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ぐっすり眠った翌日、ヘルミーナは清々しい気持ちでとある宮殿の中を歩いていた。全てから解き放たれたような開放感がある。
しかし、案内してくれたフィンから「今日からこちらがヘルミーナ様の過ごされる宮殿でございます」と言われて、まだ夢の中にいるのだなと思った……。
昨晩は夕食も取らずに寝てしまい、朝食は昨日の分を取り戻すように食べた。国王との謁見が終わって気が緩んでしまったのかもしれない。見事に食べ過ぎた。お腹がぽっこり出ている。今日も部屋から出ずに過ごしていれば問題ないだろう。と、思っていたところに、フィンがそよ風の如く現れた。
前回のこともあり自然と身構えてしまったが、「ヘルミーナ様がこれから過ごされる場所へご案内させていただきます」と言われた。
それは、待ちに待った嬉しい知らせだった。ようやくこの場違いな部屋から移ることが出来る。ホッと胸を撫で下ろすと、それに気づいたフィンから「こちらの客間はお気に召しませんでしたか?」と訊ねられ、噴き出しそうになった。そんなことはない。ただ、これほど華やかな部屋で過ごすことは二度とないだろう。
──そう、思っていた。次に過ごす部屋へ案内されるまでは。
喜ぶヘルミーナを余所に、踵を返したフィンが「では、参りましょう」と先に出て行く。その後に続いたが、護衛の騎士はいなかった。気になって「騎士の方はいらっしゃらないんですね」と言うと、「……無駄に目立ちますから」と、尤もらしい答えが返ってきた。ヘルミーナは真顔で言ってくるフィンに激しく同意した。
騎士の方々には申し訳ないが、真紅の団服姿で城内を闊歩していく彼らは嫌でも人目につく。
こうしてフィンの後ろについていくほうが、新人の侍女か使用人だと思われて誰の目にも留まらない。自分の外見などその程度なのだ。心配するようなことは何もない。勿論、城内から移動するときは護衛の騎士が必要らしく「別の場所で待機させていますので、ご安心下さい」と教えられた。
「やぁ、ミーナちゃん。数日ぶりだね」
「ランス、どうしてこちらへ?」
王宮内の転移装置に辿り着くと、そこにランスの姿があった。待機している騎士とは彼のことだったようだ。
顔を合わせたのは騎士団の事故以来である。妙に懐かしく感じてしまったが、指折り数えてみれば確かに数日しか経っていない。その間に、初めて顔を合わせる人が多かったせいか、慣れ親しんだ顔に安心感を覚えてしまう。
「元気だった? 誰にも虐められてない? こんなに痩せ……てはないね」
「……ここでのご飯が美味しくて、つい食べ過ぎてしまって」
「それは何より。今日からミーナちゃんの護衛に復帰することになったから、またよろしくね」
「本当ですか!? 戻ってきてくれて嬉しいです。ランスにはまだお礼と謝罪が言えていなかったので」
ヘルミーナはぽっこり出たお腹を押さえつつ、護衛に戻ってきてくれたランスに喜んだ。
一方、ランスは「デートのお誘いなら大歓迎だけど、お礼と謝罪なら遠慮するよ」と笑った。この軽さも懐かしい。念のためランスの体を確認したが、この間のような怪我は負っていなかった。彼も元気そうで何よりである。
「そういえば屋敷の方は大丈夫でしたか? ランスが調査に行ってくれたんですよね?」
「ああ、あれねぇ。うん、大丈夫。みんな元気に育ってるよ」
それは駄目なやつでは? と思ったが、ランスの笑顔に誤魔化された。
失敗作だと思った魔法水を屋敷の庭や花壇に撒いてしまい、急遽ランスがテイト伯爵邸に赴いて調査を行うことになった。正式な報告は受けていないが、色々問題があったようだ。
申し訳なくなって謝ろうとしたとき、ランスが突然ヘルミーナの頭にポンッと手を乗せてきた。反射的に視線を上げれば、口の端を持ち上げたランスが「同じぐらいミーナちゃんの家族も元気だったよ」と教えてくれた。
