40
首都、アルムス子爵邸──。
屋敷前に横付けされた馬車から乱暴に扉を開けて降りてきたのは、アルムス子爵家の長男エーリッヒだ。
玄関ホールで出迎えたメイド達は、怒りを隠そうともしないエーリッヒに怯え、彼が通り過ぎるのをただじっと待った。きっと婚約者の屋敷で何かあったのだろう。ここまで不機嫌なのは珍しい。
屋敷では今、エーリッヒの婚約が近いうちに解消されるという噂が流れていた。それを残念に思う者もいれば、納得している者も多かった。婚約当初は歓迎していた子爵家も、この婚約が早く白紙になることを望んでいた。
なぜなら、一族の英雄と呼ばれたエーリッヒに、あの「お荷物令嬢」は相応しくないからだ。社交界で流れている婚約者の評判を聞けば誰だって納得するだろう。──ただ一人を除いて。
「クソッ、テイト伯爵家の私兵がっ」
自室に入るなり、ガラステーブルに両手をついたエーリッヒは声を荒げた。その苛立ちから魔力が放出されていたのだろう、触れていたテーブルは圧力に耐え切れず、ガシャンッ! と音を立てて粉々に砕けた。
エーリッヒは使い物にならなくなったテーブルに舌打ちし、暫く部屋の中をうろついた後、暖炉の傍に寄った。そこには沢山の肖像画が飾られている。家族は勿論、記念日に描かれた自分の姿や、そして婚約者の肖像画も置かれていた。
「……婚約解消に同意しただと? そんなはずはない。子供の頃からずっと一緒だったんだ。将来だって誓い合った仲じゃないか……ミーナ」
ミーナ、と呼んだ婚約者は額縁の中で笑っていた。自分だけに笑いかける笑顔は、目を細めたくなるほど眩しく輝いていた。婚約した瞬間から、彼女のその笑顔も、髪も、目も、唇も、全てが自分だけのものだった。
それなのに二人の婚約は解消するべきだと、一族の長であるウォルバート公爵から連絡を受けて、エーリッヒは婚約者の元を訪れた。
そこで、あれほど従順だった彼女が裏切りとも思える言葉を吐き、二人の関係を終わらせようとしたのだ。カッとなったエーリッヒは彼女を押し倒していた。しかし、いずれ夫婦となるのだから、婚前に彼女の純潔を散らそうが夫となる自分が良ければ問題ないはずだ。それに、婚約が解消できない理由を先につくってしまえば、無理に引き離される心配もない。
ドレスの下に隠れた体は、摘み取られるのを待っていた果実のように熟していた。すっかり女性らしく成長していた婚約者に、エーリッヒは興奮が抑え切れなかった。
だが、そこに邪魔が入った。割って入ってきたのは火魔法を使う伯爵邸の私兵だった。初めて見る顔だったが、気性が荒く好戦的な火属性に碌な人間はいない。現にあの男は、本気でエーリッヒを殺そうとしてきた。彼女の傍に若い男がいるだけでも許せないのに、騎士気取りの兵士が一族の英雄を傷つけようとは。
ただ、その騒ぎが原因で他の使用人も駆けつけてきて、結局エーリッヒは屋敷から追い出されてしまった。おかげで婚約の話は有耶無耶になり、婚約者との間に僅かな溝ができてしまった。でも、優しい彼女のことだ。婚約解消に同意したのも、ウォルバート公爵から圧力を掛けられて仕方なく従っているに違いない。
そうでなければ、彼女一人どうやって生きていけるというのか。
自分がいなければ何もできない彼女が。
「大丈夫だ、ミーナ。お前が僕と別れたくないと公爵に泣いて縋れば、公爵も考え直してくれるはずだ。僕達は今も深く愛し合っているのだから──」
★ ★
──……悪夢を見た気がする。
深い眠りから目覚めたヘルミーナは、額に手の甲を乗せて息をついた。夢の内容までは思い出せないが嫌な感じだ。全身からじっとりとした汗が滲み出る。
寝所が変わったせいだろうか。ヘルミーナは見慣れない天井を見上げて、再び溜め息を吐いた。それとも、昨日目の当たりにした惨状が夢となって現れたのかもしれない。どちらにしろ、あまり良いことではなかった。
重い体を起こしたヘルミーナは、気持ちを切り替えるようにメイドを呼ぶベルに手を伸ばした。ところが、指先でベルを弾いてしまい床に落としてしまった。慌てて拾い上げようとしたが、その時部屋の扉が豪快に開かれて意識がそちらに引っ張られた。
「ああ、ヘルミーナ! 起きたのね!」
