第一章(11) 一回戦
◆Firo◆
『それでは、各リーグの一番と二番のクランは準備をお願いします』
試合開始十分前になると、門の扉が開いた。
そこには膜のようなものが張っていた。向こう側は見えない。まるで油のように、滲んだ虹色が渦を巻いていた。意を決して、目を瞑り飛び込むと、なんとも言えない奇妙な感覚に陥った。
土の匂いが鼻をくすぐり、目を開けると、不思議なことに森の中にいた。鬱蒼としている。変な感じだ。何かがおかしい。
「………生き物がいない」
ポツリとクロアが呟いた。ああ、そうか。確かにそうだ。その通りだ。ここには、生き物がいない。
虫すらもいない。
ただ植物が揺れているだけ。
創り物のような感覚。
先程から感じていたものの正体はこれだ。
「これが次元魔術……」
ここは、イネス先生が創り出した空間だ。虚実の入り混じった、森を模した森。現実味のない、現実だ。
「第八空間、腐蒼樹海デプスジャスパーか……さすがに地形は変えられてるな」
ガナッシュが周りを見渡しながら呟くのが聞こえた。まるで一度来たことがあるような口ぶりだ。
「ここ、名前あんのか」
「全部で十三種類あるらしい。ボクはここを含めて三つ知ってる。実技演習の時に潜らされたからな」
「ああ、それでか……ちなみに、あとの二つは?」
「第二空間、赤雪原マカハドマと、第六空間、常闇剣山だな。端的に言えば、極端に寒い空間と、極端に暗い空間だ」
「嫌がらせ? まともな感じしないんだけど」
「というより、むしろ何か訓練施設めいていたな」
「冒険者養成のためってことか?」
「さあな……ボクにはわからない。なんにせよ、イネスの持つ次元魔術の貢献はこの通り大きい。魔術士は戦略級の大型魔術の運用テストが可能になったわけだし」
大きな魔術となると、国一つを吹き飛ばせるくらいの威力を誇る。使える魔術士は少ないし、そもそもそんな魔術を使う機会がなかなかない。だが魔術士という存在は魔術に関しては子どもと同じだ。子どもが、買い与えられた玩具の箱をすぐに開けたくなるのと同じように、魔術士は、完成した魔術をすぐに使ってみたくなる。いやまあ、剣士だって新しい剣が手に入れば試し斬りしてみたくなるだろうし、気持ちはわからないでもないが、そんな衝動一つで国をまるごと滅ぼされてはたまったものじゃない。
今でこそ世界は平和であるが、戦時中はいたるところでこういった戦略級の魔術によって国が滅んでいたらしい。国が魔術士を雇い、敵国を襲わせるのだ。依頼した国は大きな損失もなく敵を片付けられるし、魔術士は自分が完成させた魔術の行使が出来て大満足。反転魔術の基礎理論が完成するまでは、そんなことがしょっちゅう起こっていたという。
シェリカの要素魔術も、上位になればおそらくこの学園くらいは軽々吹き飛ばせるものがある。そういうのを運用するとなると、イネス先生の隔離空間は便利なんだろう。
「シェリカが世話になってるわけだな」
「別になってないわ」
ぷい、とシェリカはそっぽ向いた。こいつ、イネス先生のこと嫌いなのな。理由は知らんけど。つってもこいつの場合大半の人間は"嫌い"に分類されるんだが。
先生だって同じ人間だ。学園でほぼ毎日面を突き合わせるわけで、そりゃ色んなこともあるだろう。嫌いな先生の一人や二人当然だ。俺だっている。あンのクソヴァイス。死ねばいいのに。
「何を変な顔してるんだ、お前は」
「思い出し怒り?」
「疑問で返されてもな。ボクにはわからん」