これが危険なのだ。うっかり心を奪われないようにしていても、今のはズルい。子供扱いに怒ってみせるとランスは声を上げて笑った。
そこへフィンの咳払いが聞こえてきた。「そろそろ宜しいでしょうか?」と言ってくるフィンの声がやけに低い。彼の存在をすっかり忘れてしまっていた。ヘルミーナは急いでフィンの待つ転移装置に向かった。
フィンの態度はその後も変わらず丁寧だったが、彼の中で新たな誤解が生まれていないことを祈った。
三人揃って繋げた場所に飛んだ後、フィンの案内で建物の中を歩いた。
最初は城内のどこかだろうと思ったのに、日差しが降り注ぐ窓からそびえ立つ王城が見えた。確かに厳かな王城とは違って、建物の内装が女性らしい造りになっていた。
「……あの、ここは一体」
「こちらは元々、王女様のために建てられた宮殿でございます」
「王女様の……」
「国王陛下との謁見後、正式に使用許可が下りましたので本日からこちらに移っていただきます」
「……誰がいらっしゃるんですか?」
もしかしたら王族の誰かが移り住み、侍女として働かせてくれるのかもしれない。行儀見習いとして貴族令嬢が上流階級の婦人に仕えるのは珍しくなかった。
個人的には王太子妃となるアネッサの侍女になるのも悪くないと考えているのだが、フィンとランスの顔がなぜか険しくなった。
「誰って……ミーナちゃん?」
「ここで雇っていただけるということですよね?」
「いいえ、違います。今日からこちらがヘルミーナ様の過ごされる宮殿でございます」
宮殿にある一室を使わせてくれるという話だと思っていたのに、どうも違うようだ。しかし、誰が宮殿の全てを貸してもらえると思うだろうか。
──これは夢だ。そう思ってヘルミーナは静かに目を閉じた。夢なら今すぐ覚めてほしい。けれど、いくら待っても現実は変わらなかった。こんな扱いを受けるために「祝福」を与えられたわけではないのに、ヘルミーナは恐ろしくなって首を振った。
「私には無理です! こんな場所、畏れ多くて使えません!」
「ミーナちゃん、落ち着いて」
「ランスも無理だと言って下さい!」
この世の終わりのような顔をするヘルミーナに、ランスは笑いながら宥めてくる。他人事だと思って。その横ではフィンが、爽やかな笑顔を浮かべていた。さすがルドルフの侍従である。
「こちらは建てられてから一度も使われていない宮殿でございますので、周囲からの視線もありません。念のため移動の際は転移装置を使用していただきますが、それ以外は気兼ねなくお使いいただけるかと思います。またヘルミーナ様に仕える侍女やメイドはこちらでご用意させていただきました。後ほどご紹介させていただきます」
「…………そう、ですか」
口を挟む余地もないぐらい、フィンが捲し立てるように言ってきた。今はこの状況を考えることが先なのに、次から次に説明されて「待ってください」とも言えず、頭から煙が出てくる前に大人しく従うことにした。
優秀な侍従によって宮殿の隅々まで案内されたヘルミーナは、今日もぐっすり眠れそうだと諦め始めていた。
全て好きに使っていいと言われた時は、いっそ気絶してしまおうかとも考えたが、復帰したばかりのランスを困らせるわけにはいかない。
最後に連れて行かれたのは宮殿の中庭だ。外に出ると心地良い風が吹いて髪が靡いた。使われていない宮殿とはいえ、庭は手入れが行き届き、花壇に植えられた花も綺麗に咲いていた。
その時、どこからともなく小さな足音が聞こえてきた。ヘルミーナを守るようにランスが前へ出るものの、こちらに向かって走ってくる相手を見て誰もが驚いた。
三人のところへ現れたのは白金の髪を揺らし、黄金色の瞳を持った男の子だった。ルドルフがそのまま小さくなったような外見に、正体はすぐに知れた。
