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すばらしきかなこの世界  作者: 蝉時雨
第一章 クランコンテスト編
37/54

第一章(36) 失楽園

◆Ganache◆


 圧巻だった。

「――玖鳩臺廉Goxx裂烈戒断BwTHIN・Shaw驟雨辰矧BOxxTey骸絶NiV断裂鎧旋」

 シェリカの魔術は立ち塞がる全てを殲滅していく。断頭台ギロチンか何かのように、空から落とされる不可視の刃が、見捨てられ子をみじん切りにしていく。この場所の全てがシェリカにとってはまな板なのだ。

 とはいえ腐り、ぐずぐずに黒ずんだあの肉をミンチにしているあたりあの女は料理人には向いていない。というか軽くボクまで刻もうとしてた。狙ってるとしたら最悪だ。

「黛撃鍾暴顛quake地掌天蓋滅滅壊塵XcLLD圧暴掌」

 物凄い音が鳴り響き、地面が陥没した。

 爆風に思わず顔を腕で被う。

 そいつが収まったときにはその一帯には敵の存在はなかった。あるのは、色んな、出来れば想像したくないものが浮いている、どす黒い池だけだ。見捨てられ子の汚い血と臓物と腐肉が合わさればこんな地獄絵図みたいな池が出来るらしい。知りたくなかった。

 それにしても、圧暴掌か。魔術の知識はそれなりだが、確か対象を圧殺する下級要素魔術だったはずだが。

「威力が下級じゃないな……」

 そもそも、要素魔術においての下級、中級、上級の区分は精霊の構成難度から決められているだけである。扱う者によっては下級だろうがあれほどの威力を発揮する。恐ろしい限りだ。

 だがその恐ろしい力を持つシェリカの力で活路は開けた。未だどこからともなく沸き上がるものの、数が減った。

「まさかあの小娘は精霊王の……! あの一瞬の違和感はこれか……! おのれどこまでも……どこまでも余の邪魔をぉぉぉ……!」

「うるさい! あたしの邪魔すんじゃないわよ年増!」

 贄の女王サクリファイスクイーンもまた、シェリカの存在にその意識が集中していた。激怒の言葉を吐き出している。

 これは好機だ。今しかない。

「行けるか……いや、行くんだ……!」

 一気に駆ける。後はない。これで失敗したら、間違いなくフィーロは死ぬ。目の前に出現してくる敵は太刀で薙ぎ払い、迫る影をなんとか躱してようやくフィーロの近くまで辿り着いた。

 しかし一体の見捨てられ子がフィーロに目を付けていた。襲い掛かろうと近付く。ガナッシュは歯を食いしばって、飛び掛かった。

「離れろ下手物がぁぁぁぁ!」

 太刀を一閃させ、首を刎ねる。そしてその背中を蹴り飛ばした。ぬちょという気持ち悪い触感はさておき、そいつは吹っ飛んで三メートル先程の地面に転がって絶命した。

 ガナッシュはフィーロに駆け寄る。息は……辛うじてしている。だが血は未だ溢れる。これで死んでないことのほうが驚きだ。不謹慎だが、フィーロでよかった。

 倒れたままのフィーロをゆっくり抱き上げる。

「フィーロは回収した! すぐに離脱するからフォロー頼むぞ!」

 ガナッシュは仲間たちに向けて叫んだ。

「やれば出来る子だと思ってたぜ。任せろルーキー!」

「俺は俺で好きに暴れるだけだ」

「早く行け」

「あ、ちょ……それはあたしの役目よ! 勝手に取るんじゃないわよシスコン!」

 誰の台詞か言うまでもないくらいにハッキリと個性溢れる返答が頂けた。とんだ仲間だ。協力的な台詞が一人だけだ。頼もしいことこの上ない。

 フィーロを見やる。揺らすのはまずいが悠長に歩いていれば的になる。こいつと心中など真っ平御免だ。ガナッシュは意を決して地面を蹴った。

 レイジほど得意ではないが、連続走り幅跳びというかカンガルー走法というか、跳ねる要領で駆け抜ける。着地の瞬間に再び蹴り出すから揺れは小さいはずだ。方向転換しづらいのが難点だが、仲間たちのお陰で影は払われ、見捨てられ子も屠られていくので障害はなかった。

