが避けれるか、化け物ッ!」

 もはやフィーロの言葉など聞く必要はない。

 一歩、二歩と前に踏み込んだ。

「ダメだそいつは――」

「喰らえッ!」

 袈裟掛けに斬る。

 青い流線を描き、水の刃は奔る。

 躊躇いなどない。

 そして炎の鬣の身体を、

「やめろ、ガナッシュっ!」

 両断した。



◆Shericka◆


 そう何度も聞くものじゃない。フィーロのこんなにも必死な声なんて。シェリカはその細くともがっしりした肩に担がれながら感じていた。

 シェリカがフィーロのあんな声を聞いたのは、これを入れても二回だけだ。ずっと一緒にいた自分でさえその程度の回数しか聞いたことはない。

 血の雨が降り注いだ。

 巨大ゆえに血の量も半端ないようだ。変態シスコン野朗の一撃で致命傷を負わされた炎の鬣は、こと切れると今までのが嘘のように地面に倒れた。もうピクリとも動かない。

「なんで……」

 震えていた。自分じゃない。フィーロだ。フィーロの震えがシェリカにも伝わってくる。

 もしかして、泣いているの? あたしなら貴方の涙を拭えるのに。抱えられているせいで、うまく手が伸ばせない。それがたまらなく口惜しい。

 フィーロは無言でシェリカを下ろした。もうその必要はないというように。足が地面につくと、すこし寂しく思えてきた。フィーロの方を見る。涙はなかった。でも、ひどい顔だった。

 頬に触れようとして、手を伸ばして、かなわなかった。

 フィーロはシスコン野朗に詰め寄っていった。一瞬見えた横顔には怒りが溢れていた。フィーロが怒っている。少し信じられなかった。

「なんで殺す必要があったんだガナッシュ」

 腹の底から沸き上がるような、低い声だった。

「依頼だ」

「俺たちの依頼は……討伐じゃないだろ」

「調査と解決・・だ。なら、討伐も含まれる。それに、放置してもいずれ討伐依頼は出ていた」

「利己主義の商人どもの依頼がなんだってんだ。あれは殺さなくてもよかったはずだ……!」

「なぜ商人の話が出てくる。ボクらの評価のためだ」

「評価? そんなもんのために殺すのか。お前は。ただ生きようとしていただけなのに。新しい命すらも、自分の利己のために」

「何を言って――」

「クゥン……」

 鳴き声がした。どこから。あそこか。血の池に倒れている炎の鬣のところからだ。

 下腹部あたりから這い出てたのは、小さな……とはいっても一メートルはありそうだが、熊だった。多少毛の色が違うが、炎の鬣の子どもだろうか。少し鬣が生えているので、多分そうだろう。

 子どもは動かない母親の骸を舌で舐めながら、起き上がるのを待っている。

「わぁ~可愛いです。おいでおいでー」

 空気を読まない(というか読めない)雌牛は即刻消えろと思う。

「子ども……?」

「どこにあんなんおったんや……?」

「ガナッシュ突き飛ばしてあいつの腕を受け止めた時に見えた。炎の鬣ってのは、有袋類みたいだな」

 シスコン野朗と変態野朗が驚きと疑問の声を上げた。それは子持ちだったことにか、それともあの速さと衝撃で吹き飛ばされる中、見つける余裕があったことにか、定かではないが。しかし構わずフィーロは言葉を続けた。

「あれは子を守るために戦っていただけだ。そりゃ凶暴にもなるだろ、普通。子ども守るためなんだから」

「だが、尚の事危険なことに変わりはない。子育てには栄養だっているだろうし……ってどこに行くフィーロ」

 フィーロはシスコン野朗の言葉を聞かずに炎の鬣の子どもの許まで歩いていった。何をするつもりなんだろうか。疑問に思ったシェリカはフィーロのあとを追った。炎の鬣の死骸の下でぴたりと歩みを止めたフィーロ。シェリカが漸く辿り着いたその瞬間。

「……ごめん」

「え……」

 小さく呟き声を耳にした直後、しゃんっ、と黒光りする何かが目の前を走った。振り抜けたのは剣だった。フィーロの使う直剣。その刀身だ。

 赤い液体が剣の残線に沿って舞い、びちゃびちゃっと地面に絵の具を撒き散らしたように飛び散る。そして地面を転がるものがあった。首だ。熊の首。斬ったのだ。今。フィーロが。子熊の首を。剣で。なんで。どうして。