やれやれといった感じで、ガナッシュは肩を竦めた。
『それでは、各リーグの一番と二番のクランは準備をお願いします』
どこからともなく声が響いた。懐中時計を取り出すと、開始一分前となっていた。
元気溌剌な生徒会長の声ではなく、違う女性の声だった。たぶん、運営に回っている選手じゃない生徒の誰かだろう。
「お、そろそろ時間やな。気張っていこか!」
なんて声が後ろからした。
「あ、なんか忘れてると思ったわ」
「ん? ああ。本当だ。レイジを忘れていた。いつからいたんだ?」
「そこから!? いやギリギリでした! さっきまでノックアウトしてましたっつーか腎臓超痛いわ!」
「それは災難だったな」
「殴ったんジブンやん!」
「うるせーなぁ」
「ぶへらっ」
『開始五秒前です。……三、二、一、戦闘を開始して下さい』
「あ、やべぇ」
「……おい。責任持って起こせよ」
めんどくせぇ……。
◆◆†◆◆
リーグ戦のルールはいたってシンプルだ。制限時間は五十分間。フィールドに入ると、ランダムで攻撃側と防衛側が決められる。一回戦の《カタハネ》は攻撃側だ。
攻撃側はフィールドに設置された防衛側の持つ旗を破壊するフラッグ戦。フラッグの移動は可能になっていが、重さ五十キロ、一度地面に下ろすとその場で設置され、固定解除は手際よく行っても一分かかる。ぶっちゃけ移動には向いていない。
ともあれ、攻撃側はそれを破壊すれば勝利。防衛側は守り切れば勝ちというシンプルなルールだ。
防衛側のフラッグは設置すると自動的にダミーが発生する。間違えると警報が鳴る。また、この時のみフラッグの重量が一キロにまで減量され、固定解除も一瞬でなされる。つまり一度間違えると警戒を高め、しかも逃げる機会すら与えてしまうことになる。
ちなみに、当然ながら防衛側も逃げるだけでなく、攻撃が可能だ。これは一応、お互いに適用されるルールなのだが、まずクランのマスターが戦闘不能に陥った場合はその時点で試合が終了する。
《カタハネ》のマスターはガナッシュなので、まずガナッシュが敗れれば、この時点で敗北が決定する。だからと言って、ガナッシュさえ無事なら他のメンツが欠けていいわけでもない。
攻撃側にのみ適用される、もう一つのルールがある。
クランの体系を維持するということだ。ローズベル学園の学則で定められるクランの最低人数は四人。それ以下になるとそこで試合終了となる。《カタハネ》は七人なので、四人欠ければそこで負けになる。
まあ、全部あれだ。ガナッシュみたいな奴が一人で無双しないようにする、せめてものルールなんじゃないかなとフィーロは考える。あくまでクランというチームでの戦いということだ。
こちらのウィークポイントはシェリカとユーリだ。
シェリカは魔術士としては天才的だが体力的には人並み以下。攻撃力は《カタハネ》の中でトップ、防御力はおそらく最低という典型的魔術士だ。ほんと、こいつこれで前線出るからなぁ。
回復の要である、治癒士のユーリも狙われることだろう。しかし当然ながら戦闘力を持たないので、彼女を護衛するのは必須となる。
戦闘になれば、必然的にシェリカとユーリに護衛をそれぞれ回さなくてはならない。《カタハネ》の近戦学部はフィーロとガナッシュ。中戦学部はレイジとモニカ。レイジは性質上、撹乱と強襲が主体となる。唯一の遠戦学部であるクロアは当然後方からの狙撃が基本。となると最前線に出るのは一人とシェリカの護衛役一人。
安全なのは――後列支援のユーリの護衛!
