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すばらしきかなこの世界  作者: 蝉時雨
第一章 クランコンテスト編
39/54

第一章(38) 約束

◆Firo◆


「お願いしますお願いしますお願いします……どうか……どうか子供たちには手を出さないで……」

「おーイイネー。いいオカーサンだァ。俺の親は一秒で俺を売り飛ばしたってのに。泣けンネー」

 うずくまり懇願する母メーア。

 それを嘲笑う、男たち。

 そして、

「ガキは売れる。悪いがその願いは聞き入れられんな」

 死を纏う隻眼の男はフィーロとシェリカを見下ろしながら、無慈悲にも躊躇いなく宣告した。その顔は喜悦も嘲笑もない。仮面のように無表情だった。

「だってさーっ。残念! オカーサン残念!」

 隻眼の男の代わりと言わんばかりにケタケタ笑う細身の男。その後ろで大きい男が低い声で笑った。

 悔しさが滲む。だが同時にフィーロは理解していた。

 ここでは隻眼の男がルールであり、絶対だ。それが覆ることはない。メーアは嗚咽を漏らし、尚も「お願いします」と懇願し続けた。そんなメーアの姿を見るのが嫌で、目を背けてしまいそうになる自分をさらに嫌悪する。

 きゅっと唇をきつく締め、恐怖と不安を必死に堪える。

 隻眼の男がすっとしゃがみ込み、その顔がフィーロたちの目の前に来る。近くにくると余計に思う。暗闇の塊のような目は間違いなく死そのものだ。

 おもむろに手を出し、シェリカの顎に手を沿え軽く引く。値踏みするように見回し、視線がフィーロに移る。

「双子か……セットにすれば高値が付く」

「……!」

 シェリカがいきなり男に噛み付こうとした。

 子どもながらに意表を突いたのだろうが、しかし隻眼の男は全く驚いた様子もなく、シェリカの頬を叩いた。男が軽く叩いたつもりなのか、そうでないのかは解らないが、大の男の圧倒的な力にシェリカは吹き飛んだ。

「きゃん……!」

「シェリカ……!」

「ふ……意気が良いのは結構なことだ。そういうのは長持ち・・・するからな」

 何が愉しいのか。

 初めて見せたその醜悪な笑みにフィーロは嫌悪すら覚えた。

 けど、それ以上に恐怖が勝っていた。死が独り歩きしているかのような存在に恐怖していたのだ。だから、いや、情けないことだが、身体は動かなかった。だが年相応の反応なのかもしれない。そう諦めそうな自分が酷く惨めだった。だんだん自分という存在が希薄になっていくようだった。

 自分の魂が身体から離れていくような感覚。

 自分にはもうどうしようもない。そんな思いばかりが脳裏を駆ける。非力であることを理解し、そして諦める自分は臆病なのだ。そんなことは解っている。

「い……いやあああぁぁ」

 布の引き裂かれる音。そして愛する母親の悲鳴に、フィーロは我に返った。

 いつもよく着ていた母さんの服が。

 あられもない姿が。

 いつも温かくて笑っていた、優しい母さんの顔が。

「イーネー。そんな鳴き方されるとそそっちゃうヨー」

「やっべ……起っきしてきた」

 そんな下卑た笑みを浮かべ続ける男たちの顔が。

 隻眼の男は部屋の奥へと消えた。何をしているのかなど解るわけがない。どうせ金目のものを探しているのだろう。

 倒れたシェリカを見る。

 乱れた髪。腫れた頬。少し切れた唇。

 頬を伝う……涙。

 胸が締め付けられるように痛くて。

 身体の中がとてつもなく熱い。

 シェリカの唇が微かに動いた。

 た。す。け。て。

 フィーロは目を見開いた。

 聞こえた。幻聴かもしれない。それでも、フィーロにはそう聞こえた。

 助けてフィーロ、と。

「――う……」

 熱い。

「うあ……」

 頭が。目が。鼻が。口が。耳が。首が。胸が。腹が。腕が。手が。足が。

 心が。

 熱い。

「うああああああああああああああああああああああッ……」

 きっとこれは怒りだ。

 フィーロはそう思った。

 沸々と沸き起こるこのとめどない熱いものは、怒りだ。

 目の前の、小さな幸せすら踏みにじる者たちへの怒り。そして、自分自身への怒り。シェリカに出来たことが、俺には出来なかった。そんな情けない自分への怒りが慟哭のような雄叫びとなった。

