第一章(16) 食べてばかり
◆Firo◆
購買部で詰め合わせのサンドウィッチを購入したフィーロは、リリーナの待つベンチに向かった。
何というか、マジでドッキリじゃないよね。全校生徒の憧れにして可憐な美女でもあるリリーナから昼食に誘われるなど思ってもみないし、モテないことを理解し、非モテ道をしかと歩み続ける俺には疑心しかない。花も恥じらうほどの美貌の持ち主だぞ。高嶺の花とかそんなレベルじゃない。
やっぱドッキリか。
マジでドッキリな気がしてきた。帰ろうかな。むしろ、戻ってももういないかもね。騙されてるかもね。
疑心暗鬼になりつつも、行かざる得ないのは男の、というより個人的な性格によるものなのか。フィーロは重い足取りでベンチに向かった。
しかしながら、予想とは裏腹に彼女はそこにいた。しかしその面持ちはどちらかと言うと不機嫌そうで、というか頬が膨らんでいて、不機嫌ですアピールが凄かったから間違いなく不機嫌。
「もー遅いよー。ちゃんと待っててあげたんだから、感謝してよ?」
誰も待ってくれなんて頼んでないのだけれども。それでも「すいませんでした」と謝る俺、まじ弱い。まぁ、生徒会長様が直々に俺なんかと食事をして下さるのだ。もう地面に埋まるくらいへりくだっても不正解ではなかろう。釈然とはしないけど。
「ん。よろしい」
すぐに満面の笑みへと変わり、ふふん、とふんぞり返ってみせる。なんというか、子どもっぽい人だ。このへんは開会の時と変わらない。
「今、子どもっぽいとか思ったでしょ?」
「そんなことは……」
マジかよこの人エスパー? 思考を読まれ、首筋に嫌な汗が流れる。やっべー超ジト目だよ。
「ま、よく言われるんだけどね」
「そ、そうですか」
言われるのかよ。だろうね。
どうやらそれほど怒っているわけでもないようで、どうやらポーズだったようだ。安堵に胸をなで下ろす。
リリーナが「座りなよ」と促してきたので、フィーロはリリーナの隣に腰掛けた。もちろんのことだが、露骨にではないが、間は空けている。さっきは近過ぎた。これくらいがちょうどいい。なんなら一キロくらい開けてもいい。
ベンチに腰掛けると、フィーロは買ってきた昼食を膝に載せた。リリーナの膝の上にも小包が乗っている。どうやら弁当らしい。
「なんか堅いなぁ。もっとフレンドリーにいこうよフレンドリーにっ! ねっ? ほら、リリちゃんって呼んでみようっ!」
にぱーと笑うリリーナ。わざとか。わざとやってるのか。じわじわと洗脳していく作戦か。俺をどうするつもりだ生徒会長。絶対呼ばん。呼ばんぞっ……!
俺が葛藤と戦っているのもつゆ知らず、リリーナはトドメと言わんばかりにこちらに寄ってきた。これまでなんとか平常心を保ってきたが、これはマズイよ。色んな意味でマズイよ近い柔らかいあったかいいい匂い!