 後方にも敵はいたがモニカとレイジとクロア、リリーナやシオンも次々と蹴散らしていた。怪我から復活したらしいスヴェンもまた、剣を振るっている。動きが若干鈍いが、それでも十二分に大剣を振るっていた。

 ユーリの姿が目に入る。向こうもこちらの動きに合わせてくれていたようだ。人命のことになると迅速なのが彼女の利点だ。

「ガナッシュ君、早くわたしのところにフィーロ君を……!」

「解って……――あ」

 叫ぶユーリにガナッシュは停止を試みる……が、そこで気が付く。この走法は一つ駄目な所があった。

 停止時の衝撃はかなりキツイ。

 速度が出てる分、馬鹿正直に着地すれば直下型地震みたいな揺れがフィーロを襲うこと間違いなしだ。どうしよう。

 とりあえずなんとか緩和しようと、着地時に滑るように降り立った。地面をがりがり削りながら次第に勢いを弱めて、着地地点より四メートルほどいったところで停止した。足が痛い。もう絶対にやらない。

 ガナッシュはフィーロを地面に降ろした。横に寝かせる。顔は苦痛だったのか、脂汗が浮いていた。

「フィーロ君……!」

 リリーナが飛んできた。もう飛び掛かる勢いだった。

「フィーロ君! しっかりしてフィーロ君!」

「ちょ……リリーナ! ええい鬱陶しい!」

 目の前の敵を双剣で斬り殺して、シオンが慌てて追う。

「生徒会長、揺らしちゃ駄目です! 落ち着いて下さい!」

 ガナッシュはフィーロの身体に縋り付くリリーナを引き剥がした。

「でも……でも……!」

「気持ちは解りますが、感情的になるのは後です。ユーリ!」

「解ってます!」

 ユーリがすぐにやって来て、フィーロの傍に膝を突いて座る。血が付くのもお構いなしで腹部に手を当てた。触診マニプレーションで臓器の損傷具合などを計る。一般の治癒士の平均なら二分かかるが、ユーリは稀代の治癒士。三十秒で解析できる。

 すぐに施術オペレーションを開始する。学園の基礎過程の教科書曰く、治癒士は患者クランケの新陳代謝を促進させ自己治癒能力を高めさせ、そしてそれに加えて直接人体を操作し傷の修復をする技術だという。

 超能力オーバーアーツに近い部分があり、透視能力サイコメトリー念動力サイコキネシスの複合ともいえるが、結局のところ詳しいことは不明だ。

 人間は言ってしまえば複数の元素の化合物だ。修復程度ならなんとかなる。だがそれでも、人の完全な蘇生は未だ成し得ていない。

 頼むぞユーリ。こんなところでこいつを失いたくない。

 ガナッシュはそこから背を向けて、贄の女王の方に向き直った。後ろ髪を引っ張られる思いはあったけど、後のことはユーリの技量に任せるしかない。ボクはするべきことをするだけだ。

「レイジ、カバーを頼む!」

「さっきからやっとる!」

「じゃあ引き続きだ!」

「合点や! お代はベッドで帰してくれ!」

「あわよくば相打ちになって死ぬんだな! モニカも頼むぞ!」

「ユーリは守るけど、その男は知らないのだわ……ッ!」

 三叉槍トライデントで敵を殲滅しつつ、モニカは言う。どこまでもユーリ一筋らしい。とはいえ、フィーロがユーリの傍にいる限りは安全だろう。多分。

 どんな状況でもいつも通りな仲間の様子に苦笑が漏れる。

「クロア、お前も頼むぞ」

「………お前こそさっさといけ」

「……はい」

 どうもクロアは苦手だ。言葉の端々に刺を感じてならない。嫌われているのだろうか。

 自分が嫌われていようがいまいがクロアは仕事はするだろう。なにせ王子様フィーロの命がかかっているのだ。普段は指示無視やる気皆無だけど、フィーロのためならなんでもやれる。彼女はそういう質だ。

