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布などで目張りされた薄暗い小屋の中──そこに、五人の人間が横たわっていた。体臭と汚物の臭いが充満した室内に、吐き気が込み上げる。ヘルミーナは足を踏み入れることが出来ず、小屋から離れて近くの草むらで嘔吐した。
……アレは何だったのか。
彼らが人間の形をしていなければ、全員がただの黒い塊にしか見えなかっただろう。焼け焦げた皮膚とは違い、肌が黒く変色して瘴気を纏っていたのだ。……魔物のように。
とても直視出来る光景ではなかった。
「ヘルミーナ様、大丈夫ですか?」
「……メアリ」
嘔吐を繰り返すヘルミーナに、メアリが背中を優しく擦ってくれた。けれど、彼女の手もまた小刻みに震えていた。
初めて目にする異様な光景に、自分のことしか考えられなくなっていたようだ。ヘルミーナは差し出された水筒で口をゆすぎ、ハンカチで口元を押さえ、メアリに支えられながら立ち上がった。
一方、カイザーたちは取り押さえた男たちに特殊な手枷をはめていた。魔法を無効化する魔法石のついた魔道具のようだ。魔物には使えないが、魔法を使う人間にはこれ以上の拘束道具はない。
「ここで何をしていた? 小屋の人たちはどうした?」
仁王立ちになって立ちはだかるカイザーに、二人の男たちは尻込みした。
どちらも兵士の格好をしている。その内の一人は、ニキア村の石橋でヘルミーナたちの荷台を確認した者だ。
「俺たちは知らない……っ! 何も知らないんだ!」
「嘘をつくな! ここにいるのは失踪したケーズ村の人たちだろ!?」
パウロともう一人の騎士が、正直に答えない男たちを地面に押し付けた。
うめき声を漏らした男の一人が王国の騎士に恐れをなし、ほぼ叫ぶように答えた。
「勘弁してくれ、仕方なかったんだっ! こうでもしなきゃ、俺たちの村から犠牲者が出ていた!」
「……それで領地の違う村から人を攫ってきたのか?」
刹那、風の流れが変わった。周囲がサァー……と静まり返る中、カイザーの足元にあった落ち葉が弾け飛ぶ。彼の殺気に背筋が凍りついた。本気で怒っているのが分かった。
男たちは青褪め、カイザーの殺気に耐えきれずそのまま失神してしまった。パウロたちは嘆息して男たちから手を放した。
「カイザー副団長、あれは……」
「ああ、間違いない。──『魔喰い』だ」
パウロがカイザーに近づき、二人は開かれた小屋のドアに視線を向けた。
離れたところから見守っていたヘルミーナは、口元にあてたハンカチをぎゅっと握りしめた。
『魔喰い』──それは魔物の存在を学んでいく上で、必ず耳にする言葉だ。
上位種の魔物の中には、人間の魔力を喰らう者がいる。魔力を奪われた人間は黒い瘴気の毒に侵され、体内を蝕まれていく。毒の進行は人それぞれだが、飢えも渇きも感じることなく、やがて死よりも悲惨な結末を迎える。
人間だった頃の記憶を失い、黒い瘴気に覆われた魔物と化すのだ。
人から人へ感染することはないが、魔物となることが分かっている以上一緒にいることは出来ない。最後は愛する人の顔も忘れて、自らの手にかけてしまうかもしれないのだから。
だから『魔喰い』に遭った者は、遅かれ早かれ人間でいる内に死を選ぶ。病気と違い、進行を遅らせることも治すことも出来ない。不治の病より厄介な症状だった。
カイザーはやるせない様子で髪を掻き回し、大きな深呼吸をしてから口を開いた。
「あの母親が言っていた化け物というのが気がかりだ。上位の魔物が山に住み着いている可能性がある。パウロたちは一旦第二騎士団に戻り、報告と応援を要請してくれ。男を追いかけて行ったランスも心配だ。無茶をしてなければ良いが……」
「承知しました。あの、カイザー副団長……小屋の者たちは」
「騎士団の決まりに従うだけだ」
パウロが遠慮がちに訊ねると、カイザーはその表情に影を落としながらもはっきり口にした。すると、パウロたちはそれ以上何も言えず、命じられた通り第二騎士団の元へと急いだ。
小屋の前には気絶した二人の男と、カイザーとヘルミーナとメアリが残された。
「……小屋の近くは危険だから、離れていてほしい」
近くまでやって来たカイザーは、ヘルミーナたちに傍から離れるように言ってきた。その声には覇気がない。いつもとは違う様子に、ヘルミーナは不安になった。
それでもメアリに促され、小屋から距離を取る。
と、開かれたドアに向かって両手を突き出したカイザーは、巨大な火の塊を作り出した。
それが何を意味するのか、ヘルミーナは悟った。
彼が小屋にいる五人に死を与えるのだと。
魔物になる前に殺さなければいけないのが、騎士の規定によって決まっているのだろう。まだ自我が残っていれば、それは間違いなく「人」であるはずなのに。
王国の騎士はこれまでに、どれほどの苦悩と苦痛を背負ってきたのだろう。
仲間を失う悲しみや悔しさ以外にも。
背中ではためく騎士団の紋章に、どれほどの思いが閉じ込められてきたのだろう。
泣くことも許されず、弱音を吐くことも出来ず、ただ民を守るために戦い続ける彼らに、自分は騎士の何を見てきたのか。
そう思ったらじっとしていることが出来ず、ヘルミーナは走り出していた。
「待って下さいっ、カイザー様!」
小屋ごと燃やし尽くそうとするカイザーに、ヘルミーナは目を真っ赤にしながら叫んでいた。
心優しい彼だからこそ、罪なき人を殺すことに多くの葛藤があったはずだ。それだけに、カイザーが、他の騎士たちが、これ以上苦しみに苛まれるのを黙って見過ごすことは出来ない。
「彼らはまだ魔物ではありません……っ! ですから、どうか……お願いです! 私に治癒を、神聖魔法を使わせて下さい──!」




