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「親しい友人もいない、社交界でも一人ぼっちの君を愛してやれるのは僕だけだ。ミーナだって僕だけしかいないだろ?」
「────」
「婚約が破棄されれば僕の次の結婚相手は、公爵家の姪にあたる侯爵家の娘だ。自ら事業を立ち上げて宝飾店を経営しているようだが、性格は傲慢で欲深く、これまでも婚約者が気に入らないという理由で婚約を破談してきている。そんな女が僕に尽くすとも思えない。──僕にはミーナ、お前だけだ」
何度も、何度も、呪文のように言われてきた言葉だ。
ミーナだけだ、と。
そう甘く囁きながら、陰では他の者と一緒になってヘルミーナを嘲笑い、同情を買っていたことは知っている。
知っていて見ない振りをしてきた。
「エーリッヒは、もし私が覚醒しても変わらずにいてくれるの……?」
「何の心配をしているんだ。人並み程度の魔力は欲しいところだが、僕に並ぶ必要はない。君はこれまで通り、僕の後ろにいればいいんだ」
隣に座ってきたエーリッヒはヘルミーナからカップを取り上げ、冷たくなった手を握り締めてきた。
優しい声で、穏やかな笑みを浮かべているのに、あの日心配して声を掛けてくれたカイザーとは、まるで違っていた。
彼に触れられている箇所から毒が侵食していく感じがする。
ヘルミーナは咄嗟に手を振り払い、エーリッヒから顔を背けた。
「婚約の白紙は公爵様がお決めになったことです。もう覆ることはありません」
「──……そうか。では仕方ない」
拒絶の言葉を口にすると、エーリッヒは突然ヘルミーナの手首を鷲掴みした。そして、振り向いた瞬間にはソファーに押し倒され、エーリッヒの体が覆いかぶさるように跨ってきた。
それだけではない。エーリッヒは片手を伸ばし、水の魔法を使って二人を取り囲む半球体の水壁を作り出した。
「エーリッヒ……っ!?」
「叫んでも扉の向こうには聞こえないさ。婚約破棄の撤回が出来ないなら、出来るような状況を作ればいい。ミーナが子でも孕めば、僕たちは夫婦になるしかないだろ?」
覚醒によって魔力が増えたとは言え、エーリッヒがここまで水魔法を使いこなせるようになっていたとは思わなかった。
ヘルミーナは逃げようと試みたが、身動きを封じられ抜け出せなかった。
近づいてきたエーリッヒの唇が頬を掠め、首筋に吐息を感じた時、全身がぞわりとした。
「やっ、やめ……っ!」
必死に抵抗しても力の差は歴然だ。
押さえつけてくるエーリッヒの力を前に、ヘルミーナは無力だった。
嫌だと身を捩ってもエーリッヒの行動はエスカレートし、ドレスの裾から忍び込んだ手が太腿を撫でてきた。ヘルミーナは息の詰まるような恐怖と不快感に戦慄した。
最悪な事態が頭を過り、ヘルミーナは涙を堪えて片方の人差し指を扉へ向けた。
小さくていい、どんな些細な音でも優秀な騎士なら気づいてくれる。
エーリッヒの作った水の壁を突き抜けられるか不安だったが、考えている時間はなかった。
ヘルミーナは指先に力を込めて魔力を放った。
見えなかったせいで、うまくいったかどうかは分からない。
ただ心の中で強く願うしかなかった。
その時、真っ赤な炎が頭上を走った。
「てめぇ……っ! 何してんだっ!」
「な、火魔法だと!?」
炎を纏わせた剣が振り下ろされると、二人を覆っていた水の壁は一瞬にて弾け飛んだ。
斬られた水は音を立てて蒸発し、白い煙が立ち込める。
突然現れた火属性の護衛にエーリッヒは目を見開き、剣先を向けられると真っ青になった。
「お前のような糞野郎が、手ぇ出していい人じゃないんだよ!」
「ぼ、僕達は婚約しているっ!」
「だから何だ! それが嫌がる女性を襲ってもいい理由になるかよ!」
駆けつけてくれたランスはエーリッヒに剣を向けたまま、ヘルミーナの手を取って自身の背中に隠した。
それから剣を持ち替え、放っておけばそのままエーリッヒの喉を貫く勢いだった。
「ラ、ランス! 待ってください……っ」
「ふ、ふんっ、どうやら護衛に問題があるようだな! だいたいお前のような火属性は気性が荒く、すぐに問題を起こす。そんなに戦いたいなら魔物の討伐にでも参加してくればいいだろ!」
「なんだと……? 魔物の討伐がどんなに悲惨か、知りもしないヤツが軽々しく口にすんじゃねぇっ!」