 心配はいらないだろう。どこまでも頼もしい仲間たちに加えて、頼りすぎる先輩もいる。ボクはそのお陰で前だけ見ていられる。

 アレイド兄さん。

 ボクは素晴らしい仲間と出会えた。貴方のようにこの魔剣を操れはしない。真似するだけで精一杯だ。一人ではどうしようもなく無力だ。けど、ボクには仲間がいるんだ。

 ボクは絶対に大羅天へ到達してみせる。イリアのためにも。ボク自身のためにも。

 見ていてくれ。貴方とは違う強さで、ボクは強くなってみせる。

「――にしても……」

 ユーリの治療を受けるフィーロを一瞥する。苦しげな声を漏らしている。痛いと思えるだけで生きている証拠だが、正直見るに堪えない。ユーリは集中しきっている。見ただけで治療すら大変な怪我なことくらいは解る。あとはユーリと天命とやらに任せるのみだ。

 言っとくがフィーロ。大しては待たないからな。とっとと起きないとあの化け物はボクが狩ってしまうぞ。

 まあ、そんな思いは届くはずもなく、フィーロは呻くだけだ。小さな溜め息を漏らした。

「死ぬなよ、本当に……」

 お前が死ぬなんて、微塵も思っちゃいないがな、それでもそう苦しそうにされちゃこっちが堪らん。頼むからとっとと起き上がってくれ。それまではボクがお前の代わりにシェリカを守ってやるから。

 ガナッシュは前に向き直った。

 もう後ろは見ないからな。お前がこっちに来い。

「――附Meer哀du刀随水霊」

 魂をくらい波打つ魔剣ユーカリスティアとともに、ガナッシュは前へと踏み――

「わああああぁぁっ……!? な、なんなんだこれは!? た、助けてぇぇぇ!」

 出せなかった。

 誰だ、人がせっかく前に踏み出そうってときに。

「キミ、そんな叫んだら……ああもう。見つかったじゃないか」

「あーあたしは非戦闘員だからねー。あんたなんとかしなさいよー」

「私も空間維持に魔力を費やしているので、何も出来ません」

 どれもこれも聞き覚えのある声ばかりだ。

「お、ちょーどいいとこに剣士がいるじゃない。おーいそこの美少年」

 びくりと肩が震えた。が、無視する。多分呼ばれたのはボクじゃない。スヴェンだ。間違いない。ボクじゃない。

「あんたよあんた。黒髪ロン毛のガナッシュ君」

 くそ。

 邪魔すんな。

 ご指名までされて逃げるわけにもいかず、ややあって振り返る。

 見捨てられ子に追われる四人分の姿があった。異様な組み合わせだった。今し方ご指名受けましたアメリア保健医と、イネスならともかくも。なんたってここにマルスとキール先生まで加わっていた。