「フィーロ……」

「親が死んだ以上、子はもう生きられない。なら、いっそ苦しむことなく殺してやったほうがいいだろ」

「でも……」

「たとえ放っておいてもどっかの餌食になるだけだしな」

 振り返ったフィーロの視線の先はシスコン野朗だ。悲しい目をしていた。涙を堪えているようにも見える。

「首はお前が持って帰れよ。ハンティングトロフィーだ」

「あてつけか」

「そんなんじゃねぇよ。依頼(・・)なんだろ。こなしたんだ」

 そんなシスコン野朗じゃなくて、あたしを見てほしい。あたしなら、そんな目をさせたりはしない。フィーロの苦しみも分かち合えるのに。

「依頼達成だ。もう帰ろう。長居すると、血の匂いでガッソが戻ってくるかもしれない」

 シェリカの肩を叩くフィーロは、薄っすらと笑みを浮かべていた。いつものように優しい叩き方なのに、その笑みが痛々しすぎて、抱き締めてあげたかった。

 胸が痛い。フィーロの痛みは、あたしの痛みだ。

 今すぐにでも抱き締めて慰めてあげたかったけれど、ここでは駄目だ。敵が多い。無口はやたらスキンシップ過剰なため便乗してくる可能性があるし、あの空気読めない雌牛は凶悪な武器を二つもぶらさげている。危険だ。

 なんでフィーロはこんなにモテるのか。身内としては鼻が高いのだけれど。それでもやっぱり気に食わない。フィーロはあたしのものだ。何人たりとも触れさせてなるものか。

 ちら、と横を歩くフィーロを見た。

「……あれ?」

 いない。消えた。この一瞬で。どこに行ったのか。ほんのさっきまで隣にいたはずなのに。天然女が叫んでいる。「フィーロ君!?」とか。馴々しく呼ぶな。とはいいつつも、全員が慌てている。視線の先を辿る。シェリカのすぐ足許だ。

 いた。いたけれど。

「フィーロ!」

 フィーロは倒れていた。


◆◆†◆◆


 どうやら骨が折れていたらしい。

 シェリカを助けた時の傷もそうだが、シスコン野朗を庇った時の方もわりと酷かったようで、フィーロの腕の骨と肋骨が何本か折れていた。

 学園に戻ったシェリカたちは真っ先にフィーロを保健室に連れていった。森の中は散り散りになっていたガッソが集まり始めていて、治療もままならなかった。というかあの雌牛がちゃんと治療を終わらせていれば問題なかったはすだ。平謝りしていたけれど、優しいフィーロは「俺が大丈夫って言ったからだ」と言って慰めていた。雌牛に情けなんていらないのに。とっとと屠殺なりしてしまえばいい。

 シスコン野朗は戦うしか能がないくせに、すでに息絶え絶えだったのもあって、戦闘をシェリカと猫耳娘、それから無口が担当し、フィーロを運ぶのは甚だ不本意だが切れ目の変態がやった。あの変態は取り敢えず、腕を落とそう。背負っていたから背中も焼かなくてはなるまい。

 保健室のベッドに横たわるフィーロを見つめる。今は、治療も終わり安静にしている。臓器にも異常はなく、明日には全快するとのことだった。

 口がもごもごしている。可愛い寝顔。シェリカはなんだか可笑しくなって小さく笑った。双子だからか、顔立ちはよく似ている。でも男の子らしい精悍さもあって、自分が男だったならこんなふうだったのだろうかと思った。頭を撫でる。柔らかい金色の髪が指に絡んだ。シェリカは愛おしくてたまらなかった。フィーロのその髪も。花緑青エメラルドグリーンの瞳も。長いまつ毛も。柔らかな頬も。可愛らしい鼻や唇も。理由はわからない。でも、そんなものはいらない。シェリカにとってフィーロが世界一愛おしい存在なのだという事実があれば十分だ。

「フィーロ……」

 左手をそっと握る。冷たい。ひんやりとしている。冷え性なのか。シェリカはいつも手が温かいので、夏場など暑い日は触れていると気持ち良くていい。

 握ったその手に頬を近付けようとした。

「お熱いわねぇ」

 ばっと手を放した。ちょっぴり後悔する。

 恨めしく思い、後ろに立つ白衣を着た妙齢の女を睨みつけた。保健医のアメリア・ミュナスは、いつにも増してぱっつんぱっつんの服を着ている。目に毒だ。猛毒。劇毒。致死毒だ。そしてムカつく胸だ。実は西瓜スイカでも詰めているのだろうか。季節にはまだ早い。出直して来てほしい。