 そいつは力に変わる。全身が思うように動かせる。何でも出来る。そんな気すらしている。ああ。出来る。

 俺は、こいつらを殺せる。

 歯が砕けそうなほど噛み締める。

 前のめりに倒れるように。倒れ掛かった瞬間、脚に溜まった熱いものを吐き出す。そして駆け出す。転がった包丁を蹴り上げる。回転し浮き上がるそれの柄を掴み、距離を詰める。速く。速く。誰よりも速く。奴らを殺すために。

「――ア……?」

 呆け顔の細身の男の首に、思いっきり包丁を捩込んだ。

 深く。

 深く。

 突き入れる。

 そしてさらに捩る。千切れる音と、何かが折れる音。知ったことか。

 フィーロは一気に引き抜いた。

「アガアアアアアアアアアアアアアアアアア……!?」

 噴水のように吹き出る血が身体中を濡らす。フィーロは気にすることなく、飛び上がり細身の男の側頭部を蹴り飛ばした。力の抜けた身体はそのまま横に吹き飛ぶ。

「×××……! このガキャよくも……」

 もう一人の大きい男は起きたことを理解する。腰の曲刀に手を掛けた。だけど遅い。フィーロはスライディングで男の後ろに回り込む。そして腱をバッサリと斬った。

「アグアアッ……!?」

 急に体重を支えられなくなり、俯せに床へと倒れ込む大きい男。

 すかさず背中に飛び乗り、痛みに呻くその無様な姿を見下ろす。

「てめぇ……降り、ろォォォ……ッ!」

 腕を使って立ち上がろうとしている。

 フィーロは何も言わず、首筋に包丁を突き立てた。

「ごぷ……て……め……」

 男は怨みのこもった瞳でこちらを睨むが、より深く包丁を捩込んでいくと、どさりと力無く倒れた。

 包丁を引き抜く。血がまた吹き出す。顔に掛かったそれを服で拭ったが、服も血まみれで、あまり意味は無かった。

 そんなことはどうでもよかった。

 包丁を投げ捨てる。

「母さん!」

「フィー……ロ……」

「よかった……母さん……」

 安堵に笑顔が零れる。しかしメーアはもの悲しげな顔で、フィーロを見た。そして慈しむような手で頬を撫でた。

「ああ……貴方は……やっぱり……」

「――フィーロ! お母さん! 危ない……!」

 シェリカの叫ぶ声。はっとする。目の前に立つ真っ黒の影。片目しかないっていうおに、恐ろしいほどどす黒い瞳で見下ろす男の手には剣が携えられていた。

 俺は、馬鹿だ。

 そう思った瞬間、男の刃がフィーロを襲った。

「フィーロ……!」

「いやああああああああああッ……!」

 視界を埋め尽くしたのは暖かい暗闇で、耳を埋め尽くしたのはシェリカの悲痛な叫びだった。

 背中が床に打ち付けられる。右肩が焼けるように熱い。涙腺が緩んだのか涙が頬を伝っていた。

 けど、生きている。

 痛みを感じられるほどに、フィーロは生きていた。

 何が起きたのか。

 理解が追い付いていない。

「ちっ……ふざけた真似を。とんだ狂犬だ。お陰でガキ一匹の儲けに二人の死人。大損害じゃねえか。まあ、取り分は増えるが」

 冷たく無機質な声。

 そうだ。隻眼の男に、俺は刺されたんだ。なのに俺は生きている。辛うじて右肩を掠めたようだ。

 だがその剣は肩を掠めたにしては夥しい量の血を纏っていた。

 剣が引き抜かれた。

 肉擦りの音。胸元のあたりにかかる、火傷しそうなほど熱い何か。

 待て。

 引き抜かれる……?