「ガナッシュ、俺はユーリの護衛にまわる! あとは頼んだ!」
「アホかァ―――っ!!」
叫びつつ、ユーカリスティアを横薙ぎに振るうガナッシュ。フィーロはしゃがんで避けたが、髪を掠め、二、三本舞った。
「あ、危ないだろ! 何するんだ!」
「黙れ! 何がユーリの護衛だ! 護衛もまともにしないくせに! お前は前線だ馬鹿!」
「前線みたいな危ない場所行けるわけねーだろ!」
「じゃあなんでお前は剣士なんだよっ!」
「喧嘩しとる場合やないで! 敵や! 距離百五十!」
無駄に目と耳のいいレイジが言うのだから、間違いはない。というかもう復活したのか。もう面倒臭かったから放置してたんだけど。
「戦闘準備! レイジは撹乱を、モニカはユーリの護衛を! フィーロとボクで斬り込む! シェリカの護衛はボクがやる! クロアは好きに射て!」
「護衛はフィーロにしてちょうだい!」
「我が儘言うな馬鹿女!」
「……っ! アカン、魔術や! 全員伏せぃっ!」
フィーロはそれを聞くやいなや、咄嗟にシェリカの方に飛んだ。頭を抱き抱えて伏せる。「きゃっ」とかいう似合わない声が聞こえた気がしたが無視をした。
伏せる寸前、目の端で光る何かが走っていった。電撃や炎の光ではなく、宝石が光で反射するような……これは、氷? 地面に顔面がぶつかる寸前にフィーロは氷のようなものを見た。
「ぶえっ……」そして顔面が地面に埋もれた。
◆Shericka◆
うへへ。
ここ最近は幸せの連続だ。
フィーロとのことなら小さなことでも幸せだ。
というかフィーロがいればいい。他には必要ない。
フィーロの胸に顔を埋めて、シェリカは恍惚としていた。フィーロの体臭を胸いっぱいに吸い込む。幸せだ。ハッピネス。
「ぶはっ……ってぇ……大丈夫かシェリカ?」
「へ? あ、うん」
大丈夫と聞きたいのはシェリカのほうだ。顔が土にまみれている。それなのに起き上がったフィーロは自分よりあたしを心配してくれた。こういうさり気なく優しいところも好きだ。
フィーロは優しいのだ。
「魔術士か……!」
ガナッシュが憎々しそうに言って立ち上がった。
「……レイジ、追えるか!」
「アカン。逃げられてもうたわ」
「クソっ。戦い慣れしてるな……」
「どないする?」
「待機を。追撃がなかっただけでもよしとしよう」
防衛側は何も向きになって敵を倒す必要はない。奇襲と撤退を繰り返すのも一手だろう。そうやって相手を疲弊させ、最後に強襲をかける。あるいは時間切れを狙ってもいい。さすが三年生と二年生が中心のクランだ。なかなかに戦い慣れしている。
――でも、あの魔術は大した魔術ではない。
「ガナッシュ、落ち着けよ。大した魔術じゃない。シェリカの方が何倍も上だろ」
フィーロがそう言った。一瞬、抱きつきそうになってしまった。堪える。なんで堪える必要が? 嬉しい。よし抱きつこう。泥? 気にならない。フィーロに付着していた泥ならご飯にでもかけてみせる。
「ちょ、汚れるから。何……ちょ、何?」
フィーロに阻止された。あたしが汚れるからって。気にしないのに。ほんと優しい。
「何やってるんだ」
「俺が聞きてぇ。つーか落ち着いたか」
「ボクは落ち着いてる」
「どこがだよ。そういやさっきの魔術って、あれ水の要素魔術だよな。氷の矢みたいなのが飛んでったし」
「多分、呀雹槍よ」
フィーロの言葉ですぐに思い至った。さすがあたし。天才。にしても呀雹槍とか地味な魔術。しょっぱい連中ね。もっと派手に出来ないのかしら。
「呀雹槍か……あんなに連射出来るものか?」
「あたしは出来るわよ」
「正直、お前はあてにならない」
失礼なことを言うシスコン野朗だ。
「とにかく、レイジは斥候を頼む」
「あいよっ」
変態野朗の姿がぐらっと歪んだかと思うと、突然掻き消えた。シェリカの目では捉えられない。バカみたいに速かった。人間とはあんなに素早く動けるものなのか。自分がほんのちょっとだけ運動が苦手なので、驚いた。
ふと、気になることがあった。
「ねぇ、フィーロ」
「ん? なんだよ」
