61
いくつにも重なった防壁越しに実践訓練を見守っていたヘルミーナは、三頭の魔狼牙に襲われそうになるランスを見て悲鳴を上げそうになった。
ランスは寸でのところでカイザーに救われ、事なきを得た。
ヘルミーナは自分の呼吸が止まっていたことにも気づかずホッと息を吐く。組んでいた両手は握り締めすぎて白くなっていた。
「平気かしら?」
「ぜ、ぜんぜん……っ、大丈夫、です……っ」
隣のアネッサが心配して声を掛けてくれたが──全然、大丈夫ではなかった。
目の前で知り合いが、仲間が怪我を負うかもしれない。最悪、殺されるかもしれないのだ。そんな状況の中で、平気でいられるはずがなかった。何も知らない貴族令嬢だったらとっくに気絶していただろう。
魔物への恐怖はあるものの、それ以上に誰かが傷つく姿は見たくなかった。
けれど、彼らにはこの光景が普通で、当たり前なのだ。王国騎士団は常に死と隣り合わせの状況下で、魔物の脅威から民を救ってくれている。それがより鮮明に見えてきた。
「──どうやら間に合ったようですね」
騎士団の置かれた立場に恐れを感じていると、後ろから聞き覚えのある声が聞こえて振り返った。すると、一部だけ切り取ったように開いた防壁から、モリスが入ってきた。
「モリス先生!」
「私のことはお気になさらず、どうぞそのままで」
軽く片手を持ち上げたモリスは、アネッサやマティアスにも目礼で済ませ、ヘルミーナの近くにやって来た。
「……こちらへお座り下さい、宰相殿」
「マティアス卿のお気遣いに感謝致します」
マティアスはヘルミーナの傍から離れ、空いている席をモリスに譲った。
一瞬、彼らの視線が重なるもマティアスはすぐに顔を背けて防壁を強化した。一方、ヘルミーナに断りを入れてから隣に座ったモリスは妙に楽しげだった。
「こういう時に限って急な会議が入ってしまって。ルドルフ殿下の剣はいかがでしょうか?」
「はい、遠目から見ても魔物は剣を避けているように見えます」
「やはり魔物には光属性の魔法が最も効果的ですね。子供でも倒せる魔物でしたら、剣を抜いただけでも消滅してしまうようですよ」
「それは良かったです……。ただ魔法のように遠くへ飛ばせるわけではないので、魔物に近づくしかありません」
「ええ、そういう意味では接近戦向きということでしょう。──ですが、今の殿下にとってあの剣が唯一の武器であり、希望なのです」
モリスが演練場に視線を向けるのを見て、ヘルミーナもつられるようにして顔を向けた。その時、一人の騎士が魔狼牙に向かって水魔法を放ち、一ヶ所に集まっていた騎士達が動き出した。
ランスを先頭に多くの騎士が二頭の魔狼牙を取り囲むように仕掛ける。彼らは先程とは違い、苦戦する様子もなく圧倒的な実力の差で魔狼牙を追い詰めていった。
それから遅れることすぐ、カイザーとルドルフも二頭から離れた尻尾の長い魔狼牙を追い掛けていく。モリスが横で「彼がボスのようですね」と呟くのが聞こえた。
「お兄様、ルド……!」
カイザーが攻撃を仕掛けた後に、ルドルフがその背後から飛び出して魔狼牙を斬りつけた。しかし、予想以上に素早い魔狼牙はルドルフの剣をかわし、また一定の距離を取った。
見ていたアネッサは思わず声を漏らし、ヘルミーナも爪が食い込むほど手を握り締めていた。
「仕留め損ないましたが、剣の効果はあったようです」
「本当ですか!?」
ルドルフの剣から逃れた魔狼牙に落胆するも、マティアスが鋭い観察眼で状況を教えてくれた。ヘルミーナの目には分からなかったが、マティアスの言葉で心が軽くなった。加えて、ランス達が二頭の魔狼牙を消滅させた。怪我をした様子もなく、無事だった彼らに安堵の息が漏れる。
しかし、追い詰められた最後の魔狼牙が突然、空に向かって吠え始めた。──と、魔狼牙の毛色や体つきが変化していくのが見えた。
嫌な感じがした。案の定、演練場の空気がピリッと張り詰めた。
「……異端種ですね」
「待って下さい! それは先日の事故で暴れていた魔物と同じではありませんか!?」
「仰る通りです、ヘルミーナ様。異端種の魔物は数こそ少ないですが、覚醒すると上級クラスの魔物にもなるものもいます」
「そんな……っ、すぐに助けに行かなくては……!」
