第一章(34) 失楽園
◆Firo◆
「小癪な……死ぬがいい、赤月のォ!」
さっきから震えが止まらない。これは恐怖か。それとも喜悦か。果ては全く別のものか。もうフィーロには解らなかった。胸の奥が熱かった。
イネス先生の言葉は正直難しすぎてよく解らなかった。なんでも俺は魔術士にとって天敵のようなものらしい。精霊殺しだったか。物騒な名前だ。だがその能力があるからこそ今の俺は戦える。家族を救えるのだ。
もうあの頃の無力な俺じゃない。
――あの頃? いつのことだ。思い出せない。思い出したくない。駄目だ。考えるな。今は考えてはいけない。そんな気がする。
黒い影は幾本の剣となり、また堅固な盾となる。しかしフィーロの前にはただの影であるかのように霧散した。神様なんてものがいるのだとしたら、なんでこんな力を俺に能えたのか。臆病な剣士に。なんでだ?
いつだって戦うことは怖い。俺はいつも怖れている。それを今は必死で押し込んで、ただ守らなくてはならない人を助け出そうとしている。
「お前がくたばりやがれぇぇぇッ!」
影はとめどもなく湯水のように溢れる。どこにでもある影。日が落ちれば毎日フィーロたちを包み込む闇。こいつらは結局消えることなどないのだ。
要するにキリがない。
鬱陶しいことこの上ない。こん畜生め。
だからどうした。
俺はそんなんで屈してられない。
シェリカを助けなくてはならないのだから。
「セイ……! トウ……! セィア……ッ!」
フィーロの隣を影が駆け抜けた。そいつは恐ろしい速さで、本当に影だった。つーか真っ黒。服装が。
明らかによく斬れそうな剣は、影を弾き、時に切り裂いている。
ヴァイスだった。
「先生くらい付けろ!」
「あんた読心術のプロだな! なら気付け、面倒なんだ!」
「括弧付けでいちいち先生と付けるのが悪い!」
「なんで知ってんだよ! いや、だから取ったんじゃん! 馬鹿め!」
「馬鹿は貴様だ! 括弧だけ取れ! 今後の成績に気を付けるんだな!」
教師にあるまじき台詞だった。もう永久にヴァイスでいいや。先生なんて奴の死に際でも呼ぶもんか。
しかしヴァイスの作った活路は正直ありがたい。教師としては“有り難い”のに。やっぱこの世界に神なんていないんだな畜生。この世の不条理に表情を歪めさせる。
ヴァイスは、剣士としては素晴らしい技量だった。猛々しい動きとは裏腹に、流れるような……いや、それとも違う、言うなれば機械のような精密な動き。あれが《剣狼》と呼ばれた男の剣技。
圧倒的だ。
「……王の牙じゃと……どこまでも……! 其れは貴様の手には余る代物ぞ!」
憎々しげに贄の女王は叫んだ。が、意味が解らない。
「そんなものは百も承知だ……! 行け、フィーロ・ロレンツ!」
正直もうお前が行けばいいんじゃね?
フィーロは胸中でそんなことを呟きながら、剣を携え走り出す。ヴァイスが切り開いた道を駆ける。主役級の戦闘力でなんでこの教師はフォローに回ってんだろ。
右から影が槍となり突き出た。半自動的に敵対者を攻撃するように出来ているらしい。邪魔だ。本当に。
一閃。
影を破壊。避けれる分は避ける。逐一斬っていくなど時間の無駄だ。水道から流れる水を指で斬ろうとするくらい無駄だ。そんなに斬りたきゃ元から断つしかない。
「うっ……ぜぇ!」
再び一閃。影は容易く霧散した。
これ、本当に何してるんだろう。意味はあるのだろうか。霧を切り裂こうとしている気分しかしない。つーか見た目からして霧か煙みたいだ。
いや、考えるな。
イネス先生に言われたことを思い出せ。信じろ。この力を。信じることでこいつは動く……らしいから。弱気を押さえ込め。今の俺は強い。そう思い込め。この震えは武者震いだと言い聞かせろ。
そして為すべき事を為すんだ。
左はヴァイスがなんとかしてくれている。右と、目の前に集中する。それだけのことなのだが。
影が蠢き、形を変えた。飛び出す。咄嗟に剣を盾にするように構える。攻撃は来なかった。見ればそれは浮いていた。いやそれらか。なんだっていいが。それらは球体だ。宙に浮かぶ無数の黒い人間の赤ちゃんの頭くらいの小さい球体。