「……え? ……アネッサ、様?」
てっきり、メイドが来てくれるものとばかり思っていたのに、ノックもなく入ってきたのはレイブロン公爵家の長女アネッサだった。彼女は部屋に飛び込んでくるなり、ヘルミーナの元へ駆け寄ってきた。その顔は今にも泣き出しそうだ。
「もう起きないかと思って心配したわ!」
「あの、一体……」
ベッドに腰掛けたアネッサはヘルミーナの手を取ると、力強く握り締めてきた。アネッサの白い手首には、先程落としたベルと繋がっているブレスレットが点滅していた。どうして彼女がそれを着けているのだろうか。理解が追いついてこない。
すると、アネッサの後に続くように次から次へと人が押し寄せてきた。
「落ち着いて、アネッサ。カイザーは医者を呼んでくるように」
「今すぐ連れてくる!」
アネッサを宥めつつ、親友に短い指示を出したのは王太子のルドルフだ。そして、その彼に命じられて一度は部屋の中に入ったものの、すぐに飛び出していったのは第一騎士団副団長のカイザーだ。目の前で人が慌ただしく動き回るのを、ヘルミーナは呆けた顔で眺めていた。
「──ヘルミーナ様、体調はいかがですか?」
「きゃっ!」
……油断した。アネッサの反対側からいきなり声を掛けられ、驚いて悲鳴を上げてしまった。そっと振り向けば、第一騎士団団長のマティアスが「驚かせてしまい申し訳ありません」と頭を下げてきた。
皆さんお揃いで。ベッドの周りに集まった豪華な顔ぶれに、これこそ悪夢だと思わずにいられない。もう一度眠れば夢から醒めるだろうか。
でも、皆の深刻そうな顔を見ていたら、大人しくしていることが最善の策だと思った。
「──問題ない。良く眠ったようだ」
暫くすると、カイザーが脇に抱えて運んできたのは騎士団で出会った医者だった。彼は騎士団の専属医で、ロベルト・ベーメと名乗ってくれた。その顔は迷惑を通り越して、煩わしささえ浮かんで見える。
一方のヘルミーナも、なぜ医者が呼ばれたのか状況が掴みきれていなかった。診てくれたロベルトに「……ありがとうございます、先生」と言ったものの、困惑が拭いきれない。
すると、見兼ねたロベルトは深い息をついて、傍に控える彼らに口を開いた。
「だから、寝不足による疲れが一気に出ただけだと、昼間にも説明したはずだ。騎士ともあろう者が母親のように騒ぎ出して」
「しかし、先生! 人が丸一日眠り続けるなど何かあったとしか!」
「カイザー副団長、彼女はごく普通のお嬢さんだ。二時間も眠れば体力が回復してしまう君と一緒にしないでくれ」
一日中眠り続けていた……? 医者が呼ばれるぐらいだから、何かあったのかもしれないと思っていたが。
なんということはない。やり取りから察するに、寝不足で丸一日眠り続けていたヘルミーナに、彼らが必要以上に騒いでしまっただけのようだ。
「本当に大丈夫なのか?」
「……マティアス団長、貴方もか。ああ、もう心配はいらない。あとは栄養のある食事でも取れば体力も回復するはずだ」
これは、恥ずかしい。今すぐ水になって溶けてしまいたい。あまりに眠かったとはいえ、あれから丸一日眠ってしまうなんて。しかも、多くの人に迷惑を掛けてしまった。
「……ご迷惑をお掛けして、」
「謝ることはない。とりあえず何ともなくて安心したよ。それより医者もこう言ってることだし、皆で食事を取るのはどうだろう。折角だ、カイザーとマティアス卿もどうだい? 君達もヘルミーナ嬢に付きっきりで食事も取っていなかっただろう」
俯くヘルミーナに、耳を疑いたくなるような話が聞こえてきて、思わず二人を見てしまった。カイザーとマティアスは「問題ない」と返していたが、彼らは自分が起きるまで朝からずっと待っていてくれたのかもしれない。そう考えたら余計申し訳なくなって額をシーツに擦りつけたくなった。
しかし、上体を倒そうとした寸前、左右から伸びてきた手がヘルミーナの額を受け止めた。
果たしてどちらの手が先だったのか。
ヘルミーナは騎士達の反射神経に感心するばかりだった。
属性別、恥ずかしい思いをした時の表現。
・水属性→水になって溶けたい
・火属性→火の中に飛び込んで焼かれたい
・風属性→風となって飛んで行きたい
・土属性→土の中に埋まりたい