「ち、近くないですか……?」
「んー? 何か言ったぁ?」
はーい、わざとけってーい。
小悪魔かよと心中で呟きつつ、フィーロはとうとう観念した。もうどうにでもなれ、の精神である。というか逃げ場もない。
嘆息するフィーロの真横で、リリーナはこなれた手つきで小包を開け、弁当のフタをとった。
「じゃーん! 手作り〜♪」
「美味しそうですね」
実際、美味しそうな弁当だ。彩も豊かだし、見た感じバランスもよい。手作りでこれだけのクオリティーというのは、男子的にポイント高い。うちの馬鹿姉に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい。
「食べたい?」
「自分のありますんで」
「まあまあ、そう言わずにお一つどーぞっ! あ〜ん♪」
あっれー。俺、結構ですって言ったよな。断ったよな。マジでこの人何考えてるんだろう。
卵焼きをつまんだ箸をこちらに向けているリリーナの考えていることがわからなくて、戸惑いしかない。真剣に何考えてんのこの人。
「あ〜ん♪」
「……」
「あ〜ん♪」
「………」
「あ〜ん♪」
「…………あーん」
完全に押し負けた。
マジ弱いな俺。
「どう?」
「美味いです」
「へへん」
「……」
寮に今すぐ超帰りたい。
こんなところを誰かに見られれば、フィーロに次の日はない。一応ドッキリではないらしいが、そのぶん余計に疑問ばかりが生まれてくる。
「――……せんぱ……あーいや、リリーナさんは、なんで俺を昼食に?」
先輩と言おうとした瞬間、じろっと睨まれてすぐさま言い直す。あかん。この人勝てん。
「うん? やー、一人で食べるなんて淋しいじゃん?」
「何も俺を誘わなくても、他にいるんじゃ……」
それこそ引く手あまただろうし、わざわざ初対面の、しかも年下の、なんの取り柄もない男子生徒を選ぶ必要はないだろう。言ってて悲しくなってくるな。まぁ、事実だしなぁ。
「もしかして、迷惑だった……?」
悄然とした表情でそんなことを言うのは反則だろ。そんな言い方をされれば、「――そういうわけじゃないです」と答えるしかない。他にどう答えろっちゅーねん。
リリーナはよかったと言って微笑んだ。そして箸をいったん置いて、遠くを見つめる。どこか物憂げな彼女の視線の先に何があるか。フィーロが見たところで、あるのは校舎の壁。その先に何を見ているのかなど、推し量ることは出来そうにない。
諦めて、残りのサンドウィッチにかぶりついた。
「生徒会長になってからさ、なんだかみんなと距離を感じるようになっちゃったんだ」
リリーナはおもむろに口を開いた。サンドウィッチを飲み込み、リリーナの横顔を見つめる。
「優しくはしてくれるんだけど……やっぱり、ちょっと違う存在として扱われてる感があってね」
それはまぁ、今の俺の心境がまさにそれだ。天下の生徒会長ともなれば、やはり一介の生徒とはわけが違う。
「というか、わたしもともと友達もそんなに多くないってのもあるんだけどね」
取り留めのない話。だけど、それが彼女の本音なのだろう。なんで俺に言うのかはわからないけれど、聞き役として選ばれたのなら、何も言うまい。
リリーナは箸を再び手に取り、食事を再開した。ご飯を頬張りながら、先ほどとはうってかわって華やいだ笑みをこちらへ向けた。
「前からね、フィーロ君がここにいるのは知ってたの。だから仲間発見って思ってね。それで、思い切って声を掛けたの」
「そうだったんですか」
あんまり人見知りするような人には見えないのだけれど、人は見かけによらずといったところか。それで声をかけてもらえたのだから嬉しいことだ。
しかし敬遠、ね。
もとよりアイドル崇拝とはそういうものなのだろう。アイドルというのは、不特定多数からさながら神のように崇められるからアイドルなのである。神はいいすぎか。それでも、星なんて言うくらいだ。仰ぎ見る存在としちゃ、似たり寄ったり。誰かの隣に立ったアイドルはもはやアイドルではない。ただの女の子だ。学園の男子生徒は、リリーナをアイドルとして見ている。だからこそ余計、普段は敬遠してしまうのかもしれない。好かれているがゆえに。
皮肉なものだ。フィーロは苦笑した。
リリーナ自身もいろいろと気を遣っているのかもしれない。大勢の男子生徒に花よ蝶よとちやほやされているわけだし、女子生徒の嫉妬や反感を買わないように、適度な距離を保ったりと。
生徒会長も大変だな。
どんな人間にも悩みがあるのだと思うと、少しばかり親近感に似たものを感じる。我ながら卑屈だとは思うけれど。遠い存在に感じていたリリーナが、身近に感じることが出来たのだから、俺としては僥倖だ。