「──光の神エルネス様のご加護がありますように。セシル殿下にご挨拶申し上げます」
フィンが先に頭を下げて挨拶すると、ヘルミーナとランスもそれに続いた。ヘルミーナはドレスを広げて膝を曲げる。そこへ、セシルが目的のものを見つけた顔で近づいてきた。
「貴女が光の神エルネス様の祝福を受けたご令嬢ですか?」
大きな金色の瞳がヘルミーナを見上げてきた。感動を覚えてしまうほどの可愛さだ。喉から何かが飛び出してきそうになって慌てて口元を押さえる。
王太子であるルドルフは、一回り年の離れた第二王子の弟を溺愛していると聞いたことがあるが、なるほど理解した。どこから見ても完璧な愛らしさに、涙まで出てきてしまいそうだ。ヘルミーナは荒くなる鼻息を堪え、頭を下げて答えた。
「仰る通りです、セシル殿下」
「では、貴女が私の姉上になられるんですね」
「…………はい?」
聞き間違えだろうか。今、姉と聞こえた気がする。一瞬呆けてしまうと、セシルは困惑した顔で見上げてきた。
「違うのですか?」
「ちっ、違います! 私のような者が殿下の姉になど……!」
もしかしたら、次期王太子妃のアネッサと勘違いしているのかもしれない。セシルの姉になるということは、つまり王室に名を連ねるということだ。
……いや、待てよ。ヘルミーナにも妹がいる。仮に妹がセシルと結婚することになれば、ヘルミーナはセシルの義姉になる。でも、そんな話は聞いていない。そもそもセシルの姉になるという話はどこからきたのか。混乱していると、セシルがさらに近づいてきて大きな瞳を潤ませながら言ってきた。
「僕の姉上に、なってはくれないのですか……?」
「いえ、あの、その……っ、なりま……っ」
勢い余って「なります!」と叫びそうになった言葉を必死で呑み込む。首を傾げてくるセシルの破壊力に、悲鳴を上げなかった自分を褒めてあげたい。身も心も捧げてしまいそうな可愛さの暴力に、ヘルミーナは卒倒しかけた。実際、ランスに背中を支えられていなかったら後ろに倒れ込んでいた。
悶絶するヘルミーナに、この状況をどうにか出来たのは、普段から面識もあり免疫もあるフィンだけだ。
「セシル殿下、ヘルミーナ様を困らせてはいけません。護衛の騎士はどうされたのですか? 貴方に何かあればルドルフ殿下が悲しまれますよ」
「……僕だって彼女に会いたかったのに、兄上が許してくれなくて」
「それは何か考えがあってのことでしょう。ルドルフ殿下はセシル殿下をとても大切にしていらっしゃいますから。宜しければ私と一緒に戻りましょう。きっと他の者たちも探しているはずです」
フィンに叱られて肩を落とす姿も可愛い。ヘルミーナの中で溢れんばかりの母性が大暴れしている。何か問題が起きてしまう前に、フィンがセシルを連れて行ってくれて助かった。
自分の弟と妹だって勿論可愛いが、セシルはまた次元の違う愛らしさだった。
「なんですか、あの可愛らしい生き物は!」
「ルドルフ殿下にそっくりだよね」
「いいえ、ルドルフ殿下にはない純粋さがセシル殿下にはあります!」
興奮しながら言い切ると、ランスは「ミーナちゃんも言うようになったね。ルドルフ殿下となんかあった?」と苦笑された。
ヘルミーナは遠ざかっていくセシルの後ろ姿を眺め、頬の筋肉を緩ませた。
「セシル殿下は将来騎士になりたいって、騎士団の演練場にも良く来てくれるんだよね」
「騎士に! それは素敵な夢ですね」
「そうだね。……叶わない夢だって分かっていても、俺たちだって応援したくなるよ」
「────」
叶わない夢、と言われてヘルミーナはランスを見た。言葉の意味を訊ねようとしたが、同じくセシルを見送るランスの横顔を見て声が出なかった。
王族が騎士を目指すことがどんなに難しいか、この時のヘルミーナはまだ知らずにいた。