覚醒した魔物に眉根を寄せるモリスの横で、マティアスは防壁を張ったまま落ち着いた口調で言ってきた。騒いでいたのはヘルミーナだけだ。
騎士団で多くの怪我人を出すことになった魔物の暴走。その魔物は特別な力を持った異端種だった。実際、その時の魔物を見ていなかったヘルミーナは、カイザー達が戦う魔狼牙が同じものだと思ってしまったのだ。だが、覚醒にも個体差があるのを後になって知ることになる。
一人慌てるヘルミーナに、隣に座っていたアネッサが声を掛けてきた。
「大丈夫よ、ヘルミーナ。お兄様だっていらっしゃるし、ルドルフ殿下だってこのままでは終わらないから安心して」
「アネッサ様……」
感情を露わにするヘルミーナと違って、アネッサは高貴な貴族令嬢らしく抑制した声で宥めてくれた。アネッサこそ落ち着いてはいられないはずなのに、ヘルミーナは開きかけた口を閉じた。
「取り乱して申し訳ありません」
「気にしてないわ。でも、悪いと思うならわたくしの手を握っていてくれないかしら?」
そう言ってアネッサは白い手を差し出してきた。その指先が僅かに震えている。
ヘルミーナは我に返ったようにアネッサの手を掴んでいた。先程まで自分の方が不安だったのに、今はアネッサを励まさなければいけないと思った。
「皆さん、きっと大丈夫です」
「ええ、そうね」
ヘルミーナが強くアネッサの手を握り締めると、アネッサもまたヘルミーナの手を握り返してきた。
そんな二人の気持ちが通じたのかどうかは分からない。けれど、覚醒する魔狼牙を前にしてもカイザーとルドルフは全く怯んでなかった。
彼らは再び剣を握り直して、一回り大きくなった魔狼牙に向かって行った。カイザーの剣が幾度となく魔狼牙とぶつかり、その度に弾き飛ばされる。それでも確実に魔狼牙を演練場の端に追い詰めていた。
きっと誰もが息を呑んで見つめていただろう。カイザーが魔狼牙の前に先回りして、剣を下から上に振り上げた。すると、炎の渦が魔狼牙に走っていく。その更に先には魔狼牙を追い掛けてきたルドルフの姿があった。
ヘルミーナの握るアネッサの手に力が入った。危ない、と目を背けてしまいそうになったが、ルドルフはカイザーの放った火を物ともせずそのまま突っ込んできた。
それから先は時間がゆっくり流れていくようだった。
火の中から現れたルドルフが、魔狼牙に向かって光る刃を振り下ろして首を斬り落とした。一瞬の出来事だったにも関わらず、その光景はヘルミーナの目にもしっかり焼き付いた。
──王族が魔物を倒した。
非公式の実践訓練とはいえ、エルメイト王国史上初めての出来事だった。
「歴史の動く瞬間に立ち会えて、万感の思いです」
見守っていた全員が言葉を失っている中、モリスだけは唇を震わせて目頭を押さえた。王国を知り尽くした優秀な宰相が言うのだから、そうなのだろう。
歴史が動いた。その中心となった人物は、白金髪を靡かせたまま呆然と立ち尽くしていた。魔狼牙を倒した剣を両手に握り締め、肩が上下に動いているのだけが分かった。
足元に転がっていた魔狼牙が消滅すると、演練場を覆っていた防壁も解除されていった。すると、静まり返っていた演練場に大きな歓声が湧いた。
「──ルドっ!」
カイザーに抱きつかれ髪をぐちゃぐちゃにされたルドルフは、嬉しそうに笑いながらこちらに近づいてきた。
ヘルミーナの手を離したアネッサは、見学席の階段を下りて駆け出していた。他の騎士達もルドルフの元へ集まってくる。ヘルミーナもまたモリス達と演練場に下りていった。
騎士達に取り囲まれるルドルフの元にアネッサが走っていき、彼の胸元に飛び込んでいくのが見えた。
お互いの手を握り合っていたヘルミーナには、アネッサの気持ちが良く分かった。いくら平静を装っても不安や恐怖までは拭い切れない。アネッサを両腕でしっかり抱き締めるルドルフの表情にもまた、安堵の色が浮かんでいた。
歓喜に湧く彼らを少し離れたところから見守っていたヘルミーナは、しかしモリスから「行かなくても宜しいんですか?」と訊かれて首を振った。
「いいえ、私は……。見学していただけですので」
「あのような剣をお作りになったのに?」
「魔物を倒したのはルドルフ殿下の剣術が優れていたからです。……本当に、倒せて良かったです」