「な、なんかわたしの顔についてる?」
まじまじと見つめすぎたせいか、リリーナは少し顔を赤らめながら、顔のあたりをさすっていた。
「大丈夫ですよ。鼻にご飯つぶがついているだけです」
「ついてるんじゃんっ。……あれ、ない。ついてないっ? ウソ吐いた!」
「面白かったです」
子どもっぽい仕草を見せる彼女が面白くて、フィーロが笑うと、「もー!」とリリーナは頬を膨らませて、ポカポカとフィーロの頭を叩いた。なんとなく、こういうところが我が儘な自分の姉に似ている。まだこちらの方が可愛らしいけれど。
うーうー唸りながら、未だに頭を叩いてくるリリーナを余所に、フィーロは空を見上げた。ここは影になっているけれど、空は青く澄んでいる。もうそろそろ夏に向かっている頃だ。だから、顔が妙に暑いのも、そのせいに違いない。きっと。
何はともあれ。
「他の人がいなくてよかった……」
本心からそう思った。
◆◆†◆◆
その後はリリーナと他愛ない話をしたりしながら、楽しい昼飯時を過ごした。午後からはリリーナも生徒会の仕事があるそうなので、その場で解散し、フィーロは帰寮した。
カーテンの締められた、薄暗い部屋には、すでに人の気配があった。静かな空間に、幽かな吐息が届く。どうやら寝ているらしい。
「窓くらい開けろよ……」
不健全なやつだな。存在自体が不健全だから仕方ないっちゃ仕方ないか。
ガナッシュは薄めの毛布にくるまって、夢の世界に旅立っていた。俺が戸を開けた音にも気付かないあたり、相当に疲れているらしい。無理もない。二度にわたる魔剣の行使で、肉体と精神への負担はかなりのもののはずだ。それに、あの空間では肉体という殻が無いに等しいのだから、精神への負荷も大きいはずだ。
「ホントに……」
本当に、毎度ながら思う。こいつはなんでこうも生き急ぐようなことをするのだろうか。
個人的な事情なんだろうが、見ているこちらが気疲れする。ガナッシュはタフな方だが、そんなもの、魔剣の前には関係がない。あれは万人に対して平等だ。分け隔てなく力を与え、そして奪う。だからこそ安易に使うべきではない。
特にタチが悪いのは、危険を承知で魔剣を使っているということだ。それでは忠告したところで耳を貸すわけがない。いつも大丈夫の一点張りだし。つーか大丈夫じゃねぇし。
「たく……めんどくせぇヤツ」
一介の冒険者がなぜこれ程のものを所有しているのだろうか。
所在はおろか、そもそもの原点すら不明な神具。誰が創り出したのかも分かってはいない。ほぼ全てが不明瞭でありながら、明白なのは絶大な威力。
ガナッシュはこれをどうやって手にしたのだろうか。
「ま、聞いたところで教えてはくれないだろうな」
単なる予感だけど、あながち的外れという訳でもなかろう。だからこそ、俺が思うに、このクランの中で一番心を閉ざしているのは、案外こいつなのかもしれない。
それは寂しくもあり、同時に腹立たしかった。
◆Unknown◆
もう少し。
あと、もう少しだ。
必要な触媒を取り寄せるのは、案外難しくなかった。これ程の魔術ながら、発動のための難易度は高くない。それは歪なものであったし、どこか不気味ですらあったけれど、僕ならば問題なく使いこなせるだろう。
それだけの自信があるし、力もある。
僕は天才なのだから。
果たして、準備は整った。
このまま順調に行けば、僕は。僕こそが。
いや、なんにせよ、まずはリーグ戦を勝ち上がらなければならないな。クランが負けたら意味がない。僕がいれば難などないが、周りがヘマをしないようにはコントロールしなければならない。
勝ち上がって、最終選考まで行けばそれでいい。
全てが僕にひれ伏す。
見下した者には残酷な死をくれてやろう。頭を垂れる者は皆等しく奴隷としてやる。そう、これは王の力だ。
さあ。
時期、皆が僕の力に畏れ敬う。
黒い本を開く。黒い情念が僕を取り巻く。ああ、心地よい。これが黒の奔流。闇夜より深く、濃い暗黒の力。それが僕のものとなるのだ。
これは我が栄光への一歩。
そして皆の絶望への一歩。
「ク……クク……クフハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ……!」
ああ、そうだ。
あいつには最初に跪いて貰わないとな。
シェリカ・ロレンツ。
高飛車な女の顔がどんな苦渋に染まるだろうか。
今から想像するだけで、楽しみだ。
◆Firo◆
夕方。
寝起きは最悪だった。
「フィーロ! 夕飯に行くわよ!」