「……おいガキ、立て」

「うぅぅ……うあ……フィーロ……フィーロぉ……」

 男の声が少し遠ざかり、シェリカの嗚咽も遠ざかる。

 本来ならすぐにでも駆け付けなければならないことだったが、この時のフィーロの頭の中はぐちゃぐちゃで、恐慌状態だった。

 駆け巡る言葉は、まさか。嘘だ。嫌だ。有り得ない。考えたくない。そればかりだ。

 フィーロは急に胃が縮み上がるような感覚に陥り、恐る恐る目線を上に向けた。

 本当に嘘だと思いたい。

 誰か、嘘だと言ってくれ。

「大じょ、う……ぶ……?」

「か、あ……さん……そんな……」

 目の前には母さんの顔。

 こんな年だからもう気恥ずかしいけど、普段なら嬉しいはずのこの距離が、今は呪いたくなる。母さんに抱きしめられているっていうのに、今にも胸が張り裂けそうだった。

 痛くて、苦しくて、泣きたいはずなのに、それでも笑顔を向けるメーアに、フィーロの顔はくしゃくしゃだった。

 俺のせいだ。

 自分自身を激しく呪った。

 少し考えれば解ることだ。一番危険な男が残っているのに、気を抜いた。母親の容体を優先した。それがこの結果だ。男の刃は刺さらずとも、その事実だけはフィーロに突き刺さる。

 いや、まだだ。

 まだやれることはあるはずだ。

 母さんが死ぬはずない。

 ゆっくりと身体を起こし、メーアの身体を床に寝かす。露わになった左の胸からは血が溢れ、白い肌は朱く染まっていた。

「母さん……! 母さん起きてよ……!」

 今にも閉じてしまいそうな瞳。その瞳がゆっくりとフィーロの顔を写した。まだ生きている。母さんは死なない。死なないんだ……!

「フィー……ロ……」

「母さん!」

「よかった……無事で……」

「無事だよ……! だから母さんも……!」

 早く医者に。そう言おうとしたところで、メーアの手が頬に触れた。

「フィーロ……ねえ、フィーロ……」

「何? どうしたの? 母さん……」

「シェリカを……守って……あげて……? 他の、誰かを……好きに……なっても……シェリカの……こと、だけは……見捨てないで……あげて……ね?」

 お母さんとの、約束。

 そう言ってメーアは微笑んだ。

 フィーロは頬に当てられた手を握り返した。強く、強く。

 そして何度も頷いた。嗚咽のような声で、何度も、何度も。

「やっぱり、貴方は……お父さん……の……息子……」

「そうだよ……でも、母さんの息子だ……!」

「ふふ……ありがとう、フィーロ……。お父さんは……お母さんの、騎士……貴方は……シェリカの、騎士……だから……」

「守るよ……! 絶対に……! 母さんだって守る……! 父さんなんか知らないよ……! シェリカも、母さんも、俺が守ってみせる……! だから……だから死なないでよ……! 死んじゃ嫌だよ……!」

「泣かないで……? 貴方には……やることが……あるんだから……。それまで、母さん……待ってるから……ちゃんと……待ってる、から……」

 涙を拭いて、顔を上げて。

 貴方はシェリカを助ける騎士ナイト

 メーアの手が、フィーロの涙を掬って落ちた。

「母さん……! かあ……!」

 フィーロは途中で呼び掛けるのを止めた。

 母は待っていると言った。だから、俺は守らなくてはいけない。

 約束を。

 そして、三人でもう一度ここで暮らすのだ。

 絶対に。

 涙を拭った。泣いてる場合じゃないんだ。フィーロは辺りを見回す。包丁なんかダメだ。そんなんじゃあいつは倒せない。フィーロは死んだ男の近くに転がっていた曲刀を手に取った。