「フィーロは、今の見えるの?」
「今のって、レイジのか? ……まあ、全部はさすがに無理だわ。どっちに向かったかくらいだな」
「ふぅん」
きっと、フィーロは大したことじゃないと思っているんだろう。けれど、そんなことはない。あたしは知っている。フィーロは凄いんだってことを。あたしだけが知っている秘密だ。
学園の定めたレベルなんかに興味はない。レベルのせいでフィーロが嘗められているのは気に食わないけど。だからって、フィーロが注目されるのも嫌だ。
とにかく、フィーロは凄い。
身体だって丈夫だし。たぶん風邪とかほとんど引いたことないと思う。逆に、シェリカの方が、昔は風邪を引きがちだった。フィーロは何も言わず、いつも看病してくれていた。あの頃から優しかった。いつだってシェリカの側にいてくれた。
さすがに今は身体も少しは丈夫になったけど、それでもフィーロにはかなわない。魔術士として、大抵の奴には負ける気がしないけど、きっとフィーロにはかなわない。あの時からずっと感じている。
フィーロは……。
「シェリカ? おい、シェリカ」
「え、な、何?」
「なんか目の焦点おかしかったぞ。大丈夫か?」
「大丈夫。ちょっと考えごとしてたの」
「そうか。ならいいんだけど」
フィーロはそう言って立ち上がった。離れていく。急に寒くなってきた。寒い。嫌。寂しい。待って。行かないで。そばにいて。手を、伸ばした。
「ど、どうした……?」
服の裾を掴んでいた。
「え、あ、ごめん。何でもないわ……」
本当にどうかしている。少しだけ、昔のことを思い出したからだろうか。だとしたら、本当にらしくない。
「泣いてるのか?」
「ううん。目にゴミが入ったの」
「そうか。怪我してるならユーリに診てもらえよ?」
「あ、怪我されてるんですか?」
「ちっ……」
「えっ……」
忌々しい雌牛が近付いてきたが、舌打ちで追い払ってやった。こっちに来るな。お前はそこの猫耳変態女といちゃついてればいい。
だが後ろに伏兵がいた。しまった。
「………フィーロ。顔、拭いたげる」
「あ、クロア。スマン、ありがと」
この無口女、今勝ち誇った顔でこっちを見てきやがったんだけど。何? 殺していいの?
「そういや、今って何分経ってる?」
「………十分くらい」
「残り四十分か。案外、レイジ次第じゃねぇの、これは。どうすんだ、ガナッシュ」
「あいつは変態だが仕事はする奴だ。平気だろ」
「だな。ま、なんにせよ魔術で奇襲されたんだ。お返しするならこっちも魔術なんじゃねぇの」
「いけるか、シェリカ」
シスコン野朗め。何を間抜けなこと言っている。
聞かれるまでもない。
「当然じゃない」
本物の要素魔術を見せてやるわ。
◆Firo◆
なんつーか、面倒臭い。
ぶっちゃけ今からでも帰りたい。まあ、どだい無理なんだけどね。いやホント、ろくなことねぇわ。いきなり土塗れの泥まみれ。こりゃ洗濯大変だな。
とはいえ、このまま引き下がるのは癪だ。
俺が戦うのはごめんだ。もちろん帰りたい。でも、このままだと、嘗められたままだ。シェリカが。あの程度の魔術士に。それは腹立つ。
ということで、三ヶ月分くらいは働こう。
何年シェリカの側にいたと思ってる。おかげで要素魔術ってのがどういうものかくらいよくわかってる。呀雹槍? 知るか。あの程度のもの、魔術じゃない。
それはしっかりと教えてやらなければならない。
とはいえフィーロに出来ることは少ない。というか、ない。仕方ないから探す。これだっていう仕事を、自分なりにしっかりとやればいい。
「見つけたで! 進路は北東、距離は千!」
上からレイジの声がしたと同時に、軽やかに地面へと降り立った。こいつの重力関係どうなってんだろうな。つーかもう戻ってきたのか。
「移動が早いな」
「ほっからの移動はしとらんで」
それはつまり。
「やっぱヒットアンドアウェイ狙ってんだろ」
「それはわかるが」
「不用意に近付くとに同じ手を食うで、たぶん」
「んー……じゃあこったも少人数で奇襲するだけだろ。シェリカと、護衛とで」