 アメリアがこちらに歩み寄ってくる。にじり寄る感じがまたいやらしい。嫌悪からか、よじるように身を引いた。

「あんたら姉弟なのにねぇ。なぁに? 禁断の愛ってやつ?」

「愛に禁断もクソもないわ」

「それはまた……乙女は強しねぇ」

「フィーロが起きるじゃない。静かにしてくれない?」

「ハイハイ」肩を竦めるアメリアに反省の色は見えない。「ま、弟クンも大変ねー。変な女にばっかし好かれちゃって」

「うっさい。燃やすわよ」

「あん、怖い。冗談よ? 本当に。嘘じゃないわ。やめてその目怖いから」

 言いつつ、怖がっている様子もない。信用ならない女だ。クスクス笑うアメリアは胸元のポケットからシガレットを取り出した。

「吸う?」

「吸わないわ」本当に保健医なのかこの女。

「ふ――――っ、至福の時ぃ~~~♪」

 紫煙が立ち籠める。甘ったるい匂いがした。バニラエッセンスのきつい香りが、鼻を突く。臭くはないが、不快ではあった。

「外で吸ってよ」

「ん? えっちなことでもしたいの?」

「こんなとこでしないわ」

「場所が違えばするのねぇ……」

 そう言ってアメリアは床にタバコを捨て、踏んで火を消した。ますます保健医か怪しい。そして吸い殻をひょいとつまんで、携帯灰皿に落とした。屈む際に胸の谷間をこちらに見せつけてくるあたり本当に腹が立つ。

「にしても凄いわね、この弟クン」椅子を引っ張ってきて座る。背もたれを前にして、馬乗りをする形で座った。というかパンツ見えてる。黒のレースだ。本当に毒だ。「あばら骨が数本逝ってたし、右腕なんか半ば砕けてたわ。何したらこんなんになるのかしらね?」

「巨大生物のパンチを片手で受けとめたらよ」

「どんな状況よそれ」

 アメリアはクスクスと笑う。学内では知らぬところのない、治癒士の中でも最高峰の技能を持つこの保健医は、噂では男癖が悪いらしい。この妖艶ともいえる笑い方に引かれるのか、男というものは。情けないことだ。まあ、フィーロは大丈夫だろう。きっと。うん。しんじてる。

 どこかから不意にオルゴールの音色が流れた。言っちゃなんだけれど、アメリアには似合わないメルヘンチックな音色だ。一体どこで鳴っているのだろうか。

「あら、もう四時? ちょっと用事あるからあとよろしく~」

 無責任な保健医は颯爽と保健室を出た。オルゴールの音色は時計のものだったか。どうだっていいけど。

「あ、そうそう」いきなり扉から顔だけひょっこり出す。「わたしがいないからって、えっちなことするなよー? まー、ちょっとなら許すけど」

「早く行けっ」

 シェリカは睨みつけだが、アメリアはそれをかわすように「バァ~イ」と手をひらひらさせて出ていった。

 変態保健医め。

 次は魔術で爆破してやる。



◆Firo◆


 最悪の気分だ。

 フィーロは心の中で悪態をついた。

 何に? 自分にだ。それ以外にない。情けない。本当に情けない。

 身体の痛みはだいぶんと引いたけれど、思うように動かない。眠ってるからか。それが認識できるくらいには意識は覚醒しつつあるが、まぶたも重たい。今何時なんだ? どれくらい眠ってたんだろうか。それすらもわからない。

 身体を動かそうと試みるが、気だるいというか、なんというか、とにかく動かない。あと微妙に鈍痛もある。完治しきってないのか。さすがにあんな化け物の一撃を受け止めようってのが間違いだったか。よく死ななかったな、俺。

 加えてなんか妙に重たい。全然動けねえ。なんかが乗ってる感覚だ。苦しくなってきた。重い。何これ金縛り? 怖いんですけど。

 だけど何よりも胸が痛い。酷く黒ずんだ膿に苛まれているように、じくじくと痛む。ああ、これは傷なんかじゃなくて、もっと他の痛みだ。こんな滲むような痛みを、俺は知っている。

