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王宮の敷地に建てられた「アイリネス宮殿」──別名、沈黙の宮殿。
遠い昔、女の子の誕生を願った国王がいつか生まれてくる王女の為に、数十年の年月をかけて造らせた宮殿である。白を基調とした白亜の宮殿は、王国の中で最も美しい建物だと言われている。しかし、宮殿が完成した後もエルメイト王室に王女が誕生した記録は一切ない。
それでも諦めることなく、王室は魔法石や魔道具を使って宮殿の保存に努め、限られた使用人たちの手で綺麗に整えられてきた。花壇には「希望」を意味する花が植えられ、季節ごとに咲き乱れる。
そして、時代ごとに沈黙してきた宮殿は、静かにその時を待っていた。
「アイリネス宮殿の中庭は城壁に面しているから、遠慮なく花壇や庭に魔法水を撒いても大丈夫だよ。テイト伯爵邸では花瓶の花が枯れずに残っていて、庭の植物たちも手入れが間に合わないぐらい元気に育っているようだ。もし必要になった時は庭師を増員するから、安心して魔法の訓練に励むといい──……」
と、ルドルフからの手紙を一字一句声に出して読んでいるのは、昨日からアイリネス宮殿の臨時主人となったヘルミーナである。
王城で過ごしていた客間に負けず劣らず豪華な寝室で一晩を過ごしたヘルミーナは、見るからに疲れきっていた。
初めての宮殿暮らしに加え、専属の侍女と、十数人の使用人を紹介された。彼らは当然「契示の書」による魔法契約を結んでおり、ヘルミーナの下で働いてくれることになっている。自分のような地方出身の貴族令嬢に仕えたくて宮殿の使用人になったわけではないだろうに、罪悪感で押し潰されそうだ。
けれど、選りすぐりの使用人達は嫌な顔ひとつせず、それぞれの持ち場へ戻っていった。宮殿の運用と管理はフィンを通じて、ルドルフが引き受けてくれている。
だから、気兼ねなく自由に過ごしてくれと書かれた手紙が届けられたのは先程のこと。大量の書物と共に、フィンが運んできた。
「こちらはルドルフ殿下とモリス様から、ヘルミーナ様へお渡しするように頼まれた書物でございます」
「宰相様からもですか?」
「はい。ヘルミーナ様のお役に立てればと仰っていました」
ワゴンに積み上がった書物を見つめて、ヘルミーナは呆然とした。背表紙だけ見れば、どれも魔法に関する本だ。ただ、一冊がとても分厚い。こちらを読んで学べと? と、訊ねるようにフィンを見れば、彼は何事もなかったような顔で口を開いた。
「またモリス様から、ヘルミーナ様のご都合を訊ねてくるように言われました。ご予定がなければ、三日後の午後はいかがでしょうか?」
「……私は問題ありません。宰相様に宜しくお伝え下さい」
「畏まりました。それでは失礼致します」
用件を済ませたフィンは颯爽と去っていった。ヘルミーナは積まれた書物の山を見つめ、また三日間徹夜になりそうな気がして身震いした。
そこへ、一人の女性がお茶を運んできた。チェックの入った茶色のロングワンピースを着た、スタイルの良い女性だ。赤に近いオレンジ色の髪と瞳が、彼女の明るさをより一層際立たせている。その一方で、どことなく素朴さを感じてしまうのは、そばかすのある顔に親しみのある面影が重なってしまうからだろう。
「ヘルミーナ様、こちらの書物はお部屋に移動させたほうが宜しいでしょうか?」
「ええ、そうしましょう」
「というわけです、お兄様。そこへ立っているだけでしたら手伝って下さい」
「……メアリ、私にも護衛という務めがあることを忘れないでくれ。……なぜお前がヘルミーナ様の専属侍女に選ばれてしまったのか」
「それは私が優秀だからに決まっています。護衛も兼任できる侍女は少ないでしょうから」
得意げに鼻を鳴らした彼女は、メアリ・ボルム──ボルム子爵家の長女で、ヘルミーナの専属侍女となった女性だ。そのメアリから「お兄様」と呼ばれ、げんなりと肩を落とすのはリックである。リックは四人兄弟の長男で、妹のメアリ以外に二人の弟がいた。苦労を背負ってでも皆の世話を焼いてしまうのは、育ってきた環境にあるのだろう。メアリと話すリックを見て妙に納得した。