 二、三度振り回し、馴染ませる。

 そして母さんに向き直った。

「行ってくるよ……母さん」

 だから、待っていて。


◆◆†◆◆


 ――そしてフィーロは駆ける。

 家を出るなり一気に駆け出していた。さっきので身体の使い方が解ったみたいだ。むしろ使えば使うほどに冴えていく。段々と速く、速くと念じるだけで風のように走れるのだ。

 速くなると視界は狭まるものだが、フィーロは恐ろしく見えていた。まだフィーロにとっては速くないのだ。まだまだ出せる。けど、これぐらいでないとダメだ。

 今はシェリカを探しているのだから。

 だけどシェリカはきっとあいつのところにいる。隻眼の男のところに。

 絶対に助ける。それが母さんとの約束なんだから。

 焦燥に震える身体を無理矢理押さえ付ける。馬の嘶きを耳が拾う。視線を目まぐるしく動かし、すぐに家の近くに停められた馬車と複数の人影を捉えた。あそこは町の外れで農業をしているおじさんの家だ。隻眼の男は見当たらない。だが仲間と思わしき男が二人いた。そして馬車の荷台に乗せられた子どもたち。フィーロは目を凝らし、探した。

 ――いた。

 見紛うものか。銀色の髪と翡翠色に輝く瞳を。

「シェリカァァァァァァァァッ」

「フィーロ……? フィーロ。フィーロぉ……!」

「すぐに助けるッ……!」

 蹴り足を強くし、速度を上げた。体勢を低くし、這うように駆ける。

「まだガキがいたのかよ。隠れてりゃいいのによぉ? まあちょっくら遊んでやるかな」

「おい、商品なんだから壊すなよ?」

「わーってるって。まあ見てろや」

 男の一人が唇を吊り上げ、腰から刃物を抜いた。フィーロと同じような曲刀。それをちらつかせてくる。

 知ったことか。

「おいガキ――」

「どけええええええええぇぇぇぇッ!」

 踏み込みと同時に、フィーロは曲刀をぶん投げた。それは思いっ切り回転しながら男に強襲し、だん、と額を真っ二つに割るように頭に刺さった。

「あひゃ……?」

 間抜けな声を遺言に、男は息絶える。身体を支えることが出来なくなり、崩れ落ちる男から曲刀を引き抜き、シェリカの元へ駆け寄ろうとした。

 シェリカはしかし怯えた表情で叫んだ。

「ダメ……フィーロ逃げて!」

「――まさか生きているとはな」

「くっ……」

 空気ごと切り裂くような、殺意の塊のような突きが左真横からフィーロを襲う。しかし曲刀でいなし、反対側へと飛びずさる。

 フィーロはすぐに体勢を整え、目の前に立つ隻眼の男を睨みつける。

「運のいいガキだな」

「お前は……俺の敵だッ!」

「母親は死んだか?」

「守ると約束したッ……!」

「話が噛み合わんな」

「だからシェリカは返してもらうッ!」

「頷くとでも思うか?」

「いいからそこをどけえええええぇぇぇッ……!」

 煮えたぎる身体を巡る熱いものを、一気に吐き出す。

 曲刀を振りかざし、隻眼の男に斬り掛かった。

「止まれ」

「――ッ……!」

 しかしフィーロはあっさりと阻まれた。剣によってではない。最も卑劣な手によってだ。

 隻眼の男はシェリカに刃を突き付けたのだ。

「シェリカから離れろッ!」

「なら貴様は剣を捨てろ。これを失うのは惜しいが自分の命を秤に掛けるなら俺は躊躇せんぞ」

「……クソ野郎ッ……!」

 一瞬、手にある曲刀をさっきのように投げるかとも考えたが、すぐに考え直した。流石に速さが足りない。シェリカを守るために戦うフィーロには、選択の余地などなかった。

 フィーロは曲刀を投げ捨てた。五メートルほど離れた地面に突き刺さった。それを横目に、唇を噛む。

 隻眼の男はシェリカを荷台から引きずり降ろし、もう一人の男に向かって押した。

「おい、×××。あれが妙なことをしたらそのガキを殺せ」

「オイどうすんだよ」

「少しばかり遊んでやる」

「トドメは俺がやるぞ……そいつは×××を殺しやがったンだ!」

「好きにしろ」

 隻眼の男がフィーロの前に立つ。そしてその顔を

 男が見せる二度目の愉悦に歪んだ醜い顔。

「拾った命をむざむざ捨てるとはな」

「黙れクソ野郎ッ!」

「吠えるな鬱陶しい」

「がっ……!」

「フィーロ……!」

 隻眼の男はフィーロの腹を蹴飛ばした。軽々と吹き飛び、木々や瓦礫の山に突っ込む。血反吐雑じりの咳を吐き、痛みに呻く。しかしシェリカの悲鳴が、フィーロをすぐに立ち上がらせる。