「そうだな。一番それが手っ取り早い……が、失敗したらまずいことになるぞ」
「このあたしが失敗するわけないでしょ?」
「………自信過剰」クロアがぼそりと呟いた。
「なんですって!」
「まあまあ。……で、どうする?」
ここからはマスターであるガナッシュの判断だ。
信用してないわけじゃないんだ。別に。ガナッシュのことは。こういう奴なんだってことくらい、理解しているから。それに、今回は珍しく意見も一致していることだしな。
「フィーロ、シェリカを連れて奇襲を。レイジは案内しろ。……ボクたちは下から陽動だ」
「りょーかい。……そんじゃ、これ三ヶ月分の働きってことでよろしく」
「しばくぞ」
フィーロのやるべきことは簡潔だ。シェリカを敵の近くにまで連れていく。ヤバくなったら逃げる。それだけだ。
「あの、みんな」
「ユーリの発言よ。傾聴するのだわ」
ぱんぱんと、手を叩くモニカ。いや別に、言われなくても聞きますけども。
「フラッグは探さなくてもいいんですか……?」
「アンタ、ホントおめでたいわね」
ユーリの問いにシェリカは鼻で笑った。
「フラッグとかより、敵をまるまるぶっ潰したほうが早いからに決まってるじゃない!」
「ぶっつ……」
「ユーリ、気にしなくていいの。あれは野蛮な女。これ以上話すと野蛮が伝染るのだわ」
モニカがユーリの耳を塞いだ。
「誰が野蛮よ!」
「アンタ以外にいないのだわ」
おおむね同意だけども。今争わんでほしい。
「ぶっ潰す!」
「やめろシェリカ」
「むぐっ……」
フィーロは即座に魔術を唱えようとしたシェリカの口を右手で塞ぎ、左腕で羽交い絞めにして制止させた。右手は噛まれないようにすぐに放す。
「……っ、どこ触ってるのよフィーロ!」
放すと同時にシェリカが叫んだ。凄い剣幕だ。どことなく顔が赤い気がする。
「え? 何が?」
フィーロは素で聞き返した。いやだってわかんなかったしら。だけど、それが間違いだったのだ。シェリカが喚いた。
「フィーロのエッチ! スケベ!」
「はいぃ!?」
「腕!」
「UDE?」
ああ、腕。俺の腕が何。言われるがままに、自分の左腕を眺めた。そいつはちょうど、シェリカの胸の辺りに通っていた。
……胸?
ようやく理解したフィーロはぱっと手を放した。いや確かに、ちょっとした膨らみがあった気がしなくもないような。というか、これが正解なんだろう。唸りながらこちらを睨んでいる。
「悪い……」
「……エッチ」
「……すんません」
ジト目で睨んでくるシェリカ。つーか事故だ。故意じゃない。むしろ不本意だ。そもそも、突っ掛かろうとしたお前が悪い。何この理不尽。無性に腹が立って、つい、口走ってしまった。過去最大級のミスだ。
「……大した胸もないくせに」
「なっ……なんですってっ!?」
シェリカの目が怒りに燃えた。むしろ全身が燃えている。そんな感じの怒りの闘気がゆらゆらと揺れている。ヤバイ。ミスった。これは死ぬ。
「フィーロ〜……」
じりじりと近付くシェリカ。
怖い。怖いよ。祟り神様が来るよぉ……。
「ご、ごめん冗談ジョークむしろ嘘だから! 俺はシェリカくらいのほうが好きだって!」
「え……」
「胸は小さいほうが最高ォー!」
もうやけくそでした。
死に物狂いだったので、自分がなんて言ったか今一つ理解していなかったが、シェリカの動きは止まった。おお、鎮まりなされた。
いや、下を向いて震えている。これは何かの予兆か。世界が終わる的な。やだな。死にたくねぇよ。
「シェリカ……?」
「な、なにっ」
いきなり上げられた顔は真っ赤だった。
茹でだこのようだ。
「顔、赤いぞ……?」
「な、なななんでもないわよ! バカ!」
「でも」
「早く行けぇぇぇっ!」
スパンといい音がするくらいの力で、頭を叩かれた。ガナッシュだ。後頭部がひりひりする。「……痛いじゃないか」コブになったらどうするんだ。
「黙れ! いつまでバカみたいなやりとりをやってるんだ! 時間が惜しいだろ! 早く行け!」
「焦るなよ」
まったく。短気は損気だぞ?
