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王座に着いていた国王は、突然口元を押さえて小さな嗚咽を漏らした。上体が傾きそうになった時、ルドルフとモリスが駆け寄った。国王は片手を上げて「大事ない」と口にしたが、体を戻す時に見えた顔は一気に老け込んでしまったように感じる。
それでも威厳は保ったまま、黄金の双眸が向けられた。
「……アルバンの傷を治したのはそなたか?」
「は、はい……仰る通りです」
「そうか……」
恐る恐る答えると、国王は顎髭を撫でながら深い溜め息をついた。そこに込められた思いは何だったのか。複雑そうな表情を浮かべる国王に、ヘルミーナは状況が掴めず焦るばかりだ。心配になって隣に立つレイブロン公爵を見上げると、彼は「大丈夫だ」と頷いてきた。
その時、ヘルミーナを見下ろしていた国王の視線が、レイブロン公爵に移った。二人の視線が重なると、国王はようやく口元を緩ませた。
「目の傷が完治したと、すぐに教えてくれれば良かったものを」
「それでは彼女への感謝も薄まってしまいましょう」
「そんなこと、あるはずがなかろう」
あるわけがない、ときっぱり言い切った国王は目尻を下げると、レイブロン公爵も嬉しそうに口の端を持ち上げた。すると、室内に漂っていた重い空気が一気に晴れていった。
それから国王は天井を仰ぎ、零れ落ちそうになる涙を堪えるようにして、上を向いたまま口を開いた。
「随分昔のことだ。……魔物と戦う能力のない愚か者が、自分も戦えることを証明したくて周囲の反対を押し切り討伐についていった。だが、現実は想像以上に酷いものだった」
「……父上」
「辿り着いた時には村一つが壊滅的な被害を受け、そこに住んでいた村人は魔物に食い荒らされていた。その血の臭いに誘われて、他の魔物たちも集まってきた。騎士団はすぐに魔物の討伐を始めたが、予想以上に数が多くてな。……魔物の大群に囲まれてしまった。無効化の魔力しか持たない愚か者は無我夢中で剣を振り回したが、一匹も倒すことができなかった。掌にも満たない魔鼠尾ですら……っ」
国王は言いながら開いた掌を悔しそうに握り締めた。その姿に真っ先に反応したのはルドルフだった。感情を露わにして、非力な自分を嘆く父親の姿を見るのは初めてだったのかもしれない。先程まで見せていた笑顔は消え去り、彼もまた悔しそうに拳を握り締めていた。息子だからこそ、彼にしか分からない何かがあったのだろう。
ヘルミーナは騎士団であった事故を思い出して恐ろしくなった。話から察するに、騎士団の時より酷い光景が広がっていたに違いない。他の者たちも、息を呑んで国王の話に聞き入っていた。
「そこに異端種の魔熊爪が現れ、騎士たちは奴の爪に倒れていった。あれほど恐ろしい魔物を目にしたのは初めてだ。……恐怖で足が竦んで動けなくなってしまった。それに気づいた魔熊爪が、こちらに向かって襲いかかってきた。とても剣一本で倒せるような相手じゃなかった。その時、一緒についてきた護衛の騎士が……余を庇い、左目を負傷した。騎士は片目を抉られたというのに、それでも剣に炎を纏わせて勇敢に戦い、魔熊爪をたった一人で倒してくれた。おかげで、他の魔物たちは恐れをなして逃げていったのだ……」
二十年前──まだ家門を継いでいなかったアルバンは、当時王太子だったリシャルドの護衛騎士を務め、共に魔物討伐に参加し、リシャルドを庇って左目を負傷した。アルバンは火属性一族の長である公爵家の跡取りで、優秀な騎士だった。しかし、その時に負った傷跡は深く、一生治らない傷を背負うことになってしまった。
そのことでリシャルドは自責の念に駆られ、立場が変わった今でも棘のようなものが胸に突き刺さっていた。
自分のせいで怪我をさせてしまった。それは時として、自分が怪我をするよりも辛かった。二十年という長い年月の間、リシャルドはずっと後悔をしていたのだ。なぜ、あのような行動をしてしまったのか、と。
時折声を詰まらせながら語ってくれた話から、国王とレイブロン公爵の間に何があったのか理解した。紐解いてみれば、とても苦い過去だった。
一連の話を終えた国王は椅子から立ち上がると、ゆっくりした足取りで階段を下りてきた。あの惨劇があった日に止まってしまった時間が、静かに動き出していくようだ。お互いの目に、若かりし頃の姿が映っていても不思議じゃなかった。
「アルバン……本当に、すまなかったな。余が軽率すぎたばかりに……」
「陛下、もう気になさいますな。この通り、ヘルミーナ嬢のおかげで左目は怪我をしていたのも忘れてしまったほどです」
国王はレイブロン公爵の前に来ると、彼の肩に手を乗せて俯いた。レイブロン公爵が気遣いや励ましの言葉を送るたびに、国王は何度も頷いては声を震わせた。王族であるが故に、臣下の前で簡単に頭を下げることはできない。けれど、心優しい国王はこれまでにも何度も、それこそ数え切れないほど心の内で謝ってきたのだろう。
隣で聞いていたヘルミーナは自然と涙が溢れ、零れそうになった涙を指で拭った。すると、目の前に影が差して顔を上げた。視線の先には国王が立っていた。
「礼を言うぞ、ヘルミーナよ。お主のおかげで、胸につかえていたものが取れたようだ。あの時、魔物の討伐について行かなければアルバンが負傷することもなかった。余は、無二の友に一生残る傷を背負わせてしまった」