「フィーロお願い、早く逃げて……!」

 隻眼の男は余裕の徒歩でこちらに近付くなりよろめくフィーロの首を掴んで持ち上げた。

「は……が……っ」

「普通なら臓器がイッたと思うが……何なんだお前は」

 苦しい。息が出来ず、ばたつく。

 薄れそうな意識を気力で何度も引き戻す。

「フン……まあ、こっちはそれなりに愉しめるからそれでもいいが」

 隻眼の男は家の壁にフィーロを叩き付けた。息も出来ない状態で壁に叩き付けられたせいで、くぐもった悲鳴が漏れる。そこに隻眼の男は間髪入れず剣をフィーロの腹に突き刺した。

 焼け付くような痛みが全身を襲う。

「あ……ぐ……あああああああああああああああ……!!」

「いやああああああああああああああああ……!」

 フィーロの喉を掴まれくぐもった絶叫に、シェリカの甲高い悲鳴が重なる。阿鼻叫喚とは正しくこれのことだ。喉がはち切れそうなほど叫びながら、フィーロは意外にも冷静にそう思っていた。

 だからこそ、見えていたし、聞こえていた。

「クソうるせンだよガキが!」

「ぐうっ……う……」

 シェリカに剣を突き付けていた男が、シェリカをの腹を殴った。ごす、という音にもならない鈍い音と、シェリカのくぐもった嗚咽。

 そのままその場にうずくまったシェリカの姿を見て、フィーロの中の何かが切れた。

「おい、あまり商品を傷付けるな」

「わぁーってンよ。だから腹にしたろーが。つーかソイツ死んでんじゃねーのか? やめろよ、トドメは俺がやンだからよぉ」

「ふん、心配せずともまだ息がある」

 腹から剣が引き抜かれる。麻痺しかけていた痛みがさらに復活し、脳天にまで届く。だが今度はもう声は出なかった。隻眼の男はそれが面白くなかったのか、フィーロを地面に叩き付けた。

「かふ……」

「ふん、所詮ガキか」

「がっ……は……ぐああっ……!」

 隻眼の男はフィーロの頭を踏み付けた。

 ようやくまともに息が出来ると思ったのに、踏み付けられる痛みでそれどころじゃなかった。腹も痛い。ずっと呼吸を遮られていたのも相まって激しく咳込みながら、痛みに呻く。

「そろそろ時間か……もう俺は愉しませてもらった。あとは好きにしろ」

「へっ……やっと俺の番だぜ」

 強く足で踏みにじりられ、頭蓋骨が軋む。そして足が離れると、隻眼の男はもうフィーロなど眼中にないかのように背を向けて離れていく。入れ代わりで近付いて来る足音には、舌なめずりをする獣のような気配があった。

 全身が痛く、満身創痍。もう死んでいてもおかしくない状態で、思考など出来るはずもないのに、そんな中でもフィーロはずっと考えていた。

 どうしてこんなにも自分は無力なんだろうか。シェリカ一人さえ守れない。母さんと約束したのに。シェリカを守ると。そう、これは約束なんだ。

 約束は守らなければならない。どんなことをしてでも。

 だから願う。いや、違う。掴み取るのだ。ねだったところで手に入るものなどない。つかみ取るのだ。

 微かに記憶に残る、母さんのとは違う厚い手の感触を思い出す。脳裏に過ぎる声は、自分の知らないものだった。

 ――フィーロ、お前がお前の世界を守りたいと願うなら、王様だろうが神様だろうが、

「……ろ……す」

「俺は楽には殺さねぇ。指の先から切り刻んでやる」

「……まて、そのガキ……」

 視界が朱く染まっていく。世界が夕焼けに包まれたかのような朱。目が焼けるように熱い。真っ赤に染まった世界で、何かが俺を嘲笑う。誰だ。笑うな。笑うんじゃない。

 俺の世界を笑う奴は……、

 ――そうだ。もっとだ。心の底から吐き出すんだ。搾り出せ。腹の奥底から沸き立たせろ。

 俺の世界に踏み込む奴は……、

 ――それは目の前の世界だ。ならば、やることは一つだろう。

 俺は……お前の世界を……、

 ――今だッ! 叫べッ!

