08
侯爵邸のパーティーから戻ってくると、エーリッヒとの関係はさらに悪くなっていた。
ルドルフ王太子殿下とアネッサ公爵令嬢が二人揃っているところへ挨拶できる機会は滅多にない。
それなのに、折角のチャンスを台無しにしてしまったのだ。
王族が出席する社交場では、特別な理由がない限り彼らの前で魔法を使ってはいけない決まりになっている。
如何に、彼らが無効化の能力を持っていたとしても。謀反や暗殺を警戒してのことだ。
それなのに、自身に掛けていた魔法をすっかり忘れ、エーリッヒの邪魔をしてしまった。
それでなくても皆から「お荷物婚約者」と呼ばれているのに。
エーリッヒには「無能な婚約者を持つと私の価値まで下がる。これ以上、私の足を引っ張らないでくれ」と冷たい言葉を浴びせられ、ヘルミーナは自己嫌悪に陥った。
ヘルミーナは、一族の英雄となったエーリッヒを誇らしく思っていた。
だから、いずれエーリッヒの妻となる自分が彼を傍で支えていくため、彼の望むまま、求められるままに従ってきた。
エーリッヒを自分の元に留めておく方法が他になかったから。
でも、もう分からなくなってしまった。
真っ暗な井戸の中に突き落とされて、光の差し込む天に向かって手を伸ばしても抜け出すことはできない。
誰か、と泣き叫んでも気づいてくれる人はいない。
皆はエーリッヒに同情して、ヘルミーナに振り返ってくれる人は一人もいなかった。
あのパーティーから五日ほど経った頃。
ヘルミーナは原因不明の呼吸困難を起こし、ベッドから起き上がることができなくなっていた。
主治医から心の病からくるものだと説明され、余計情けなくなった。
幸いなことに両親と弟妹はヘルミーナを心配してくれた。
だが、優しくされればされるほど、申し訳なさが先に出てしまう。
自分の評判のせいで家族にまで迷惑をかけていた。今だけは家族の顔を見るのも苦痛になっていた。
そんな時、一通の招待状がヘルミーナの元に届いた。
またエーリッヒと一緒に参加しなければいけないものだろうか、と身を固くすると、封蝋の紋章を見るや否やヘルミーナは手紙を落としそうになった。
赤い封蝋に刻まれた紋章はレイブロン公爵家のものだった。
ヘルミーナはすぐにアネッサ公爵令嬢の顔を思い出した。
もしかしたら、あの日王太子殿下の前で魔法を解かずに挨拶したことが、彼女の逆鱗に触れてしまったのかもしれない。
ヘルミーナは震える指で封筒を開くと、手紙の送り主はやはりアネッサだった。
そして彼女は、明後日のお茶会にヘルミーナを招待したいと書いてきたのだ。
これが仲の良い友達だったら大いに喜んだだろう。
けれど、社交界で流れる噂や、「君以外信用できないから、誰とも仲良くしないでくれ」というエーリッヒの命令で、ヘルミーナは多くの友達を失っていた。
だからお茶会に招待してくれる友達はいなかった。
ヘルミーナは読み終わった手紙をシーツの上に置き、自身は崩れ落ちるように倒れた。
これが、まともなお茶会の筈がない。
もしかしたら、公爵令嬢自らエーリッヒとヘルミーナの婚約を破棄するよう圧力を掛けてくるかもしれない。
次期王太子妃の彼女にとって、王国の剣であるレイブロン一族がより力を持つことを望んでいるだろうから。
それ以外に考えられるのは、他に招待した令嬢たちと一緒にヘルミーナを辱め、集団で虐めることだ。
どちらにしろヘルミーナにとって気分の悪くなる話だ。しかし、公爵令嬢からの誘いを断ることはできない。
考えれば考えるほど吐き気がして、ヘルミーナは体を丸めて震えた。
逃げ出したい……。
どこか遠くへ。誰も自分を知らない場所に。
『君、具合悪そうだけど大丈夫かい?』
絶望の淵に立たされた時、聞こえてきたのは名前も知らない青年の優しい声だ。
パーティーや舞踏会の席で、声を掛けてもらったのは初めてだった。
それも自分を心配してくれる人なんて。
青年はヘルミーナの話を知らないのだろうか。それとも知っていて声を掛けてきたのだろうか。
見た目が炎のような青年。覚えているのはそれだけだ。
ただ彼の、本気で心配してくれる声を思い出すと気分が和らいできた。
もし、また出会える機会があったら今度は名前だけでも教えてもらおう、とヘルミーナは静かに目を閉じた。