バンバンバンバンバンババン、と無駄にリズミカルに毛布を叩くのは、うちのバカ姉である。鬱陶しいことこの上ないし、殺意の波動に目覚めそうだ。
というか、気付けばガナッシュに釣られ、俺までもが寝こけていたようだ。いや、毛布ってすごいな。ちょっと寝転んでくるまるだけで、すんげぇ眠気誘うし。魔性だわ。たぶん毛布に性別があるとすれば妖艶で肉感的かつ母性的な美女なんじゃねぇの。妖艶と母性ってわりと対局じゃね。矛盾を超越してなお人に安らぎを与えられるとか、毛布マジ偉大。
つーかそんなこと考えてる場合じゃない。
「痛い痛い痛い痛い。勘弁してくれ……わーったから」
非力な姉とはいえ、何度もお腹ばかり叩かれるとさすがに痛い。ピンポイントで腹部を狙ってくるとか鬼かこいつ。これ以上叩かれるなどまっぴら御免だ。俺はサンドバッグじゃない。
フィーロは嫌々ながらも、己の身のために上体を起こした。最悪の寝起きである。
「ご飯行きましょ!」
そして間髪入れずのこの発言である。呆れてしばらく溜め息しか出てこなかった。
「つーかお前、男子寮に気安く入るなよ……」
「どうして?」
「どうして……って、そこは良識に則ってだな……」
「あたしがルールよ!」
寂しい胸を精一杯張って高らかに自身のジャイアニズムを赤裸々に叫んだ。なんなんだコイツ。
「……まぁ、怒られないうちにやめとけ」
つーか、こう、女としての恥じらいとかはないのか。年頃の女が男の部屋に入るとかさ。俺は弟だからいいとして、ガナッシュもいるんだし。……いねぇし。野郎、自分だけ起きて逃げやがったな。仲間意識とかマジで無いよな。
そもそもあいつ重度のシスコンだからシェリカがいてもなんも起こらねぇな。ダメじゃん。この部屋の住人がすでに恥ずかしい存在だから、恥じらいの必要が無い。
ん? なんか一人大変な変態を忘れてるような。
んー……。
気のせいだな。
「ご飯! 行くわよ!」
「急かすなよ……」
のそのそとベッドを降りて、伸びをする。小気味の良い音がして、ほんの少し頭も冴えてきた。少しだけ汗臭いな。シャワー浴びたいとこだが、まぁ、着替えるくらいでいいだろう。どうせ夕飯のあと風呂入って寝るんだ。二度手間になる。
「とりあえず外で待っててくれ」
「どうして?」
「着替えたいから」
「あたしは気にしないわよ?」
「気にしてくれ。姉弟でもそこは」
部屋から押し出すと、シェリカはブツブツ言いつつも素直に部屋から出ていった。嘆息しながらフィーロはクローゼットを開け、アンダーシャツを適当に見繕う。黒いシャツを着て、その上に何か羽織るか迷ったが、暑いからやめた。
部屋を出ると、壁にもたれてしゃがみこむシェリカの姿があった。数分程度だというのに、妙に退屈そうにしていた。「遅いわっ!」いやだから数分。そんくらい大人しく待てよ。
まぁ、でも口論になったら確実に面倒になるのが関の山なので、さっさと謝ることにした。
「悪かったよ。お待たせして」
フィーロの謝罪に少し機嫌は治ったことで、シェリカは「行くわよ」と言って歩きだした。本当に我が儘というか理不尽というかなんというか、とはいえやはり言っても仕方ないし、フィーロは黙ってその後を追う。
寮の外に出ると、空はすでに艶やかな茜色に染まっていた。遠くがうっすらと藍色に染まりつつあり、初夏の涼しげな風が身を撫でてきて、気だるさの残る眠気もどこかへ飛んでいった。
そこでふと、シェリカの足がベルベットとは逆方向を向いていることに気いた。
「どこ行くんだ?」
「今日は天理に行くわよ」
「ああ、天理な」
どうりで。
あれは敷地内で言うとベルベットとは逆方面にある。というか、全体的に外れた場所に位置している。
第二食堂の天理は鸞明国の郷土料理が楽しめるところとして学内でも有名である。
ベルベットのような大衆食堂と違って、林間にひっそりと建つ様はまさに高級料亭。質素ながらも上品な木造りによって敷居の高さを醸し出している。まぁ、当然ながらやはり値は張る。
そういうわけで、金のない生徒には無縁の場所であり、入学から二ヶ月といくらかが経ったが、未だ足を運んだことはない。
「……どういう風の吹き回しだ?」
そんな一般庶民であるところのフィーロが在学中に近寄ることすら考えもしなかった場所に向かうわけだから、訳を聞きたくなるのも自明の理であろう。
「まあ、気分よ」
気分屋らしい台詞が返ってきた。金はあるのかと聞きたいところだが、あるんだろう。いくら馬鹿でも、魔術の触媒やらで俺より金使ってるんだし、その辺の管理は出来ていると信じたい。……あるよね?