 魔物……魑魅魍魎の類は所詮人からすれば害悪だ。魔物狩りを目的とする冒険者だって多くいる。それはわかっている。依頼に貴賎はない。支払うべき対価が支払われているならば、あとは冒険者それぞれの価値観を天秤にかけるだけだ。要するにエゴだ。

 《カタハネ》の連中は揃いもそろってまるで違う価値観で生きている。だから仲も悪いし、協力なんてそうそうしない。各々のやりたいようにやっているだけだ。ガナッシュにあたる時点で、俺が間違っているのだ。俺の価値観と、ガナッシュの価値観は違う。

 戦いは嫌いだ。

 何より、殺生が嫌いだ。

 手に残る生々しい感触は吐き気を催す。罪の意識なんて高尚なものではない。単なるエゴだ。命を刻むたび、胸をえぐる様な感覚に襲われる。まだあれが魔物だったから耐えられる、というのはこれこそエゴだ。命にだって貴賤はないのにな。

 むしろ耐えられなかった。

 想像してしまったのだ。

 あの魔物の子どもが大人になって、俺を殺しに来ることを。

 恨みや憎しみはなかなか忘れないものだ。人間でも、魔物でも。記憶を持つ者なら一度植え付けられればなかなか忘れられなくなる。楔を打ち込まれたように。それは一種の呪いのようなものだ。

 怖くなっただけだ。結局、殺した理由だって、本音はそこだ。怖いから殺す。そんな、自分の卑しさや浅ましさがはっきりと見透かされるからこそ、殺生は嫌いなんだ。

 ガナッシュの言う通り、俺は臆病者だ。

 手を下さずとも、あの魔物の子どもが生き延びれる可能性は低い。人か、あるいは他の魔物に殺されることだったろう。それでも俺が剣を抜いたのは、結局、俺が臆病者だっただけだから。

 あの小熊一匹仕留めた所で密猟者に痛痒は与えられない。分かっている。口にする理由など、全てまやかしに過ぎない。

 吹き飛ばされる瞬間、じっと俺を見ていたのだ。つぶらな瞳で。まだ悪を知らぬ無垢な相貌。母の愛を求める声。それが頭から離れない。お前が殺したのか。そう責められているようで。

 それに耐えられなかっただけだ。

 あの時のように。

 あの時? あの時って、いつだ。俺は、何かを思い出そうとしているのか。なんだ? 俺は何を忘れている。大事なことのはずだ。忘れちゃいけないことのはずだ。なぜかは分からないけれど、忘れてはいけないってことだけは分かる。

 手が赤い。怖い。なんなんだ。俺は何を忘れているんだ。赤い。思い出せ。やめろ、思い出すな。早く。だめだ。赤い。思い出すんだ。紅い。やめるんだ。記憶を。怖い。紅い。やめろ。思い出せ。そうだ。やめろ。フィーロ。お前は。

「――……はっ!」

「……あ、起きた」

 赤く染まる暗闇に耐え切れず、勢いよく目を開けたフィーロの眼前に、大きな琥珀っぽい色の瞳が映っていた。くりくりと動いていて、微笑ましい。あと、綺麗だと思った。いや、そうじゃないだろ。

 混乱している自身を必死に宥めすかす。次第に落ち着きを取り戻してきて、改めて眼前に写るそれが人の瞳だと理解する。うーん、まだ混乱してるのかな。認識が変わってねぇ。

「……えーと」

「……おはよ」

「あ、ああ。うん。……おはよ?」

 疑問系になった。そらなるがな。

 つーか顔が近い!

 クロアだった。すごい近くにクロアの顔があった。もう鼻と鼻の距離が大体三センチくらいだ。鼻息がかかる。こそばゆい。んでもって恥ずかしい。

「離れていただきます?」

「……や」

 や、じゃないんですけど。何、可愛いつもり? 畜生可愛いからつもりじゃねぇな。分かっててやってんなこいつ。可愛いあたりがムカつくな!