 教師がここにいるのはともかく、なぜマルスが? 逃げ遅れたのだろうか。こういうときは我先に周囲を押し退けて行きそうな奴だが。まあ、確かに鈍臭そうな奴でもあるけど。

 とりあえず助けるのが先か。こんなことに力を使いたくないんだがな。こっちはただでさえ魂擦り減らしてんだから。

 ガナッシュは溜め息を飲み込み、水刃を放ち見捨てられ子を両断する。

 肉塊に変わったモノに一瞥を与えることもなく、四人に目を向ける。

「た……助かった。……あ、いや、い――言っとくが君の力などなくとも僕は別に……!」

「あーはいはい」

 相手するのも面倒臭い。フィーロなら「男のツンデレなんざ需要ねーよ。五百四十度転換して性別換えろ」とか言うだろう。

「うわー派手にやってるわねー。……あら、弟クンが大変なことに。ユーリが治療する……ってうわー。またやってるし。ちょっとアドバイスしてくるかなー」

 アメリア保健医はマイペースに好き勝手吐き出してそのままユーリのほうに小走りに向かって行った。曲がりなりにも一流の治癒士だ。任せておいて間違いはないだろう。

 ガナッシュはアメリア保健医の背中を早々に見送りイネスに視線を移す。

「思った以上に状況は芳しくないようですね」

「お蔭さまで。フィーロはシェリカを助けてあの様だ」

「そうですか……」

 目を細めてフィーロを見つめるイネス。その胸中で何を思うのか。人形よりも無表情な彼女からそれを計り知ることはガナッシュには出来ない。

 こんなところで長々と話をしたくはないのでこちらから切り出す。

「それで、これは一体なんなんです?」

「何、とは?」

「二人増えてる理由です。キール先生はともかく、生徒がいるのはおかしいでしょう」

「貴方もその生徒ですよ?」

「まあそうですが……」

 揚げ足取りなど求めていない。

「正直言えば勝手に増えていただけです」

「勝手にって……」

「酷い言い草ですねイネス先生」キール先生が苦笑を浮かべた。「私は彼に付き添っただけですよ。たまたま見掛けたのでね」

 キール先生はそう言ってマルスを見やる。

 こちらに聞くな、ということらしい。いちいち回りくどい。ガナッシュは嘆息しつつ、マルスに近付く。

「……で、お前はなんでここに?」

「僕はノーワンを探しに来ただけだ。先輩方の指示だったからな」

「ノーワン? 誰だそれは」

「魔戦学部次席の魔術士ノーワン・クロイツ君ですね。同じバルムンクのメンバーだったはずですよ」

 キール先生が補足説明してくれた。聞いたことないな。次席にしては影の薄いことだ。シェリカの影が濃すぎるだけか。

「……で、そいつが行方不明だと? 単に違う場所に避難しているんじゃないのか?」

「避難用に創った空間は一つに統合しています。そこにいないとすれば学園内でしょう」

 イネスは表情を変えず機械的に言った。

「バルムンクの人間が逃げ遅れて行方不明など笑い者だ。だから一刻も早く見つけだせと言われたんだ」

「ああそう」

 この場合我先に逃げていることの方が恥である。生徒会長およびランプ・オブ・シュガー、そしてボクらカタハネは死に物狂いで戦っている最中なんだが。これは二回戦勝てたかもな。

「それで探しに来てみればこの有様だ。一体なんなんだ、あの化け物は!?」

贄の女王サクリファイスクイーンですか……凄いですねぇ……」

 贄の女王を指差して怒鳴るマルスの横で、キール先生は感心した声を漏らす。

 そういえばこの男は確か召喚魔術に詳しい魔術士だったか。そっちの方面じゃそこそこ名前の通った人だと聞いたことがある。どちらかと言えば学内じゃ女たらしで有名だが。

 フィーロが嫌っていたが、解らなくもない。気障っぽいし。笑顔がいちいち鼻につく。フィーロほど嫌いじゃないけど。

「想像以上にまずいですね」

 イネスは少しもまずそうな素振りもなく、淡々と呟いた。

「まずいとは?」

 マルスの質問には取り合ってられないので、イネスの言葉にだけ反応。

「召喚が不安定です。完璧な召喚ではないことは解っていましたが、ここまで不安定とは……いや、なるほど。解りました」

「勝手に納得しないでください。何が解ったんです」

「あれ」すっと贄の女王を指す。「あの化け物の下半身に見覚えありませんか?」

「見覚え……?」

 ガナッシュは目を懲らして贄の女王の下半身部分を注視する。字面だけなら最高にド変態だな。

 影が蠢いていて見えにくいが、奴の下半身は人の身体だ。それは解る。首から上が風船のように膨れ上がっていて奇妙な風体だが、四肢があるから人であることは解る。それが何かなど気にはしていなかった。もともと化け物なんだから、あれが本来の姿とも思っていた。

 改めて見て、気付いた。違う。あれは異常だ。

 ベージュのブレザーに、紺色のパンツ。あれは見紛うことはない。ボクのクローゼットにも仕舞ってある。

 それは、

「――あれ、うちの制服ですよ」



◆Juli◆


 腹部の損傷、被害度は甚大。心拍未だ危険域。造血能力低下。輸血の必要性あり……。フィーロ君は確かO型だけど……。輸血用パックを取りに行く隙はないし、それまで身体が保つかも解らない。

 ヴァイス先輩の方が容態はマシだった。

「傷口は修復できたけど……」

 フィーロ君は傷もそうだが、内臓が酷いことになっていた。心臓は無事だったけれど、腹部に集中する臓器の七割が損傷していた。傷口から腸が漏れかけていた。最悪の部類。生きていることの方が不思議なくらいの被害。

 でも生きている。彼は虫の息でも呼吸していた。助かる可能性は大いにある。絶対に助けてみせる。

 そう意気込んではみても、これ以上なす術が思いつかない。

 自分の技術ではこの程度だ。切った貼ったは治癒士にとっては日常的なもの。だけど臓器や、もしくは病気などの身体の内に起因するものに関しては治癒士にとって難関だ。

 スヴェン先輩は貫かれはしていたけど、臓器は無事だった。おそらく衝撃でのものだろう一部の損傷はあったけど、ユーリの技量でなんとかなる範囲だった。

 自己治癒の能力を高めるだけでは臓器は回復しない。臓器修復は直接的に細胞を操作して治さなくてはならない。本当の施術オペレーションといえるこの規模の人体修復を一人で出来るのは教師クラスだけだ。

 わたしに出来るの……?