フィーロは呆れはしたが、こんな機会が二度とあるかも分からないとなれば、拒絶する理由もない。結局、「……ハイハイ」と溜息混じりな返事をしつつも大人しくついて行くことを選択した。
が、俺の返事が気に食わなかったのか、シェリカは足を止めてムスッとしたかおでこちらを睨んできた。
「何よ。嫌なの?」
「いや、嬉しいよ。滅多に行けるもんじゃないし」
「じゃあもっと嬉しそうにして欲しいわ」
「そうしたいのはやまやまだけど、お金は大丈夫なのか?」
流れとはいえ、知るにはここしかないと、一番の懸念である金の問題を尋ねると、シェリカは得意げな表情を浮かべた。懐から何か紙らしきものを取り出す。
「じゃ〜ん。タダ券〜」
なんだそのダミ声。うぜぇな。
「なんで持ってんだよ、そんなもん」
「拾った」
「泥棒じゃねぇか」
何ドヤ顔してんの。普通に犯罪だからそれ。
「拾ったんだからあたしのものだわ」
「持ち主探してやれよ」
「嫌よ。返さないといけないじゃない」
最低だ。最低の人間がここにいる。
最低最悪のジャイアニズムを引っさげて、うちの馬鹿な姉はこれ以上の抗議は聞かぬと言わんばかりに俺の視線を完全に無視して歩き出した。なんてふてぶてしいのだろう。
とはいえ、結局諦めてついて行くあたり、俺もまた同罪なんだろうなぁ、とタダ券を落とした生徒に心中で謝罪しておく。ほんと馬鹿な姉ですみません。
そんなこんなで。
やれやっと天理に着いた。玄関扉をくぐると、すぐにアルバイトらしき仲居姿の女の子が着物姿で出迎えてくれた。小柄な、黒みがかった灰色の髪の少女。眠たげな瞳はこちらをじっと見つめて……つーかむしろ凝視していた。「――一名様ですね?」
「クロアかよ!」
どこかで見たことあるな、と思ったらクロアでした。着物が似合っててちょっと可愛いじゃねぇかよ。
開口一番シェリカの存在を完全に無視したその自然な対応に、こちらも開いた口が塞がらなかった。今のツッコミが精一杯だった。
すぐにシェリカが俺を押し退けてクロアに詰め寄った。
「なんであんたがここにいるのよ!」
「バイトに決まってる。馬鹿なの? 死ねば? 部外者はご退店願います」
こっちはこっちでいつになく饒舌である。普段はワンテンポくらい発言が遅い彼女が、仲居姿に身を包むとこうも機敏になるとは。天理すげぇな。色んな意味で。なんでこんな子雇ったの。
「あたしは客よ! 客は神って習わなかったの!?」
「神は死んだ。つまりお前はもう死んでいる」
超理論によるクロアの応酬に、シェリカの周りでパチッという何かが弾けるような音がした。こいつはマズイ。つーかかなりヤバイ。
空気がひりつく。
一触即発もいいとこだ。
シェリカの周囲に細い無数の紫電が蜘蛛の糸のようにまとわりついていた。怒髪天を衝く勢いというか、既に髪の毛が逆立ち始めている。おい。お前、絶対やめろよ。こんな所で魔術使ったら停学通り越して退学だぞ。
まぁ、さすがにそこまで馬鹿ではないようで、シェリカは固く拳を握り込んでおり、必死に堪えていることは容易に想像出来た。こんな安心できない堪えっぷりはなかなかないな。そして、やはりというか、行き場のない怒りの矛先は俺へと向かうことになるのだ。涙目でこちらを睨んできた。
「フィーロ! こいつマジムカつくわ!」
「俺に言われても……」
仲良くしろよとしか言いようがない。あれかな。罰かな。タダ券盗んだ罰が当たったのかな。そうとしか考えられないんだけど。今からでも返した方がいいんじゃないの。
そもそもなんでお前らそんなに仲悪いんですかね。
「ムカつくなら帰ればいい。お前に食わせる料理はない」
「クロアも火に油注ぐなよ……」
二人の視線が交差する一点に火花が散っている幻覚が見えた。
頼むから矛を収めてほしい。俺の寿命が縮まるから。
お互いをなんとか宥めようとするが、その度に「その女の味方をする気!」「その女を選ぶの……?」と言われてしまう。どないせぇゆーねん……。