「いや、あの、顔近いし」

「……クロア、頑張った」

「うんわかったから、離れて?」

「……お礼のちゅーがまだ」

「なんの話?」

「……もしかして、照れてる?」

 そうじゃねぇよ。

「いーいーかーらー……どきなさいよっ!」

 ぐんっとクロアの顔が離れる。誰かに引っ張られたようだ。結構首絞まってたように見えたんだけど、クロアがポーカーフェイスを崩さないから妙な光景だった。うめき声すら漏らさなかったぞ。なんかちょっと怖いよ。

 つーか、ここどこ。

 見た感じは……ああ、保健室か。道理で薬品臭い。白いベッドが並んでいる。途中でぶっ倒れたのか。あんまり覚えてない。骨やられてたっぽいしな。ちゃんとユーリの治療を受ければよかった。

「目覚めはどうだ」

 ガナッシュが腕を組み、壁に背中を預けて立っていた。身体を起こしてみる。まだ力が入らないが、動かせないこともない。見回すと、シェリカもいた。クロアの首根っこを引っ掴んでいる。なるほど、シェリカに助けられたのか。つーかガナッシュよ、お前は見てるだけかこの野郎。助けろよ。

「よくはねぇな」

「そうか」

「俺、どれくらい寝てた?」

「丸一日だ。あばら骨三本骨折。右肩と右手首の脱臼。骨折もしていたし、一部砕けていたらしい。痛みで気絶したお前をここまで連れてきて、アメリア保健医が診てくれた。ほぼほぼ完治しているが、まだ安静にしておけとのことだ」

「あ、そ」

 保険医のアメリア先生は治癒士としても最高峰の技術を持っている。たとえ全身の骨が粉々になっていたとしても、完璧に再生させることができると豪語するくらいだ。切った貼ったもそうだが、こういった肉体再生は治癒士にしか出来ない所業だといえる。

「だーから許可してないっての!」

「……許可された」

「してないのっ!」

 騒がしい。シェリカとクロアが喧嘩をしていた。何を争っているのかは知らんけど、なんでもっと仲良く出来ないかな。妙に折り合い悪いよね、この二人。いや、シェリカが大抵の相手と合わないだけかもしれないけど。

「そういやユーリとモニカは?」

「先刻見舞いに来ていたが、先に夕飯に行った。レイジは……よく知らん。また誰かの尻でも追いかけてるんだろうが。まぁ、一応心配はしていたぞ」

 レイジの変態は言うまでもないけれど、もうね、早く捕まってほしいものです。学園の平和のために。

「そうか。んじゃ、お前らの飯はまだなんだな?」

「ああ」と頷くガナッシュ。

「そいじゃ、行くか。俺も腹が空いてきた」

 時計を見ると、短針は六の数字を示している。ガナッシュの言だと午後だろうし、丸一日寝ていたということは本当にかなりの時間寝ていたと思われる。

 胃袋も空であることを思い出したようで、しつこく食事を訴えている。正直、動くのは億劫だが、生命維持のためには必要なことだ。食わないと治るものも治らないしな。

「動けるのか? 買ってくるぐらいはしてやるが」

「歩くくらいは出来るって」

「わかった。だけど、その前にちょっと付き合え」

「あ? いいけど……」

 ガナッシュがあごをしゃくるようにして言うので、フィーロは首を傾げつつも了承した。なんだろうか。まぁ、行けばわかるか。大抵ろくな話じゃないんだがな、こいつの話って。

 地面に立つと、重力さんの力を肌身で感じた。身体は問題なく動く。足はもともと問題ないわけだし、この倦怠感は寝過ぎとかそんなんだろう。放っておけばじきにどうもなくなる。

 フィーロは先に外に出たガナッシュのあとを追った。

「あれ? どこ行くの、フィーロ」

「あーガナッシュがちょっと付き合えって。飯、まだなんだよな? すぐ行くからベルベットで席取っといてくれないか?」

 時間的には

「別にいい……けど」

 シェリカの様子がしゅんとしたものになる。なんだろうと思ってたら、いきなりぐーっとシェリカの腹の虫が鳴いた。なるほど問うまでもなかったか。まぁ、あれで看病してくれていたのかもしれない。あまり待たせないようにしたほうがいいか。

 ふっ、とクロアの吹き出す声が聞こえた。キッと睨み付け、「笑うな!」とシェリカは取っ組み合いを始めた。だから、お腹が空いてるなら暴れずに早く行けよ、食堂。

 いちいち相手をしてられない。とにかく今はガナッシュを追いかけないとな。「すぐ行くから、早々に切り上げて席頼むぞ」と揉み合う二人に言い残し、フィーロは保健室をあとにした。