「お前の世界を……殺すッ!」

 怒号の如くフィーロは声高に叫んだ。

 そして手を伸ばし、嘲笑う奴らを握り込む。

「あン……?」

 目の前の男の顔がぐにゃりと歪んで弾けた。

 胸から上を失った男だったモノは、そのまま前のめりに倒れそうになった。それを合図にフィーロは立ち上がり、男だったモノが手に握る剣を引ったくるなり駆け出した。

 隻眼の男は驚愕の表情をしていたが、フィーロには解らなかった。それよりも目の前で、後ろで、耳元で、遠くで嘲笑う何かの存在が煩わしかった。

「があああああああああああああああッ……!」

「貴様何を……」

「笑うなああぁぁッ……!」

 フィーロは握り込み、潰し、殺す。そいつらの笑いが悲鳴へと変わる。

「ぐあああああっ……!?」

 まだだ。

 手だけじゃ足りない。

 フィーロは手の曲刀に目をやった。俺はなんでこんなものを持っているんだろう。無我夢中だったから覚えがない。だが、こいつならあるいは。

 すぐさま曲刀を振りかざし、奴らを斬った。

 縦横無尽に切り刻み、殺した。

「く……そ! 俺の……腕を……ッ!」

 既に嘲笑う声などなかった。悲鳴と、怯えの声だけだった。だが止めるつもりは毛頭なかった。笑ったことに変わりはないのだから。

 その代償は払ってもらう。

 フィーロは曲刀を大きく振り被り、思いっ切り叩き斬ろうと降ろした。

「フィーロ! もう止めてぇぇぇっ!」

 そして止まった。

 煩わしかった声も消えた。啜り泣く声と、荒い息の音ばかりが耳に届く。

 フィーロはゆっくりと振り向いた。

「シェリ……カ……」

「もう……止めてフィーロ……その人は、もう……」

「ひ……と……?」

 フィーロは足元に目を落とした。

 そこには地面に夥しい量の血の池を作る、ズタズタの隻眼の男が倒れていた。右肩が離れた場所に落ちていて、脇腹は引き千切ったようになっていた。僅かに洩れているのは腸だろうか。あまりに血塗れで判別が付かない。

 死んでいても不思議でもなんでもない状態の隻眼の男だったが、まだ息をしていて、微かに開く目でこちらを見ていた。

「よくも……やってくれた……ものだ……」

「俺が……やったの、か……」

「ふ……末……恐ろしいガキ……だ……」

 男は笑いながら血を吐いた。

「あんた……」

「何を……泣き、そうな……面を……している……。もう何人も……殺して……いる奴が……」

「俺……人を殺したのか……」

「お前は……もう……俺達と……同類、だ……」

「違う! 俺は……」

「一緒だよ……殺し、恨まれ……また殺す……そういう存在だ……。だから……俺はお前を……許さない……。必ず……見つけ、出して……殺して……やる……。絶対にだ……」

「俺は……」

「認めろ……貴様はもう……俺を、殺しきるしか……ないんだよ」

「ダメ……フィーロ……」

「貴様が迷えばそこのガキも一緒に殺すぞッ……!」

 虚空に手を伸ばすシェリカを、隻眼の男は目で示す。渾身の叫びは血反吐が混じっていた。

「止めて……」

「俺、は……」

「お前はお前の世界を守るために、奪いつづけるしかないんだよおおぉッ……!」

「……っ! 俺はあああああッ……!」

「ダメェェェェェェェ……!」

 フィーロは、曲刀を振り下ろした。

 振り下ろして、しまったのだ。


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