目の前でわいわいと騒ぎ合う光景に、羨ましくないと言ったら嘘になる。でも、あの輪に入っていく勇気はなかった。一人、一人とは話せても大勢のいる場所へ飛び込む気持ちにはなれない。社交界でもそうやって壁の花になって過ごしてきたのだ。
でも、社交界と違って心は晴れやかだ。自分も彼らの一員になれている気がして自然と頬が緩んだ。
その時、ルドルフ達を取り囲んでいた人集りが突然左右に分かれ、ヘルミーナに向かって一本の道が作られた。すると、アネッサを連れたルドルフがこちらに向かって歩いてきた。突然のことに驚いて後ろへ下がると、マティアスとぶつかってしまった。
「ヘルミーナ嬢、今いいだろうか?」
「え?」
退路を絶たれてしまったヘルミーナは他の逃げ道を探そうとするが、ルドルフに集まっていた視線が一斉に向けられて動けなくなってしまった。
これは何の嫌がらせだろうか。指先まで冷たくなっていくのを感じながら、ヘルミーナは魔物を倒してきたルドルフを出迎えた。
「今日は非公式の場だから安心して聞いてほしい」
「は、はい……」
つまり公の場では言えないことなのだろう。ヘルミーナの存在自体まだ秘密にされているため、光属性に関することだろうか。そう思った瞬間、ルドルフはアネッサをその場に残し、ヘルミーナの前までやって来た。
そして腰に差していた剣を抜き取ると、剣を地面に突き刺し、いきなり地面に片膝をついたのだ。
王族が、それも王太子という立場の者が国王以外の人間の前で跪くなどあってはならない。ヘルミーナは驚きのあまりひゅっと息を吸い込んだ。
それなのに、ルドルフは光を帯びたロングソード越しにヘルミーナを見つめながら口を開いた。
「ヘルミーナ嬢、貴女のおかげで魔物一匹倒せなかった王族の私が、魔物と戦える力を手に入れた。この剣があれば愛する人を、友を、そして大切な民を守ることが出来る。何より弟の夢を叶えてやれる。……無力な己を嘆くのは今日までにしよう。そして、我々を導いてくれた貴女に恥じない未来の王になることを──ルドルフ・ディゴ・エルメイトの名にかけて、ここに誓う」
歴史に記されることのない記録だとしても、未来の国王となる王太子が誓いを立てるなどあり得ない話だ。けれど、周囲を見ても彼らに驚いた様子はない。宰相であるモリスも、ルドルフの婚約者であるアネッサも、それからレイブロン公爵を始めとする騎士達も、誰もルドルフの行動を止めようとする者はいなかった。それどころか納得しているように見えたのは勘違いだろうか。
ヘルミーナは唾も飲み込めないほどカラカラに渇いた喉に息苦しくなった。立っているのも不思議なぐらいだ。
でも、真っ直ぐな黄金の瞳で見つめてくるルドルフから目を背けることは出来なかった。もう後ろに下がれないなら、前を向くしかない。ヘルミーナはルドルフに一歩近づき、ルドルフの握り締めるロングソードの柄頭に右手を置いた。
「──ルドルフ王太子殿下の誓い、この私ヘルミーナ・テイトが聞き入れました。光の神エルネス様の祝福がありますように」
ヘルミーナが触れた途端、柄頭に取り付けた魔法石が光り出して、ルドルフの誓いが光の神エルネスまで届いたようだった。
その神々しい光景に最初は息を呑んで見守っていた者たちも、どこからともなく聞こえてきた拍手に次の拍手が重なり、やがて先程より大きな歓声が広がっていた。
ルドルフが手にしている剣は後に「光の聖剣」と呼ばれるようになり、エルメイト王室の宝剣として代々受け継がれていくことになっていく。ただ、剣の入手については秘匿とされ、永遠に語られることはなかった。
★ ★
心臓に悪い──と、ルドルフの誓いを聞き入れてからすぐ、ヘルミーナは足早に自身が生活する宮殿へ戻ってきた。演練場までと思っていた護衛は、引き続きマティアスが担当してくれている。
「ルドルフ殿下の剣はヘルミーナ様が贈られたのですか?」
じっとしているのも落ち着かず中庭に出て、鮮やかな花の咲いた花壇を眺めながら歩いていた。
「はい。剣そのものはレイブロン公爵様から頂いた物ですが、魔法石は私が加工しました。団長様が身につけていたペンダントのおかげで光属性の魔力も魔法石に流し込めることが分かり、とても感謝しています。ですがペンダントのことは誰にも言わずにいたため、自分の功績のような扱いになってしまい、団長様には申し訳なく……」