 不安になっている場合じゃない。今は一刻を争う。やるしかないのだ。

「ぐ……ァ……っく……」

「フィーロ君……!」

 大好きな人の苦しげな声。それだけでユーリは身が裂けそうだった。だけど、ここで焦っては全てが台なしになる。

 深呼吸する。

 大きく息を吸って、吐き出す。もう一度吸って一旦息を止めた。

 やれる。わたしなら。やれる。やるんだ……!

「施術開始……!」

 手を腹部に当てる。血管修復と臓器回復の同時進行。失敗は許されない。

 精確に。緻密に。かつ迅速に。

 フィーロ君自身の新陳代謝を促進させ、自己治癒力を強化。フィーロ君の人体構造を脳内に投影。それを図として施術を開始する。

 損傷した血管部と各種臓器をほぼ同時に修復していく。ただ目の前の人を助けたい一心で、ひたすら作業に没頭する。

 しかし技術力というものが邪魔をした。

 いや、違う。手順に狂いはなかった。現にずっと順調に進んでいた。四割まで成功しているのだから。でも、だったらなんで……!

「ぐあぁ……!」

 顔を苦痛に歪めるフィーロ君。それが決定打だった。

 心身が竦む。出来ないと思ってしまう。

「そんな……わたし……」

 駄目だ。もう駄目だ。でも、この手を離せば本当に終わる。怪我の規模によっては施術途中に手を離すことがどれだけ危険なことか。

 怖い。これ以上先に進めない。戻れもしない。完全な行き止まり。目の前は真っ暗闇になったみたいで。

 どうすれば……。

「――教科書の第一章第三節『施術環境の整備』」

「え……?」

 目の前に。

 誰かが。

「悪い癖よ。緊張すると手順を一つすっ飛ばすところ」

「あ……アメリア先生……」

 アメリア先生はフィーロ君を挟んでわたしの前に座った。シガレットを啣えて、ヤンキー座りしていた。パンツ見えてます先生……。

 ふざけている場合ではない。言われたことを思い出す。教科書の第一章第三節の『施術環境の整備』。……あ。

「わ、わたし……」

「はい解ったらさっさとやる……っても今は無理ね。そのまま続けなさい。あとはやっといたげるから」

 よっこいせ、とアメリア先生は立ち上がると、シガレットを投げ捨てた。そして少しも悩むことなく四方八方に手を添えていく。環境整備。もともと施術は無菌室で行われるべきもの。外部で行うにはそれ相応の準備がいる。特に、デリケートな部分を治癒するときなどは。

 スヴェン先輩の時は覚えていたのに。なんでこんな時に。

 治癒士学科が魔戦学部に分類されているのか。それは治癒術が空間制御の技術を少なくとも有しているがゆえだ。アメリア先生のやっているのはその顕著な例。空間を一部区切り、一時的に施術のための空間を作る。

「うーし終わりー。ユーリ、滅菌は先にすることよ。焦っていてもね」

「は……はい」

「ボーッとしてる隙はないわよ。体内環境正常化ってね。手順が増えたんだから。……そうねぇ、ホントは大怪我ほどゆっくり治療するのがいいんだけど、緊急事態なわけだし……」

 口許に指を添えて、考える仕草をする。これするときは大概、

「十五分で出来るわよね?」

 無茶なことを言う。

「え……ええと……十」

「出来る、わよね?」

「や、やりますっ」

 アメリア先生の剣幕に圧されて、ユーリはすぐに作業を開始した。十五分。集中力全開かつ持てる技術力を総動員しないと絶対に無理。

 死ぬ気でやらないと……!

 再度呼吸を整えて、神経を研ぎ澄ませた。患者の少年を見つめる。大事な人。大好きな人。掛け替えのない人。初恋の人。失いたくない。きっとそれはわたしだけじゃない。

 だからフィーロ君、貴方はわたしが絶対に助けます!

「施術再開します……!」

 ユーリの戦いはこれからだ。


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