それらがボコリと泡立った。
「なんかヤバ気か……?」
フィーロの勘は当たっていた。ヤバ気だった。というかこれで何もないと思える奴はそうそういない。
多数の球体から飛び出た針。円錐といった方がいいのか。どっちでもいい。刺されば致命傷になるんだ。呼び方なんてどうでもいい。
根本的には飛び出してくるだけで、さっきと変わらないのだが、攻撃の方向が読めない。しかもぶつかり合うと合体して変な方向に延び出す。どういう規則で動いているのか解らない。
見てから動くしかない。後手に回るしかない状況にフィーロは小さく歯軋りをした。
「時間が無いんだ! 邪魔をするなよ!」
目の前から迫る針に向かってフィーロは剣を振った。
無軌道な袈裟掛けの斬撃は空を斬った。
「しま……」
横から現れた別の針とぶつかり、方向を変えられた。体勢は崩れたままだ。別に着地したら持ち直せる程度だが、あくまで着地出来たらの話だ。
斬り損ねた球体は再びフィーロを狙う。意思でもあるかのような腹の立つ連携だ。大元があの化け物なんだから、連携もくそもないのか。知ったことじゃない。どうであろうと、こればかりは避けれない。
「喰らえ、蛟……!」
背後からの雄叫びとともに、渦を巻きながら一直線に駆け抜けるのは水の蛇。
――蛟だ。
蛟は黒い球体を片っ端から飲み込んでいく。目の前の球体も針ごと呑み込んだ。あまりの速さに風が巻き上げられていた。それに呑まれてフィーロは飛ばされて地面を転がった。剣が飛ばされる。針が自分のいた場所を穿っていた。結果的には救われたらしい。
蛟の猛進がぴたりと止む。突然ブルブル震え出した。
「なん……」
言い終わる前に蛟は爆ぜた。
多数の球体が浮かんでいる。その全てから針が伸びていた。嘲笑うかのような圧倒的力だ。蛟を内側から『殺した』のだ。
「やはり駄目か……!」
そんな舌打ちが飛ぶ。フィーロは声のした方向を勢いよく振り向いた。あんなもん撃つのは一人しかいない。
「ガナッシュ!」
「右は任せろ、フィーロ!」
「馬鹿か!? そんな身体で……馬鹿か!?」
「二度も言うな! さっさと行け! ボクはクランのマスターなんだろう? ならボクはボクの役割を果たす!」
「役割って……」
それでお前が死んだら意味がない。神具の力ならそりゃ対抗できるだろうが。ヴァイスと違ってガナッシュは疲弊している。その原因はその手の神具――聖体の秘蹟だ。これ以上使えば身が保たない。
「フィーロ、危ない!」
「な……!?」
目の前に黒い球体。
まずい。こんなところで考え込むなんて。馬鹿か俺は。
球体が泡立つ。影が泡立つってのも変な感じだ……などと逃避してる場合じゃない。ヤバい。刺す気満々だ。というかこの位置だと狙いが顔面じゃないか? いやいや待て待て。そんなもん喰らったら即死だって!
間に合うか……!?
剣までは一メートル。無理。届きません。しゃがんでるし。
「チェェストォォォゥ!」
なんか飛来した。
奇声を発しながらそいつは黒い球体を斬り払った。
「フィーロ! この馬鹿ちんはオレが見とくから、ジブンは二人を助けるんや!」
「変態……!」
「このタイミングで変態はないやろ!? ないよね!?」
変態もある程度の対策はしているのか、いつもと違う二本の短剣が目についた。現状ガナッシュのことを任せられるのは変態だけだろう。変態だが信用はある。
「くそ……解った、頼むぞ!」
「あれ、もう会話進んでる!? 不自然さ丸出しやで!? 会話なってないで!?」
「うおおおおッ……!」
雄叫びとともにフィーロは剣を拾い、駆け出した。
今は目の前のことに集中するんだ。
「まさかのスルー! なんでこんな空気扱い!?」
なんか後ろから聞こえたけど知ったことじゃない。
◆Eric◆
後輩たちの戦う後ろ姿を眺めるだけの自分が歯痒かった。
それなりの実力はあると思っていたんだがな……。目の前の化け物に対して俺はただの無力な人間に過ぎなかった。
襲い掛かる影を切り刻んで消し去るフィーロ。明らかに異色の能力だ。