懐中時計を見る。まだ三十分はある。悠長にしてはいられないけれど、焦るほどでもない。むしろ焦ればミスが生まれる。呑気にやるくらいでちょうどいい。
「シェリカ、行こう」
右手を差し出した。
「……ん。ちゃんと運んでよ」
「安心しろ」
シェリカの安全くらいは守る。
俺に出来ることは、それくらいだ。
シェリカはフィーロの差し出した手に掴まった。引き寄せて、抱き上げる。いわゆる、お姫さま抱っこと呼ばれるやつだね。ホント、軽いわ。あれだけ食べるのに、いったいどこに消えてるのだろうか。
「……よし。変態、頼むわ」
「変態ちゃうで。守備範囲が広いだけやで」
「その広さが変態的なんだよ」
身の危険を感じるくらいには変態だ。
「そんじゃ、ガナッシュ。行ってくる」
「ああ。とっとと行け」
素っ気ないな。別にいいけど。
くいくい、と裾を引っ張られた。クロアだ。
「どうした?」
「……わたしも胸は小さい」
「あ、えーと、うん。まあ、否定はしませんが」
それで、それが、何。
よくわからん。ただ、シェリカが勝ち誇った顔でクロアを見下ろしていた。静かに睨み合う。おたくら、なんでそんな無言で争うの。
ま、クロアの考えは推し量るのが難しいので、深く考えるのはよそう。二人から視線をそらし、泳がせていると、ぶつぶつと呟いていふユーリに目が留まった。
「……小さくなれ……小さくなれ小さくなれ小さくなれ……」
なんか危ない感じになっていた。触れない方がいい。本能的にそんなことを思った。とりあえずモニカが励ましていたし、任せよう。
「ほな、そろそろええか?」レイジが促す。
「ああ。いつでもいい」
「あいよ。ついて来ーや」
レイジが飛び上がった。
「シェリカ、舌噛むなよ」
フィーロも脚に力を込めて飛び上がった。「――ひゃぶっ! 痛い! 舌噛んだ!」という声が聞こえた気がしたが、無視した。
俺はちゃんと忠告したぞ。
◆◆†◆◆
レイジは慣れた様子で木々の太い枝をつたっていく。フィーロはそれに追随する形になっていた。レイジが本気を出せば置いていくことも可能だろう。今はそういう場合ではないので、減速してくれている。それでもレイジは速かった。
軽々と木をつたう様は、さすが盗賊学科というべきだが、あれが自身の趣味に費やさられているのだと思うともったいないどころの騒ぎではない。
途中でレイジが一瞬立ち止まって、周囲を伺う。手でサインを出してきた。クリア。このまま進むようだ。フィーロも黙ってついていく。
「……フィーロ」くいくいと袖が引っ張られた。
「なんだ?」
「あ、あたしって……その、お、重くない?」
「いや軽い」
軽すぎるくらいだ。つーか体重なんか気にするのな。そんなたまじゃないように思えるが。ま、腐っても女子ということですな。ちょっと安心したわ。
「そ、そう」
「変なこと言ってるとまた舌噛むぞ」
「……変じゃないもん」
「はい? なんて?」
小声で聞こえない。聞き返すと、「なんでもない」と言われた。ならなんでそんな不服そうなんだか。
「――フィーロ! 左や!」
突然、レイジが叫んだ。自分でもよく反応できたと思う。着地した枝をすぐさま蹴って、後退する。目の前を黒光りする何かが通り過ぎて、木に刺さった。
細身の黒い刀子のようなものだった。クナイか。盗賊学科や忍者学科みたいな輩が使う暗器の類。
「大したスピードだ。人を抱えているとは思えない」
声。男の声だ。姿は見えない。さすがと言うべきか。どこにいるかわからない。これは、敵の声にいちいち反応したら馬鹿を見る。
「しかも意外に冷静だな」
今度は右から聞こえた。移動しているのか。だけど音がない。気が抜けない。
首もとがムズ痒くなった。フィーロは木を蹴って飛び上がる。「ってぇ……」クナイが足を掠めた。タイミングがずれたか。こちらにはシェリカがいるのだ。いくらシェリカが軽いと言っても、自重だけで考えてはいけなかった。もう一段上の枝に乗る。折れそうだ。木は上に行くほど枝は細くなる。すぐにレイジの近くの太い枝に降り立った。
「ヤバいな。暗殺者学科やでこれは」
