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「ヘルミーナ様、おはようございます」
身支度を整えて部屋を出たところにリックが立っていた。
ランスにお礼を伝えようとしていたヘルミーナは拍子抜けしつつ、ホッと胸を撫で下ろした。やはり、昨日の今日では顔が合わせづらい。ただ、伝える機会が長引けば長引くほど、余計言い出しにくくなってしまう気がした。
ヘルミーナは護衛として後ろからついてくるリックに「あの、ランスは?」と訊ねた。すると、リックは複雑そうな表情を浮かべると、ため息交じりに答えた。
「ランスは護衛を外されました」
「えっ、どうしてですか!?」
「彼は守らなければいけないヘルミーナ様を危険に晒しました。……昨日の事ですが、私もお傍にいられず申し訳ありませんでした」
「そんな……! リックは定期報告で屋敷にいなかっただけですし、ランスだって……っ」
「ヘルミーナ様が気になさる必要はありません。ランスは昨晩の内に報告も兼ねて自ら罰を受けに行ったのです。騎士として当然の行動です」
ランスには「内密に」とお願いしたが、彼らの上司は自分ではない。小さな出来事でも報告する義務はあったのだろう。
けれど、ランスのおかげで助かったヘルミーナは、やり切れない悔しさで唇を噛んだ。
もっと自分が注意していれば、あんなことにはならなかったはずだ。
婚約者として一緒にいる時間が長かったから。これはエーリッヒを突き放しきれなかった己の甘さが招いたのだ。
「……教えてくださって、ありがとうございます」
ヘルミーナは水色のドレスを軽く握り締め、様々な感情を呑み込んで父親が待っているダイニングルームへと向かった。
使用人が扉を開くと、中から空腹の胃を刺激する良い香りが漂ってきた。
皆は朝の挨拶をしてくれたが、実際は昼食の時間なのだ。ダイニングルームでは今かと待ちわびていた父親が、ヘルミーナの姿を見た途端、椅子から立ち上がってこちらにやって来た。
その時、一瞬だけヘルミーナは怯んだ。自分の父親だから大丈夫なはずなのに、正面から迫って来られると反射的に体が強張ってしまった。同時に、あの時味わった不快感が体を駆け巡った。
「当主様、すみませんが」
「ヘルミーナ……」
急に体を抱き締めて背中を丸めるヘルミーナに、リックは片手を上げて彼女の父親に首を振った。
父親はどれほど傷ついただろう。そんな悲しい顔をさせるつもりはなかったのに、同じ男性というだけで体が拒絶してしまうなんて。
未遂ではあったが、無理矢理押し倒されてドレスの中を弄られた恐怖が頭から離れない。
ヘルミーナは、真っ青な顔で立ち尽くす父親に「違うの、ごめんなさい、お父様……っ」と、両手を伸ばして自ら近づいた。
目が覚めた時は、昨日の出来事なんてすぐに忘れられると思っていたのに、心に負った傷は思っていた以上に深いものだった。
「エーリッヒがここへ来たそうだな。……奴は婚約の解消に納得してないようだ。我が娘を散々飾り物のように扱ってきた愚か者が何を血迷ったのか」
「お父様、私……」
「無理に話す必要はない。公爵には、婚約解消の手続きを早急に進めてもらうよう伝えておく。それからエーリッヒには、お前に二度と近づかないよう強く言い聞かせねば。……ああ、こんなに瞼を腫らして。怖い思いをさせてしまったな、ヘルミーナ」
ヘルミーナは父親の両手を握り締めた。しかし、父親は娘を気遣ってか指すら動かさなかった。
父親は昔からヘルミーナに甘かった。幼い時からヘルミーナを水の都市に連れて行き、自らが造船に関わった貿易船を見せに連れて行ってくれた。
まるで子供のように、目を輝かせながら貿易船の出来栄えを自慢する父親が大好きだった。
そんな父親の自慢の娘でありたかった。
「お父様……っ」
ヘルミーナは精一杯の力で抱きつくと、今度は父親もそっと抱き締めてくれた。
優しい温もりに乾いた心が癒やされていく。
その時、抱き合う二人の間から「くぅー」と可愛らしい音が鳴り、ヘルミーナは慌てて自分のお腹を押さえたが遅かった。
目をぱちくりとさせた父親は、次の瞬間には顔を綻ばせ「腹が減っては何も出来ないな。さぁ、食事にしよう」と、席までエスコートしてくれた。顔を真っ赤にしたヘルミーナは、同じく聞こえていたであろうリックの方を見ることは、とても出来なかった。
昼食が終わった後、父親は仕事の溜まった執務室に戻った。
一方、ヘルミーナはメイド達と一緒に、メイド曰く「ドレスの一掃式」なるものに参加した。エーリッヒが好んだ地味で暗めのドレスとはおさらばして、心機一転しようという会らしい。
だが、メイドが次から次に運んでくるドレスを見せられる度に、黒い歴史が蘇ってきて羞恥に晒された。これでは、すっきりする前に心が死んでしまう。
段々居た堪れなくなってくると、そこへ救いの声が掛けられた。
「お嬢様、王国騎士団の方がいらっしゃいました」
「騎士団の方が……?」
すぐにランスの顔が浮かんだが、呼びに来た執事長はこれまで以上に緊張していた。
どうやら救いではなく、新たな試練なのかもしれない。
ヘルミーナは部屋の外で護衛しているリックに「今の聞こえましたか?」と訊ねれば、彼は神妙な顔で頷いた。
「……先に謝罪しておきます、ヘルミーナ様。昨日の夜に乗り込んでこなかっただけ、まだ良かったですが」
「あの、それは……」
言葉の意味を知ろうとしたヘルミーナは、しかし止めた。視界の端に映った執事が早くしてほしいと目で訴えてきたから。
それだけの相手がやって来たということだろう。
ヘルミーナは執事やリックの態度からなんとなく察して、彼らを伴い玄関ホールに急いだ。
その時、ふと脳裏に浮かんできたのは赤い髪の彼だった。