「いいえ、私は気にしておりません。ヘルミーナ様のお役に立つことが出来て嬉しく思います」
ふと足を止めると、花の香りがより強く漂ってきた。神聖魔法を浴びた花壇の花は見頃を過ぎても枯れずに咲き残っていた。
ヘルミーナが振り返ると、後ろからついてきたマティアスも同時に立ち止まって二人の視線が重なった。
「ありがとうございます。ですが、お礼はさせて頂きたいです。私が出来る範囲になってしまうのですが……」
「それでしたら、名前を呼んでいただけませんか?」
「……名前、ですか?」
「団長ではなく、私のこともマティアスと呼んでいただきたいのです」
宝石のように美しい緑色の双眸に見つめられると落ち着かなくなる。風の民は全てを見通せる目を持っていると言われているが、それだけ洞察力にも優れているのかもしれない。
そんなことで良いのかという表情も読み取られてしまったのか、マティアスはもう一度「名前でお呼び下さい」と言ってきた。断る理由もなかったヘルミーナは頷いた後、顔を上げてマティアスを見た。
「分かりました──マティアス様」
今までヘルミーナの知る団長はマティアスしかいなかったが、騎士団に出入りするようになって団長の肩書を持つ騎士は他にもいる。とくに今日の実践訓練では各部隊の団長が揃っていたと聞かされた。そんな所で「団長様」と呼べば、マティアス以外の団長までもが振り向いてしまうことになる。
だからだろう。名前で呼んだ方が問題も起きない。そう一人納得するヘルミーナに、けれどマティアスは突然口元を押さえた。
「是非、そちらでお願いします……」
名前を呼んだだけなのに、いつも淡々としているマティアスが耳まで真っ赤になっている姿を見てしまい、ヘルミーナは咄嗟に視線を逸らした。前回と似た状況に、余計なものまで浮かんできてしまいそうだ。
必死で頭の中をクリアにするものの、今すぐマティアスの方を振り返ることは出来なかった。
その時、宮殿の方から近づいてくる赤い団服が視界に映ってヘルミーナは視線を上げた。
「……カイザー様?」
やって来たのはカイザーだった。彼はどんどん近づいてくるが、その顔に笑顔はなかった。
いつもと違う様子に、ヘルミーナはそれ以上近づけなかった。けれど、カイザーの目は真っ直ぐマティアスに向けられ「交代です、団長」と冷たい口調で言ってきた。
なぜか張り詰めた緊張感に背筋がぞわりとする。一体、何があったのか。ヘルミーナはカイザーとマティアスを見つめ、胸がざわついた。
そこに三人の間を強い風が吹き抜け、いくつかの花弁が舞い上がった。
演練場から上機嫌で王宮の執務室に戻ってきたルドルフは、机の上に紐で括られた手紙の束を見つけて首を傾げた。それから椅子に腰掛け、手紙の上に置かれた一通の封筒に手を伸ばす。
差出人を確認してから封を切って中の手紙を読み始めると、一瞬だけルドルフの表情が曇った。そこへ侍従のフィンがやって来る。彼は全て知っているような顔で「お読みになりましたか?」と訊ねてきた。
「謝罪の手紙というよりこれは脅迫状に近いね、フィン」
「燃やしましょうか?」
真顔で言ってくるフィンに、ルドルフも「私もそうしたいところだけど」と肩を竦め、読んでいた手紙を封筒に戻した。一通はルドルフに宛てられた手紙だ。しかし、紐で括られた手紙は全てルドルフへの手紙ではなかった。
宛先はヘルミーナ。差出人は彼女の婚約者であるエーリッヒからだった。
彼は何通も、何通もヘルミーナに向けて手紙を送り続けてきた。それをヘルミーナの父親が、ルドルフに知らせてきたのだ。
──エーリッヒはまだヘルミーナを諦めていない、と。
ルドルフは前髪を掻き上げ、触れるのも躊躇してしまうほどの手紙の束を見下ろした。
「婚約解消の同意は得られず、か。さて、どうしようかな──」
【3.囚われの王子と導きの女神】……完。
いつも評価、いいね、誤字脱字報告ありがとうございます!
読んで下さる皆様のおかげで楽しく書かせてもらっています。
3章が思ったより長引いてしまい、番外編は余裕があれば書きにきたいと思います。
一先ず次の4章に向けて、暫くお休みさせていただきます。
連載再開までお待たせしてしまいますが、引き続きよろしくお願いします。