ランスの剣がエーリッヒの皮一枚を突き刺した。痛みは殆どなかっただろう。しかし、エーリッヒは「ぎゃあっ!」と悲鳴を上げて、ソファーから無様に転げ落ちた。
そこへ、騒ぎを聞きつけた屋敷の使用人たちが一斉に飛び込んできた。
彼らは、剣を抜いているランスと、そのランスにしがみついて止めようとしているヘルミーナと、そしてソファーの下で怯えながら丸くなっているエーリッヒを見て困惑した。
ヘルミーナは咄嗟に「エーリッヒを馬車までお見送りして!」と命じると、使用人たちは弾かれたように動き出し、エーリッヒの両腕を掴んで引きずり出した。
「ミーナ! 待ってくれ、まだ……っ! ミーナ!」
「……お帰り下さい。もう話すことは何もありません」
部屋から連れ出されたエーリッヒはヘルミーナの名前を呼び続けたが、彼の元に行きたいとは思わなかった。
少し前だったら従っていただろう。
奴隷のように。
「来てくれてありがとうございます。おかげで、助かりました……」
「開いた扉に光が当たって、それで……。ごめん! もっと早く気づけてたらっ!」
水魔法を使ったと思ったのに、放たれたのは光魔法だったようだ。
エーリッヒから「努力しろ」と言われ、磨き続けてきた魔法に光の神エルネスの祝福が宿り、それがエーリッヒから救ってくれる魔法になるなんて、なんて滑稽な話だろうか。
ヘルミーナは切なげに口元を緩めた。
「いいえ、ランスなら気づいてくれると信じてました」
「……平気な顔、しないでくれ。やっぱり、二人だけにするんじゃなかった。王太子殿下と副団長からしっかり守るよう頼まれてたのに」
「ランスのせいじゃありません。私もまさかエーリッヒがあのような強硬手段に出るとは思いませんでした。どうか、今日のことは内密に」
「いいや、駄目だ! 今からでも治安部隊に連絡して……っ」
未遂とは言え、エーリッヒの行いは立派な犯罪だ。人を取り締まる治安部隊に連絡するのが道理だ。
だが、今日の出来事が知れ渡ればエーリッヒだけではなく、ヘルミーナにも謂れのない噂が飛び交うことになるだろう。
とくにヘルミーナは今の社交界に嫌われていた。それにまだエーリッヒとの婚約は解消されていない。裁判になってもヘルミーナの方が弱い立場にあるのだ。
ランスが言い掛けて止めたのも、それを分かってのことだろう。
「部屋に戻ります。暫く一人にして下さい」
「……分かった。ミーナちゃん……いや、使用人の口止めは俺が」
「お願いします」
応接室を出たヘルミーナは、部屋までの短い距離をどうやって歩いてきたのか覚えていなかった。
ただ部屋の扉を閉めた瞬間、彼女の体はその場に脆く崩れ落ちた。
子供の頃に交わした婚約でも、ヘルミーナはエーリッヒが好きだった。
どんな時も手を差しのべてくれた。
いつも気遣ってくれて、優しかった。遊んでいる時も、勉強している時も、買い物をしている時も、一人より二人。
傍にいられるだけで幸せだった。
覚醒が起きたことより、無事に生きて戻ってきてくれたことを喜んだ。
エーリッヒを失うなんて考えられなかったから。
それから一族の英雄と呼ばれるようになってからも、彼は変わらずヘルミーナの英雄だった。
なのに、いつから二人の関係はおかしくなってしまったんだろう。
向かい合っていたはずなのに、いつの間にか相手に違うものを求めるようになっていた。
エーリッヒはヘルミーナを孤立させ、忠実に従うことだけを望んだ。
一方ヘルミーナは、孤独を埋めてくれるエーリッヒに愛を求めつつ、認めてもらいたいと望むようになっていた。どんな扱いを受けても、努力すればいつか彼に分かってもらえると思った。
本気で愛していたから。
エーリッヒに相応しい女性になりたかったのだ。
「……う、っ……っ────」
ヘルミーナは膝を抱き寄せて頭を埋めた。
最近、泣いてばかりいる。
これまで泣きたくても泣けなかったのが、今になって溢れ出してきたようだ。
閉じ込めてきた思いと共に。
──私たちは終わった。
終わったのだ。
日溜まりの中で手を繋いで歩いてきた二人は過去となり、築いてきた絆は粉々になって壊れた。
幸せな日々はもう戻ってこない。
隣で並んでいたかった。ただ、それだけなのに……。
ヘルミーナの僅かな期待も虚しく、彼女の初めての恋は終幕を迎え、これがエーリッヒを思って泣く最後の涙となった──。
【1.可哀想な婚約者とお荷物令嬢】……完。




