07
レイブロン公爵家の邸宅は赤いレンガが特徴的で、左右対称に造られた芸術的な屋敷だ。
飾られた美術品、装飾品は先程までいた侯爵邸の比ではない。だが、どれほど素晴らしい作品であっても、身近で長いこと生活していれば今更気にも留めないだろう。
今、一人の女性がそれらの前を颯爽と駆け、目的の部屋に到着するなり扉を叩いて返事も待たずに中へ飛び込んだ。
「お兄様、ついに見つけましたわっ!」
息を切らしながら部屋に駆け込んできたのは、真っ赤な髪に真っ赤な眼をしたレイブロン公爵家の長女、アネッサだ。
彼女は王太子の婚約者として、いつも社交界の花らしく振る舞っていたが家族の前ではかなり違っていた。
アネッサは侯爵家のパーティーから戻ってくるなり、着飾ったドレスや宝石を身に着けたまま兄の元へ走ってきたようだ。
「いきなり飛び込んできて驚くじゃないか」
「そんなことより、見つけましたの!」
「……アネッサ、人の話はきちんと聞くものだよ」
アネッサの兄は橙色の目を細め、聞く耳を持たない妹に溜め息をついた。
そんな彼の前には、三本の高級な剣が並んでいた。また新しい剣でも買ってきたのだろう。以前購入した剣は早速壊れてしまったのかもしれない。
彼はカイザー・フォン・レイブロン、レイブロン公爵家の長男だ。
王国騎士団の団長を務める父親の元、自らも王国を守る騎士となって現在は第一騎士団の副団長だ。
レイブロン一族らしく火魔法を得意とし、魔法石のついた剣を扱って魔物を焼き払うのだが、魔力が強すぎてカイザーの手によって壊れた剣は百本以上に達するという話だ。
そんな彼は普段、仕事人間のため屋敷にいることは滅多にないが、今日だけは公爵家の跡取りとして所用があった。
「それで、何が見つかったんだい?」
「私のお義姉様になられる方ですわ!」
「…………」
ソファーに座っても興奮気味に話してくる妹に反省の色はなく、カイザーは嘆息しつつ訊ねた。
すると、アネッサの答えは想像の斜め上をいっていた。
「それは……父上が養女を迎えるという話だろうか?」
「何をおっしゃってますの? お兄様の結婚相手に決まっているじゃないですか」
「どうしてアネッサが勝手に私の結婚相手を決めてしまうんだい」
「だってお兄様は、女性と手を繋ぐこともできないほど奥手じゃありませんか。図体ばかり大きくても、それでは話になりませんわ。これでも私、とても心配しておりますのよ」
カイザーは痛いところを突かれ、すぐには言い返せなかった。
全くもってその通りだからだ。
公爵家の長男として結婚していてもおかしくない年齢だが、婚約者すらいなかった。
正確には、婚約者に逃げられたのだ。
それも女性と二人きりになるとまともに話せなくなる奥手な性格が災いして。
騎士の癖に、男らしくない! と怒鳴られ、婚約が破棄になったのは随分前のことだ。以来、カイザーは女性と関わることが苦手になってしまった。
けれど、いつまでも独り身でいるわけにはいかない。公爵家の跡取りとして、逃れられない義務がある。
「……アネッサが気にする必要はない。私の結婚相手は父上と母上に任せている」
「そうやってお逃げになって! 私知ってますのよ。お母様が連れてきた女性を紹介された時、お兄様が相手の顔色ばかり窺って気分を悪くさせてしまったこと」
どうして傷ついた兄に、火炎をねじ込むようなことを言ってくれるのか。
彼女に「労る」という言葉はないのか。
我が妹ながら、気が強すぎて王宮に入っても大丈夫だろうかと心配になる。
「お父様がおっしゃるには、お兄様にはすでに心に決めた相手がいらっしゃるんじゃないかと」
「────」
「ですが、その相手とお兄様が結ばれるのを待っていたら、私の方がお婆さんになってしまいそうですわ」
「……口が過ぎる」
「今日だってお兄様も侯爵家のパーティーに出席していたはずなのに、一人でさっさと帰られてしまって。あの場にいらしたら彼女と引き合わせましたのに」
王太子のルドルフまで出席するパーティーに、公爵家の後継者としても出席しないわけにはいかなかった。だが、渋々行った侯爵家のパーティーで、カイザーは挨拶もそこそこに帰ってきてしまった。
ただ、カイザーにとって今日のパーティーは悪くなかった。
会いたいと思っていた相手に、偶然会うことができたのだから。それに奥手な自分が、声をかけることも出来た。
名前までは聞けなかったけれど。
「いいんだ、今日は……」
「あれほど透き通った水を魔法で出せるなんて素晴らしかったわ」
