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「お父様、私は王宮へ行きます──王宮で、自分の進む道を見つけたいと思います」
ヘルミーナが王宮行きを決断すると、真っ先に反応したのはカイザーだった。彼は夕日のような瞳を輝かせると「それじゃ、今すぐ準備する必要があるね」と言ってきた。
その言葉にヘルミーナの表情の筋肉が固まる。まさか一世一代の決断が、一分も経たない内にもう揺らぐことになるとは思わなかった。
「……今すぐ、ですか?」
なんだろう、この感じ。
既視感を覚えて記憶を辿ると、つい最近も似たようなことがあったような気がする。そう、護衛の騎士を派遣すると言われて数日の余裕を見込んでいたら、翌日にはやって来てしまったあれだ。
ヘルミーナと父親が呆然とする中、カイザーだけは上機嫌で「荷物運びなら任せてほしい」と笑顔で胸を張った。なぜ彼がそこまでしてくれるのか分からないが、このままではいけない気がした。
ヘルミーナは救いを求めるようにマティアスを見た。その時、偶然にもお互いの目が合った。すぐにまた顔を背けられてしまったが、今は気にしていられない。
「あの、団長様……王宮にはいつ頃向かうのが宜しいでしょうか?」
「伯爵令嬢のご希望にもよりますが、この後すぐでも構いません。手荷物は最小限に、他の荷物は別で送っていただくのが宜しいかと思います。また生活に必要な物は王室でご用意しています」
──全然良くない。
てっきり暴走するカイザーを止めてくれるのかと思ったが、ヘルミーナの王宮行きは二人揃って同じ考えらしい。
彼らはヘルミーナを何だと思っているのだろうか。
これでも彼女は貴族の娘である。何の準備もなしに王宮へ行くなど到底無理な話だ。
「その、他にも準備がありますので……せめて十日ほど頂けたら」
「十日ですか……?」
「いえ七日、駄目でしたら五日、ええっと……三日でもいいです!」
焦ったヘルミーナは、第一騎士団の団長相手に交渉を始めた。彼が難色を示す度に確保できる日数は減っていき、最後は自ら最低ラインまで引き下げることになってしまった。どうやらヘルミーナの意思を尊重する項目に、この件は含まれていないようだ。
だが、彼らの「早く連れていきたい」という圧に押されたら、本当に何も持たず屋敷から出て行くことになってしまう。それに、この腫れた瞼を人目に晒すわけにはいかない。
「三日、ですね。……分かりました。それではまた三日後にお迎えに上がることにしましょう」
「……ありがとうございます」
マティアスから了承を得ると、ヘルミーナと父親、そして後ろにいるリックまでもが胸を撫で下ろした。手に変な汗が滲んでいる。新たな扉を開く前に寿命が縮んでしまうかと思った。
しかし、カイザーだけは黙り込んでしまった。彼は、ヘルミーナが辛うじてもぎ取った三日でさえ納得していないと言うのか。気になって恐る恐る声を掛けると、カイザーは突然何か閃いた様子で顔を上げた。
「それなら三日の間は私がヘルミーナ嬢の護衛を担当しよう。リック一人では心許ないからね」
「え……、カイザー様が?」
普段は王族に付いて回っている人が、しがない伯爵令嬢の護衛に付くなど考えられない。
ヘルミーナは勿論全力で断った。今でも頭の中は混乱の層が出来上がっているのに、これ以上問題を増やさないでほしい。すると、さすがに今回はマティアスが止めに入ってくれた。
「何を言っている、カイザー。お前は王宮に戻ってルドルフ殿下の補佐があるだろう。屋敷を半壊させて一週間も休んでいたのだから、働ける内にしっかり働け。──護衛なら私が適任だ」
「団長こそ何を仰ってるんですか。半壊ではありません、部屋が三つほど吹き飛んだ程度です。それに団長だって仕事を放ってこちらに来てしまったではありませんか。総長に知れたら魔物の群れに一人で放り込まれますよ」
ヘルミーナの護衛を巡って言い合いを始める二人に、彼女は黙って見守ることしか出来なかった。
彼らの口から聞こえてきた物騒な話は笑顔で誤魔化そう。騎士というのはいつもこうなのだろうか。後ろに立つリックを盗み見ると、彼は物凄く居た堪れないような表情を浮かべていた。それだけでリックの立ち位置が分かった気がする。
最終的にリックが三度の咳払いで二人の言い合いを止め、「どうやら団長も副団長も、ご自身の仕事に戻らなければいけないようですね」と、背筋が凍るような笑顔で収めてくれた。おかげでヘルミーナも、喉まで出掛かった言葉を呑み込むことが出来た。最強の騎士団を率いる二人に「どうか、お帰り下さい」なんて、言えるはずもない。
だが、この瞬間からヘルミーナの戦いはすでに始まっていたのだ。
どうしてあの時、あの場ですぐに決断してしまったのか。
お茶会の時と同じく、嘘でも「考えさせて下さい」と答えるべきだった。悔やんでも仕方ないが、またしても自分の浅はかな行動を痛感することになった。
そして、王宮に行くまでの三日間──ヘルミーナ・テイトは、人生で最も慌ただしく、怒涛のような日々を過ごすことになったのである。




