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昼間に出掛けて行ったヘルミーナの父親は、日が傾いた頃に帰ってきた。
ウォルバート公爵に呼ばれたと言っていたが、憔悴しきった父親の表情を見て胸がざわついた。
「レイブロン一族のとある侯爵家がエーリッヒを婿養子に迎え入れたいと、ウォルバート公爵に打診が来たそうだ。だが、公爵は一族の英雄であるエーリッヒを他所に出すわけにはいかないと言ってきた。お前はエーリッヒが覚醒する前からの婚約者だったのに、今更相応しい相手と婚姻させるから婚約を白紙にしろなどと……っ」
「……お父様」
予感はしていた。
異なる一族者同士が婚姻を結ぶ時、一族の長の許しが必要となる。
予め打診をして長、もしくは代理人が話し合いの場を設け、そこではどちらの一族に名を連ねるのか、それによって抜けられた方の一族は相手に対価を要求することが出来た。
人もまた一族にとって大切な財産と考えられているからだ。
対価はある程度の基準が定められ、ここ最近は縁談が決裂したという話は聞かない。けれど、今回ばかりはウォルバート公爵も首を縦に振らなかったようだ。
第二次覚醒によって九死から生還したエーリッヒは一族の英雄であり、今後も水の都市と同様に一族の発展には必要不可欠な存在だ。
それでも相手の好待遇にエーリッヒが強く婚姻を望めば、一族同士の間に軋轢が生じてしまう。元よりレイブロン一族とウォルバート一族は仲が良くなかった。
貴重な存在を奪われるわけにはいかないウォルバート公爵は、何としてもエーリッヒを一族に留めておきたかった。そのために、ウォルバート公爵は彼に爵位を与え、もっと相応しい結婚相手を見つける必要があると考えたようだ。
社交界で「お荷物婚約者」と呼ばれているヘルミーナではなく。
ヘルミーナでは、エーリッヒを一族に留めておくだけの存在にはなれず、むしろエーリッヒの評判まで落としていると判断されたのだ。
「……本当にすまない、ヘルミーナ。こんなことならもっと早くエーリッヒとの婚約を見直すべきだった」
「いいえ、私が不甲斐ないばかりにご迷惑を。私は、平気ですから」
申し訳ないと謝ってくる父親に、ヘルミーナは父親の手を取った。
自分と同じ水色の瞳が濡れていた。
これまでも娘のことで、気苦労が絶えなかったことだろう。でも、見捨てずにいてくれた。ヘルミーナの心が折れずにいたのは家族のおかげだ。
「気に病まないで、お父様。──私はエーリッヒとの婚約解消に同意します」
「ヘルミーナ……」
自分と婚約を解消すれば、エーリッヒはもう皆から可哀想だと言われることはなくなるだろう。
エーリッヒにとってもこれが一番なのだ。
そう自分に言い聞かせることで、ヘルミーナは平静を装った。
婚約が白紙になったことを家族に伝えると、皆から抱きしめられた。
結婚適齢期で婚約者を失い、社交界の評判も含め傷物となった自分にはこれから先、良い縁談は望めないだろう。
考えると気が重くなるばかりだが、一つの選択肢が消えたことは確かだった。
護衛を務めているランスとリックにも事情を伝えると、二人はカイザー程ではなかったが殺気を漏らした。
相談できる友人さえいなかったヘルミーナには、自分のことのように怒ってくれる二人が嬉しかった。
その後、ランスは自身の身に起きた数多くの恋愛話を語ってくれ、一方のリックは「報告に行って参ります」と言うと風の如く消えてしまった。
これで暫く静かに過ごせるかもしれない。
そう思っていたのも束の間、ヘルミーナの元にエーリッヒが突然訪ねてきた。
彼の、酷く焦って怒っているようにも見えた表情に、ヘルミーナは言い様のない恐怖を覚えた。