 フィーロはガナッシュに付いてしばらく歩いた。行き着いた場所は保健室に近い校庭だった。近くに噴水があって、ライトアップされている。光に寄ってくる羽虫のように、有志で屋台を出す生徒の姿や商人がいるためか、備えられた簡易テーブルで食事をしている生徒もちらほら見かけた。仲睦まじいカップルの姿もある。桃色お花畑の脳みそを持つ恋真っ盛りな学生たちはどこでもデートスポットにするから腹が立つ。そして腹を立てる度に虚しくなって泣きそうになった。

 噴水に近付いたあたりで、ガナッシュが立ち止まったので、相応の距離でこちらも足を止める。何を語るかと待つが、しばし沈黙の帳が二人の間に降りる。

 黙ったまま男と見つめ合う趣味はないんだよなぁ。シェリカも待っているだろうし。よく分からない争いが沈静化してたらだけど。ともあれガナッシュが黙ったままなので、辛抱たまらずこちらから切り出すことにした。つーか呼び出したのお前じゃん。

「……で、なんだよ?」

「いや……改めてどう言うべきか、少し悩んでしまった。お前がよく分からない。あの炎の鬣(バーンクレスト)を殺すのを止めようとしたのはなんでだ」

 腹の底が冷え、指先までかじかむような感覚に襲われた。嫌な感触を忘れ去ろうと、全身が凍てつく。だがそんなもので忘れられるものではないのは分かっている。

 そしてガナッシュの問いにどう答えたところで、詭弁でしかない。だから俺は嘯くことしか出来なかった。

「博愛主義とでも思ってくれ」

「偽善の間違いじゃないのか」

「同じようなもんだろう」

「はぐらかすな。真面目に答えろ」

 口にする全てに矛盾を孕むことが分かっていて、それを上手く言葉に出来るほど俺は大人ではない。

 ただのガキだ。

 臆病者のガキだ。

 俯き、口を閉ざし、嵐が過ぎ去るのを震えながら待つ。やり過ごすことで保身のみを考え、不都合なことからは目を逸らす。そんな方法しかとることの出来ない、愚かなクソガキだ。

「……もういい」

 沈黙を破ったのは結局、ガナッシュの方だった。

「殺すことを止めたことも、躊躇いなく殺したことも。どうあれボクには関係ないことだ。もとより仲良しクランではないのだし、分かっていた。分かろうとすることが無為であるということも」

「……分かってもらえるとも、思ってない」

 憎まれ口も、掠れる声ではなんとも力のないものだ。俺たちの関係は、一体どういうものなのだろうか。仲間ではないのなら、なんと表現することが正しいのだろうか。

「そうだな。そういう点で、確かにボクとお前じゃ価値観が違うんだろう。……ただ、あの時、耳を貸さなかったのは悪かったと思っている。それに、助けられた礼も言えていなかった。ありがとう、すまなかった」

 歯切れの悪い言い方で、不格好に頭を下げるガナッシュに、フィーロは返す言葉が見つからなかった。

「話はそれだけだ。夕飯、早く済ませよう」

 わだかまった曖昧模糊とした何かが解消された訳ではないだろうけれど、これが一つの収束なのだとガナッシュは納得し、そしてこれ以上の対話も無用と言わんばかりにこちらに背を向けて食堂の方角へと歩みを進めた。対するフィーロはその場に立ち尽くすしかなかった。途中、ガナッシュがその場から動かないフィーロを訝しんで一瞥したが、溜め息漏らしてそのまま歩き去った。その後ろ姿が目の前から消えても、フィーロの足が前に進むことはなかった。

 噴水の音と人々の喧騒が鳴り響く中、そんなものはフィーロの耳には届かず、脳裏ではガナッシュの言葉だけが反芻していた。

「わからない……か」

 お互い、理解などし合えるわけがない。そんな関係ではない。俺たちはまるで違うのだ。自嘲の笑みを浮かべるたび、虚無感が胸に広がる。ああ、ガナッシュ。そうだ、分かるはずがない。

 お前にはわからないんだよ。

 偽善などではない。

 そんな高尚なものではない。

 もっと矮小で、卑屈なものだ。

 臆病者なんだよ、俺は。

 弱いんだ。

 強いお前には、一生わからないさ。

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