だがそれだって実力のうちだ。能力というものは使う本人が相応の力を持っていなければ宝の持ち腐れなのだ。フィーロはそれを使うに見合った実力がある。
「ふれーっ! ふれーっ! フィーロ君っ!」
何も出来ない先輩その二のリリーナはせめて応援だけでもと言ってさっきから声を張り上げている。せめてっつーか生き生きしてんじゃねーか。輝いてんぜ、瞳がよ。
「大したもんよねぇ」
「ん? ああ……すごい奴だよ」
何も出来ない先輩その三のシオンがエリックの隣に来て言った。エリックは後輩たちから目を逸らさずに答えた。
「ちょっと悔しいでしょ?」
「そんなことは……あるかもな」
悔しいというか、羨ましいというか。まあ、劣等感みたいなものはなんとなくある。あいつらは強い。多分、この先ももっと強くなるだろう。
おそらく、あくまで憶測だけど、あいつらは何か大切なものを無くしたことがあるんじゃないか。それがあいつらの強さなのかもしれない。
俺はどうなんだろう。
一年時の中頃にルミアと知り合った。単純に合コン。若気の至りってやつだ。なんでも勝手に俺の名前を出したらしく、絶対出席だった。まあ、用事もなかったし、顔を立ててやろうと出席。そこにルミアがいた。あいつは数合わせだったらしい。
つまんなそうにしていたけれど、魔術の話は結構弾んだ。俺が扇術士だと言ったら興味を持ったらしい。
それから喧嘩してるバルドとスヴェンに出会って、それからなし崩しにクランが出来た。
気付けば三年生。特に大した出来事もなく、時にクランで出掛けたり、パフェで働いたり。俺は平凡だった。どれだけ天才扇術士と言われ持て囃されても。ここに来る前だって平凡なもんだ。
ロレンツ姉弟のことを知ってから、少し変わった。えらくちぐはぐな姉弟が現れたと思った。姉はルミア並の天才魔術士だった。弟はとんでもなくへなちょこだった。
毎年恒例の新入生抜き打ち実戦テスト。ちぐはぐな剣士はとんでもないことをしでかした。いや、結果的に助かったのだからよかったのだが、後で確実に絞られただろう。
その後しばらくして知り合ったが、今回のクランコンテストを通じてもよく解った。あいつは面白い。だから俺はあいつに関わろうと思った。あいつと面白いおかしく過ごせばきっと今までの二年分よりも充実した学園生活を送れるだろうから。
「極めつけはこれだもんな……」
笑えない状況。
異常事態ともいえるこの非日常に、しかし胸踊る自分自身もどこかにいる。不謹慎だから態度には出さないけれど。
「でも、充実した学園生活だ」
「どしたの?」
「感覚の麻痺した男の戯言だ。さて、と。見てばっかじゃつまんねーし、俺も抗ってみるか」
「楽しそうね」
「そうか?」
「不謹慎ね。まあ、わたしもだけど」
「共犯者だな」
にっと笑って扇を手にとる。
見る限り全く魔術が効かないわけではない。あれは攻守で役割が違うのだろう。攻撃なら強固に、防御は柔軟にと分かれている。防御に使われる影はよって今のところはフィーロにしか破れないが、攻撃に使われる影ならば魔術で弾ける。
扇術は言わば舞という身体言語を詠唱とした魔術。ならば、この力は充分に役立つ。というか、少しは先輩らしく活躍しないと。それこそあいつらに関わる資格がなくなってしまう。まだまだ時間はあるんだ。そいつは困る。
扇を開いた。
そして前を見据えて、駆け出す。
「エリック!?」
「後ろは任せた!」
「ちょ……!」
東方に位置する藍玉。山脈を挟んで鸞明国とは隣接する、その国の別名は“風の国”。過酷な環境ゆえに多くの生物が独自に進化を遂げた場所だ。そこに住まう暁雷虎の骨格に白鵜の羽と獅猿の尾。それが扇となる。そして風神に捧げるべく描かれた魔法陣と触媒。扇は舞う風を受けて風神の力を得る。
それが扇術。
「つかみ取るように、撫でるように、愛でるように、包み込むように……!」
扇は舞う。
風は世界の吐息。風を操るということはすなわち世界の一部を操るということ。だからこそ、愛さなくてはならない。じゃないと、向こうも応えてくれないだろう?