結局、クロアの先輩が睨み合う二人を訝しんで様子を見に来るまで、この緊迫した膠着状態は続いた。俺の寿命はおそらく年単位で削られた。もう食欲はなくなっていた。
◆◆†◆◆
「結構薄味だったわね」
ただ飯食っといてなんだその言い草、とは思うが、俺自身も「味がしなかった……」とぼやくあたり同罪である。まぁ、もっともこいつの感想は単なるわがままで、俺は無駄な争いに胃がキリキリして仕方がなかっただけだが。
クロアの先輩による仲裁で、やっとの思いで部屋に通されたが、その後もシェリカとクロアはいがみ合っていた。いい加減に先輩も見かねてフォローを入れてくれた。つーかクロアは強制的に退勤させられた。まぁ、そりゃそうなるわな。クビじゃないだけマシな処置だと思う。温かい職場である。
一段落ついた頃には精神力とか気力といった類のものが寿命ごと削り取られ、正直もう寮に帰ってとっとと眠りたい気持ちが占めていたのだが、シェリカがそれを許すはずもなく、俺は市松模様の座布団の上で項垂れるしかなかった。たぶん、俺の目は死んだ魚と同等のものになっていたことだろう。
ようやっと料理にありつける頃には疲弊しきっていた。もうどの皿に箸をつけても味がしないっつーね。あんな悲しい食事もなかなかない。
ちなみに。原因の一端であるシェリカは、切り替えの早いことが取り柄なのでとっくにクロアのことは吹っ切っていて、にこにこと満面の笑みを浮かべつつ豪華な食を堪能していた。今思い出しても腹立つことこの上ない。
「お腹空いてないの?」
「空いてるよ……」
「じゃあ食べればいいのに」
だから喉を通らねぇんだよ。何この人、頭沸いてんの?
などというやり取りをしつつ、こうして生まれて史上最悪に楽しくない食事を終えて、俺たちは帰路へとついていた。
それでも、魚の刺身というのは新鮮だった。生魚を食べるという鸞明国の風習には少し抵抗はあったのだが、意外に美味かった。コンディションさえ整っていれば、きっともっと美味しかったんだろうな、と思うと自分自身にお悔やみ申し上げたい次第である。
「魚って焼かなくても食べられるのねぇ」
「お前は醤油付けすぎなんだよ」
「だって味しないんだもん」
うちの姉には素材の味を楽しむとかいう思考はないらしい。子ども舌というかなんというか、こいつに天理は百年くらい早いんじゃないかな。
そう思ったら、タダ券落とした人も浮かばれないなぁと改めて懺悔する。
「そういえば、フィーロは昼間は何食べたの?」
むせた。
いきなりの問いがこれとは。なんと答えたものか。脳が警報を鳴らしている。いやまぁ、隠すことではないのたけれど、なんか話したら俺の命が危ういのではないか。
「購買で適当に買った」
「そうなの」
嘘はついてない。だから大丈夫。
偶然とはいえ、天下の生徒会長と食事をしたなど、ここで話してしまって、もしどこかで漏れれば俺はファンの連中から蒸し焼きにされること山の如しだ。人の口に栓はできぬと言うしな。胸中に留めておくが吉というものだ。
「シェリカは昼はどうしたんだ?」
「モランと食べたわ」
「そっか」
モランがいたのか。それなら同席すべきだった。なんといっても癒しだしな。あの微笑だけでどんな疲れが吹き飛ぶ。
そういえば、次の対戦カードはモランのところだったな。なんというか、もともと乗り気じゃないところにこれはなぁ。まぁ、ガナッシュたちに任せればいいんだろうけど。どうせ俺は大した役には立たない。
「明日は戦えるか?」
「ああ、大丈夫よ。それはモランとも話してたけど。友達だからこそ手を抜く方が失礼だと思うの」
「なるほど。それはそうだな」
傍若無人な女だが、たまにいいことを言う。
俺も手を抜くわけにはいかないな。
とはいえ、俺の場合は手を抜こうが抜かまいが変わらないのだけれど。とりあえずシェリカを守る、その一点はしっかりこなそうじゃないか。