「……陛下」
「だが、今日……二十年前と変わらない親友の顔を、また見ることが出来た! これほどの喜びがあるだろうか。そなたには感謝してもしきれない……っ」
両方の掌を向けてきた国王に、ヘルミーナは反射的に両手を差し出した。と、ヘルミーナの小さな両手が国王の手によって力強く握られた。ヘルミーナを見つめてくる黄金色の瞳は、涙で揺れているように見えた。
何か言わなくてはいけないと思っても良い言葉が思いつかない。その間にも視界が滲んで、ヘルミーナは震える唇を噛んだ。
自分の方こそ救われているような気がして、泣きたい気持ちになったのだ。
「──情けない姿を見せてしまったな。先程の無礼もすまなかった。恩人にすることではなかった」
「いいえ。私が禁止されている場所で魔法を使ってしまったのが悪かったのです」
国王の手が離れると、それまでの緊張はなくなっていた。友を思う一面を見てしまったせいだろうか。国王である前に、彼も一人の人間なんだと感じることが出来た。
ヘルミーナは臆する事無く「申し訳ありませんでした」と頭を下げたが、国王は片手を振って「謝罪する必要はない」と笑った。
「先程のは、お主の緊張を解くための冗談だ。ルドルフが許可して使ったのであれば、王城内とはいえ問題はない。そうであろう? ルドルフよ」
「仰る通りです、父上。私が同席していたので、問題はないでしょう。──それより父上、ヘルミーナ嬢に何か褒美を与えて差し上げてはいかがですか?」
「それは勿論、考えているとも。そなたは我が王国の盾であり、剣である騎士たちを救ったのだ。それ相当の褒美を贈らせてもらおう。それ以外に何か欲しいものはあるか?」
またか、と思ったのは自分の胸だけに留めておく。すると、国王が「土地か? 爵位か?」と提案してきたが、どれもヘルミーナには分不相応だった。最初から希望するものを決めていなかったら、パニックを起こしていたことだろう。
ヘルミーナは躊躇いがちに顔を上げると、国王の後ろに控えるルドルフを確認した後、もう一人の顔色を窺ってから意を決するように答えた。
「では……しゃ、宰相様を……お貸しいただけないかと……!」
「──宰相だと?」
「私、でございますか?」
途中噛んでしまったが、褒美に宰相であるモリスを希望してきたヘルミーナに、ルドルフ以外の全員が驚いた。無理もない。それでもヘルミーナは、ドレスを握り締めながら続けざまに口を開いた。
「ルドルフ殿下より、宰相様が二重属性についてお詳しいと伺いました! 私はまだ光属性を発現したばかりで知らないことが多く、勉強不足です。ですから、私にご教授願えないかと思った次第です!」
希望した経緯を伝えると、張り詰めていた空気が一瞬で和らいだ気がする。
貴族の令嬢がいきなり国の宰相を借りたいなど前代未聞だろう。そこにやましい気持ちがなくても、王国の最も重要な情報を抱えているモリスを求めてきたとなれば、裏を考えずにはいられないのが権力者だ。
光属性を宿したヘルミーナは、下手をすれば王族より貴重な存在だ。そんな彼女が宰相を味方につけて、王室を我が物にしようと動いてもおかしくはない。それだけの力があることを、彼女はまだ知らないようだ。
しかし、ヘルミーナが希望したのはモリスが個人的に研究している二重属性の知識だった。とても褒美でねだるようなものではないのに、彼女はどこまでも「普通」だった。
「なるほど。ヘルミーナ様は大変、努力家でいらっしゃるようですね。……そうですね、国王陛下が宜しければ私は構いませんよ。ええ、国王陛下がしっかり仕事をしてくだされば問題はないでしょうから」
「ぐ……っ。まさかお前達、共謀したのではあるまいな」
「何を人聞きの悪いことを。それで父上、ヘルミーナ嬢の希望は聞いてあげないのですか?」
ルドルフと計画した時は「宰相のモリスは気難しく、王太子の自分から頼んでも協力してくれるか分からない」と言っていたが、実のところ本当に説得しなければいけないのは国王の方だったようだ。国王とは言え、自ら口にした褒美を反故にすることはないだろう。だから、この機会を狙っていたのだ。ふとルドルフに視線をやると、今回も彼は良い笑顔を向けてきた。……敵に回したらいけない人だ。
息子の計画通りに事が進んでいるとは露知らず、国王は観念した様子で肩の力を抜いた。
「……うむ、承知した。我が右腕となる宰相をそなたに貸してやろう」
項垂れながらも国王が了承してくれると、すかさずモリスが「ヘルミーナ様のために尽力致しましょう」と言ってきてくれた。とても気難しい人には思えないのだが、モリスが快諾してくれたことでヘルミーナはホッとした。それから国王をはじめとする高貴な身分の方々に向かって「ありがとうございます」と膝を曲げた。
そうして、長く感じた国王との謁見は無事に終わった。謁見の間から出てきたヘルミーナは、ふらふらになりながら部屋に戻った。両脇から抱えられるようにして運んでもらった気もするが、良く覚えていない。
体力はすでに枯渇していた。また皆に心配されてしまうと思いつつ、ヘルミーナは寝不足と気疲れから部屋に入るなりベッドに飛び込んだ。
今日は良い夢が見れますように。そう願いながら、彼女は秒で布団に吸い込まれていった。