ヘルミーナは微笑ましい二人に頬を緩め、「三人で運べばそれだけ早く終わりますね」と提案した。二人には止められそうになったが、ヘルミーナは進んで数冊の書物を持ち上げた。
突然決まった宮殿での暮らしは、緩やかに始まっていた。
★ ★
──屋敷に初めて家庭教師がやって来た日のことを思い出していた。
子供だったせいか数日前から落ち着かなかった。当日は早くに目が覚めて、家庭教師が来るのを部屋の窓からじっと眺めていた。
どうしてそんなことを思い出しているのかと言えば、間もなく宰相のモリスがやって来るからだ。緊張してしまい、先程からソファーに座ったり立ったりを繰り返している。
実のところ三日間は部屋に閉じ籠もって読書に明け暮れていた。届けられた書物は魔法の基礎を学ぶものや、二重属性に関して研究者達の考察した内容が簡潔に纏められた本もあり、どちらも読めば読むほど奥深いものだった。基礎については今更と思っていたが、二重属性を知っていく内に魔法の初歩的な内容と照らし合わせることが度々あり、本の選択は間違っていなかった。
つい寝る間も惜しんで読み耽ってしまうと、メアリに「ヘルミーナ様は私をクビにしたいのですか?」と訴えられ、翌日からはしっかり寝ることにした。
そうして残りの時間もあっという間に過ぎ、モリスを迎える日がきてしまった。
リックとメアリの「ヘルミーナ様、落ち着いてください」の言葉が、左耳から右耳に抜けていく。じっとしていられない。その時、部屋の扉が叩かれた。
どうやらモリスが来たようだ。案内してきたメイドが「モリス・ラスカーナ様がいらっしゃいました」と伝えてくる。ヘルミーナはソファーから立ち上がり、平静を装って彼を出迎えた。
「ご機嫌よう、宰相様。このたびはお時間を取っていただき、感謝致します」
「こちらこそ私を指名していただき光栄です。どうぞ、私のことはモリスと。ルドルフ殿下は以前、私をモリス先生と呼んでいらっしゃいましたが、ヘルミーナ様もお好きなようにお呼びください」
「では、私もモリス先生とお呼び致します」
緊張していることが伝わらないように、主らしくモリスをソファーに促す。先程とは全く違う様子に、リックとメアリが生暖かい目で見ているような気がした。
モリスは深緑色の長衣にベルトを巻いて、手には大きな鞄を持っていた。仕事中はきっちりした服を着込んでいたが、こちらが本来の姿なのだろう。堅苦しい格好は好きじゃないようだ。
「モリス先生、侍女と護衛は同席させても構いませんか?」
「ええ、構いませんよ。実験の途中で何が起こるか分かりませんから、むしろ同席していただいた方が宜しいでしょう」
ソファーに腰を下ろしたモリスは、早速鞄を開いて持ってきた物をテーブルに並べ始めた。使い古した本に、魔力を測定する水晶、羽ペンや紙、その他にも色々な物が出てくる。中には正体不明の物体まであった。
ただ、道具を準備するモリスは落ち着いていたが、護衛として後ろに控えていたリックとメアリは彼の言葉を無視することが出来なかった。
「宰相殿、それは危険が伴う授業ということでしょうか?」
「ヘルミーナ様に何かあっては困ります!」
「そうですね。危険かどうかは、正直やってみないと分かりません。なにせ二重属性の方を前にしたのはこれが初めてですから。勿論、危険と判断した場合はすぐに中止させていただきます」
そう言ってモリスは、胸ポケットから眼鏡を取り出して顔に掛けた。レンズ越しに見つめられると、反射的に背筋が伸びてしまう。蛇に睨まれた蛙は動けなくなると言うが、蛙の気持ちが伝わってくるようだ。
しかし、この授業は自ら望んだことだ。不足している知識を補えば、今よりずっと上手に魔法が扱えるようになるかもしれない。ヘルミーナは肩の力を抜くように息を吐いて、モリスに「宜しくお願いします」と視線を合わせた。