レイジがそう言うなら本当にヤバいのだろう。
「学科なんかどうでもいいけどな。どうするよ」
「ほな、オレがやるわ」
「ま、妥当だよな。じゃ、頼むわ」
この手の相手は俺よりレイジの方が適役だろうし。
「お礼はベッドの上でええで」
「ははは、黙れカス」
「そんなフィーロもいつかデレるって信じてんで」
「ねぇよ」
少なくともお前にデレることはない。
「ねぇ、フィーロあの変態燃やしていい?」
「いいけど、後でな」
「よくないで!?」
「じゃ、あとよろしく」
「それってジョークやんな? ロレンツ流のハードなジョークやんな? せやんな?」
「シェリカ、移動するぞ」
「うん」
「聞いて!?」
なんかレイジが喚いていたけれど、フィーロは無視することにした。
◆Reiji◆
「くだらないコントは終わりか?」
大体は予想していた。
あれだけ短時間でこちらの位置を特定されたということは、向こうにも斥候がいるはずだと。
そういう気配も多少感じていた。レイジは相手の気配でだいたい学科がわかる。盗賊には盗賊の、暗殺者には暗殺者の、忍者には忍者の気配がある。気配では少し語弊があるか。雰囲気と言うべきかもしれない。
そのレイジが持つ勘にも似たものは、未だ見えざる敵を暗殺者学科だと判断した。
暗殺者は嫌いだ。
奴らは光を呑む闇のような存在だ。
リムーバー。
暗殺者の蔑称だ。目的遂行のためにあらゆる呵責を捨て去る悪魔。レイジは奴らを心の底から嫌悪している。
「盗賊学科か」
「だとしたらなんや?」
「奇襲でもかけるつもりだったか」クスリと笑った気がした。「浅はかだな」
「さよか」
「経験の差というものを見せてやるよ」
――小さい。
ここは冒険者を目指す者の学校。ずぶの素人なんてほとんどいない。それを一年か二年先に入学しただけの奴が、何を偉そうに。
腕はそこそこのようだが、目は良くないらしい。
見誤るなよ、リムーバー。
経験ならある。
「おっさん、ショボいで」
「何?」
「大したことあらへんゆーてんねん。秒殺したるからかかってきぃや」
「そういう減らず口は……」
シュッという音と同時に、四方八方からクナイが飛んできた。焦りはない。レイジは飛び上がって回避した。
「――勝ってから言おうか一年生っ!」
目の前に敵は現れた。覆面をしている。悪趣味だ。これだからこの手の奴らは嫌いだ。正直なところ、タイプじゃない。それだけで殺すに値する。
目がにやりと笑っている。勝利を確信した笑みだ。手には短剣。鋭い刃は突き立てられれば即死。一撃で仕留める自信があるのだろう。
本当に愚かだ。
「なっ……」
敵の短剣は空を切った。
きっと霧を斬ったような感覚だったことだろう。それもそのはずで、敵が攻撃したのはレイジの残像だ。
「ゆーたやろ」本物のレイジは背後にいた。「おっさん、弱いって」
レイジは敵の背中に手をあてがう。身体に流れる力を掌底に込め、解き放つ。かつて師と仰いだ腐った糞よりも腐った男に学んだ気功術――乱雅天掌八象打"坤"。
「かっ……」
身体の心から破壊される衝撃を味わったであろう。だが相手は曲がりなりにも暗殺者だ。身体を反転させ、クナイを投擲してきた。狙いは定まっておらず、レイジの髪を何本か持っていっただけだった。
油断するからこうなるんや、バカタレ。
うるせぇ。わかっとるわ。黙っとれ。
止めはしっかりと刺す。
自由落下を始めようとする男の背中を一気に蹴りつけ、地面に叩きつけた。「がっ……」呻きを漏らす。死ぬことはないだろうが、肋骨の二本三本は軽く逝っただろう。レイジは蹴った反動で飛び上がり、木の枝に着地した。そして土煙が立ち込める中、倒れ伏した男を見下ろしながら、小さく呟いた。
「オレは最速の男や。ジブンごときに捕まえられるほど甘ぁないで」
そう言って、フィーロたちの向かった方角を見た。もう男に興味はない。先行した仲間の下に行かなくては。少々ロスしたが、走れば十分間に合うだろう。
「久々に飛ばそかな」
レイジがぼそっと呟いた次の瞬間には、その姿はそこにはなかった。