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「ヘルミーナ嬢、お茶は何がいいかな?」
「カ、カイザー様! 私がやりますので座っていて下さい!」
応接室に通されてソファーに座るものの、カイザー自らお茶を用意すると言い出し、すぐに立ち上がることになった。
お茶会の時も社交界の華であるアネッサや、王太子のルドルフがいて落ち着かなかったが、カイザーと二人きりというのも非常に心苦しい。いずれ一族の長になる人に接待されるなど、心臓が締め付けられるようだ。
しかし、茶葉の入った缶を両手に持ったカイザーは「でも、カップがどこにあるか分からないよね?」と、困り顔で正論をぶつけてきた。全く以てその通りだ。彼の言っていることは正しい。
だが、それをカイザー自らやる必要は全くない。お茶を淹れてくれる人なら他にもいるはずだ。それとも騎士団には身の回りを世話してくれる使用人はいないのだろうか。だったらテーブルに置かれたベルは何用だ。
ヘルミーナの中で疑問が疑問を呼び、あれこれ考えている内にカイザーがお茶を淹れてくれていた。砂糖もしっかり添えられて。
「もうフードは外して大丈夫だよ」
「……はい」
ヘルミーナは疲れ切った様子でソファーに腰を下ろした。そういえばこの三日間、十分な休憩や睡眠が取れていない。本当に目まぐるしい毎日だった。
そこへ香り立つ紅茶が差し出され、ヘルミーナは息をついた。疲れているから頭が思うように回らないのだ。まだやることは残っているのに、体は休息を欲していた。
ヘルミーナは考えるのをやめ、フードを外して額に掛かる前髪を指先で払った。
ふと顔を持ち上げると、反対側に座るカイザーとばっちり目が合った。
「カイザー様?」
「……ごめん、何でもない。それよりこれからだけど」
「馬車の中で話してくださった件ですね」
ヘルミーナはティーカップに手を伸ばし、カイザーの淹れてくれた紅茶に一息ついた。「とても美味しいです」と率直な感想を伝えると、カイザーははにかむように笑った。
「騎士は遠征先での野営もあるし、自分の世話は自分でやることになっているから、お茶ならいくらでも淹れられるよ」と教えられたが、カイザーに淹れてもらうお茶はこの一回切りであることを願いたい。
ヘルミーナはまた紅茶に口を付け、しっかり味わいながら馬車の中で交わした会話を思い返した。
「騎士団で女性騎士の一人が退団することになっているんだ。君は彼女と入れ替わり、私と一緒に登城してルドルフの元へ向かう。その後はルドルフが君の面倒を見てくれるが、私も護衛として付くことになっている」
「入れ替わるということは、騎士の格好をするということでしょうか?」
「そうだね。君が今着ている服装と交換する形になると思う。背格好も同じぐらいだったから大丈夫だと思うけど、何かあればすぐに知らせてくれ。勿論、彼女には「契示の書」による魔法契約を結んである」
カイザーは一つひとつ丁寧に説明してくれた。
外套やフードは、極力体型や顔を覚えられないようにするためだった。魔物を目撃して怯えたように振る舞えば、無理にフードを剥ぎ取られることはないと言う。ヘルミーナは理解するごとに頷いた。
それから宿舎では女性騎士の他に、第一騎士団団長のマティアスとも合流することになっていた。カイザーとマティアスがいればヘルミーナの存在など掻き消されてしまうだろう。完璧な布陣だ。
「団長のことだから会議が終わったらすぐに駆けつけてくると思うよ」
「何から何までありがとうございます」
婚約者からは認めてもらえず、社交界の厄介者だったのに。光属性を宿したことは複雑だが、自分のことを守ってくれる人達がいることは嬉しくもあり、妙にくすぐったかった。
ヘルミーナは口元を綻ばせ、カップをソーサーに戻した。
まさに、その時だ。
────背筋にぞわりと悪寒が走った。
身の毛がよだつような恐怖を感じて反射的に顔を上げると、カイザーもまた異変に気づいたようだ。
そして次の瞬間、すぐ近くから耳を塞ぎたくなるような狼の遠吠えが聞こえた。続けて、激しい爆発音と共に建物が振動し、間からいくつもの叫び声が届いてくる。
ヘルミーナは怖くなって悲鳴すら出せなかった。
辛うじて動いた目でカイザーの姿を追うと、彼は廊下に出て外の様子を確認した。すると、カイザーの元にバタバタと走ってくる足音が聞こえた。
「カイザー副団長っ!」
「どうした、何があった!?」
やって来たのはリックだった。彼は酷く慌てた様子でカイザーに事情を話し始めた。
ヘルミーナは硬直したまま、彼らの会話を聞き取ることしか出来なかった。
「それが、訓練で使っていた魔物が暴走したようです!」
「あの魔狼牙はそれほど強くなかったはず……まさか異端種だったのか?」
「まだ分かっていませんが恐らくそうではないかと! 現在、他の副団長二名が交戦中です。またその場にいたのが新人騎士だったため、多くの負傷者が出た模様です!」
……魔物? リックは魔物と言ったのだろうか。王宮の敷地になぜ魔物がいるのだろうか。思いがけない言葉を耳にして、嫌な汗が頬を伝い落ちる。
一方、カイザーは青褪めるヘルミーナを見る余裕があり、的確に指示できる冷静さもあった。
「こんな時に……っ! 分かった、私も応戦に出る。リックはヘルミーナ嬢を頼む!」
「承知しました!」
ヘルミーナは勢いよく駆け出していくカイザーの背中を見送り、先程の戦慄を思い返してまた震え出した。
彼は今からあの恐怖の中に向かおうとしているのか。騎士は皆、あのようなものと戦わなければいけないのか。
姿は見なくても感じるおぞましい存在。
ヘルミーナは初めて知る魔物の脅威に、ただ身を竦ませるしかなかった。