果たして、世界は応えた。
扇に纏わり付く風の感触。
いい感じだ。今なら空間すら切り裂ける気がする。気がするだけだけど。
「切り裂け烈風!」
天駆ける風の刃。
真っ直ぐ走るそれは、何者にも邪魔されることなく、フィーロの前に群がり襲い掛かる影を切り裂いた。読みは当たっていた。心の中でガッツポーズ。
一方背後からの突然の攻撃(エリックとしては支援のつもりだが、それがフィーロに届いていることやら)に驚いたのか、フィーロが後ろを振り返る。
エリックは、親指をぐっと立てた。
一瞬目を大きく見開いていたが、すぐに頷くフィーロ。再び前を向き、駆け出した。
「カッコイイな、あいつ」
いつもより何倍も逞しい後輩の後ろ姿を眺めながら、エリックは扇を構えなおした。
さて、そのカッコイイ後輩をも少し引き立てるとしますか。
◆Firo◆
ガナッシュとレイジ。ヴァイス、そしてエリック。
四人の支援のお陰で、フィーロは一直線に駆ける。
「小虫の分際で……余に刃向かうか!」
「うっせぇ!」
眼前に迫る影の束を払う。影は霧散し、消える。もう贄の女王は目前。地面を思い切り蹴って、飛び掛かった。
追撃する影を斬った。数が多い。影の針で出来た剣山ってところか。刺さればちくりどころじゃ済まないが。刺さらなければ……
「意味はない!」
斬り払う。もう目の前に邪魔するものは何もない。ただあるのは黒い影の玉。これがきっとそうだ。二人を取り込んでいる玉だ。宙に浮かぶそれをフィーロは剣を躊躇うことなく一閃させた。シャボン玉が弾けたように消え去る。
中にはシェリカとルミアの両名がいた。気絶している。やばい。言うまでもなく重力はこんなときでも健在だ。万有引力よろしく落下を始める。ルミアは手が届くが、シェリカが遠い。
「やっべ……!」
咄嗟に剣を投げ捨てた。邪魔だ。
思い切り手を伸ばし、ルミアの手首を掴んだ。ぐいと一気に引く。その勢いを使ってシェリカに近付いた。ちょうど二人の真ん中に入り込む形になる。
それから気付く。
どうやって二人も担げばいいんだ?
バルドみたく大きな身体を持っているわけでもないので、一名が限界だ。とはいえ、ポイと捨てられもしないぞ。どうすりゃいい……!
「フィーロ! 避けろ!」
「もう遅い」
「――え?」
ガナッシュの叫び声。そして耳元で囁くような女の声。フィーロは振り向く暇すらなかった。
衝撃。身体が揺さ振られる。そして背中の皮を突き破り、肉を裂かれる感覚。中に異物が入り込む。腹の肉を食い破ってそいつらは突き抜けた。
「かっ……は……?」
やられた。
後ろからだ。
だけど声にならない。血が喉を塞いで、言葉の代わりに口から血が出てきた。下目でなんとか目視する。七本くらい黒い影が土手っ腹を突き破ってフィーロから生えていた。
マジか。生け花じゃんーんだから。そんな場違いなことを考える。
ずりゅっと引き抜かれる。
奇妙な感覚。風穴開けられたわりに熱い。燃えるようだ。というか、これは痛い。激痛だ。でも、声が出ねえ。
「フィーロ……!」
誰の声だ。誰の。
くそ。意識が。いてえ。しっかりしろ。頭使え。痛すぎだ。泣けてくる。我慢だ。今するべきことを思い出せ。やっぱいてえ。クソッタレ。俺は。何をするべきだ。
――決まってる。
「ガナァァァァァッシュ……!」
血混じりの叫び。畜生め。声が出づれぇ。知ったことか。
「受け取れぇぇぇッ……!」
シェリカとルミアの腕を引っ掴み、何をどうやったか思い出せないが、とりえずぶん投げた。頭がぶっ壊れるような痛みを全身を襲う。涙目どころか、いろんな体液が漏れてる気がする。
ガナッシュはシェリカを慌てて受け止め、そのまま尻餅を突いた。おい。ルミアはどうすんだ。
杞憂だった。エリックが風で受け止めていた。便利な力だ。ゆっくり自分の腕まで降ろす。どこの王子様だあの人は。
まあ、なんにせよするべきことは出来た。十分だ。目をつむり、安堵の息を漏らす。フィーロの身体は落下を始めた。だけどそんなことはフィーロ自身には感じられなかった。というかどうでもよかった。
約束を守ったんだから。
約束は……守った。
守ったんだ……。
……母さん。
フィーロの意識はそこで途絶えた。