一人満足していると、思いがけない言葉がアネッサの口から飛び出した。
カイザーは思わず立ち上がり、妹を凝視した。
「なんだって? アネッサも彼女の水魔法を見たのかい!? それで彼女は……」
「え、ええ、そうですわ。やはり社交界に疎いお兄様でも彼女の存在を知っていましたの? まあ、彼女はある意味有名ですものね」
社交界を賑わせている水属性の英雄、エーリッヒの「お荷物婚約者」として。
きちんと顔を見て挨拶をしたのは今日が初めてだったが、噂通りエーリッヒの婚約者であるヘルミーナは平凡な女性だった。
ドレスも伯爵令嬢とは思えないほど地味で、化粧もろくにせず、全く自身の魅力を引き出せていなかった。加えて、ずっと俯いているだけの弱々しい女性で、周囲から標的にされるのも頷ける。
アネッサは最初どちらにも惹かれなかった。
──彼女の弾けた水魔法を目にするまでは。
それは隣にいたルドルフも同じだったようだ。その後、ヘルミーナについて、根掘り葉掘り訊かれて大変だった。
しかし、カイザーのヘルミーナに対する認識は、アネッサたちとは違っていたようだ。
彼は立ち上がったまま拳を握り締めると、天井を仰いで喋り出した。
「彼女は、人気者だったのかい? ──いや、確かに彼女は空気に溶け込んでしまいそうなほど美しい水色の髪をしていて、瞳も光が差し込んだ水面のように輝いていて、あの素朴な顔立ちも愛らしく、何よりお淑やかで慎ましい女性だ! あの儚さは一体どこからくるのか! それに、あれほど透明にできる水の魔法も素晴らしい! きっと並ならぬ努力をしたに違いない! ああ、遠くからでもいいから、今一度彼女を見ることができたなら──」
息継ぎなしの台詞に、聞いている方が息苦しくなってくる。
アネッサは両手を持ち上げて「落ち着いてくださいませ、お兄様!」と、無理やり兄を止めた。
「まさか、お兄様がずっと想いを寄せていた女性は、ヘルミーナ・テイト様でしたの!?」
「ヘルミーナ嬢と言うのか、名前まで美しいのだな!」
今までとは違う食いつきように、アネッサは顔を引き攣らせた。
それまで女性に対して苦手意識を持っていたカイザーは、ある日王宮の舞踏会で護衛の任務に当たっている最中、会場の隅で一人佇む女性を見かけた。
また別の日も、彼女は他の令嬢と喋ることもなく、一回か二回のダンスを終えると、逃げ込むようにして人目のつかないホールの端にやって来るようになった。
そうして任務の間、彼女を見守っている内に妙な親近感を覚えるようになっていた。
声を掛けることは出来なくても会場の隅を共有している者同士、彼女が姿を見せると嬉しくなった。
けれど、彼女はいつも浮かない顔をしていた。
悲しみで今にも目から涙が零れ落ちそうになっていて、胸が苦しくなった。
慰めてあげたかった。
手を伸ばして、涙を拭ってあげたかった。
女性に話し掛けられない自分が何を言っているんだ、と思ったが。
今日のパーティーで偶然、一人になっている彼女を見つけた。中庭のベンチに座って、やはり今にも泣き出しそうな顔をしていた。
カイザーは思い切って彼女に声を掛けた。
『君、具合悪そうだけど大丈夫かい?』
彼女と交わした会話は短かったが、カイザーには十分すぎた。胸に一生刻んでおきたいぐらいの時間だった。
そう思いに浸っていると、アネッサは手を振ってカイザーを現実に引き戻した。
一体、兄はどうしてしまったというのか。
これではまるで、恋する乙女のようだ。
しかし、カイザーは肝心のヘルミーナに関して何も知らないようだった。
もし知ってしまったらどうなるだろう。
兄の反応を見るのは正直怖かったが、カイザーこそ重要な協力者になるのだから言わないわけにはいかなかった。
「あの、お兄様……怒らずに聞いていただきたいのですが。その、ヘルミーナ様が社交界で何と言われているか」
「……急にどうした。いや、彼女のことなら聞こう」
ヘルミーナの話になった途端、カイザーはソファーに座り直して「遠慮せずに話してくれ」と言ってきた。
不安はあったが、アネッサは意を決して全てを話した。
それはそれは、丁寧に。包み隠さず。
しかし話している最中にも関わらず、カイザーはいきなりテーブルに並んだ剣の一本を手にした。
アネッサは後に「本気で怒るお兄様は魔王より恐ろしかったですわ」と語っている。
カイザーはこの日、公爵邸の部屋を三つほど吹き飛ばし、父親から修理費の支払いを命じられ、一週間の謹慎処分を言い渡された。