01
アルムス子爵家の長男、エーリッヒ・アルムスは素晴らしい水魔法の使い手だ。
外見は母親譲りの美しい顔立ちに、青い髪と紺色の瞳。
身長は平均的だったが、それでも十六歳の成人を迎えて社交界デビューすると、瞬く間に女性たちから誘いの声がかかった。
しかし、彼はどの女性にもなびなかった。
エーリッヒにはすでに子供の頃から決まっていた婚約者がいたのだ。
婚約者はエーリッヒの二歳年下だったため、彼より遅れての社交界デビューとなった。
だが、彼女の存在はすでに界隈では有名だった。
エーリッヒの「お荷物」婚約者として。
優れた才能を持つエーリッヒに対し、婚約者のヘルミーナ・テイトは実に平凡だった。
伯爵家という家柄を抜けば、外見、知能、魔力の全てが平均か、それ以下だった。
その為、ヘルミーナを伴って社交界に姿を見せるエーリッヒにはいつも同情の目が向けられた。
釣り合っていない婚約者を押し付けられて可哀想に──、と。
「ミーナ、待たせたね」
大勢の貴族を招いた賑やかなパーティーは終わりを知らない。
会場に流れる音楽に合わせて踊る男女、事業の話で盛り上がる紳士、世間話や噂話に花を咲かせる淑女たち。
社交界にデビューして間もない頃は、全てがキラキラ輝いて見えた。毎晩のように舞踏会へ出掛けて、夜遅くに帰ってくる両親と同じように。自分も大人の仲間入りできた事が嬉しかった。
けれど一年も経たない内に、抱いていた期待や希望は幻想なのだと気づいた。
森へ行けば魔物がいるように、この社交界という場所もまた悪い瘴気に侵されているのではないかと思った程だ。
ヘルミーナは人目につかない壁際に立っていた。
会場に入ってきた時は誰よりも目立っていたのに。もちろん悪い意味だけれど。
それから婚約者であるエーリッヒと二回踊った後、逃げるようにして隅っこに移動してからは息を殺しながら過ごしていた。
少しでも目立った行動をすれば目ざとく見つけた令嬢たちが、ヘルミーナを取り囲んで嫌味を言ってくる。酷い時は着ているドレスを台無しにされることもあった。
理由は単純だ。
エーリッヒの婚約者だから。
ただそれだけでヘルミーナは社交界デビューする前から、未婚の令嬢から目の敵にされ、数々の嫌がらせを受けてきた。
名前も知らない令嬢から謂れのない中傷を受け、皆の前で侮辱された。
おかげで社交界は今やヘルミーナにとって苦痛な場所でしかなくなった。
「遅くなったね、帰ろうか」
それでもエーリッヒの所に絶えず送られてくる招待状のせいで、ヘルミーナは多くのパーティーに足を運ばなければいけなかった。
人気者である彼の為に。
エーリッヒは壁の花になっていたヘルミーナに腕を差し出してきた。
その時でさえ偶然見ていた令嬢から批難の声が上がり、睨みつけられる。
──自分より劣っている癖に。
それは何度も言われすぎて、改めて傷つくこともなくなった。
社交界デビューする前は住み慣れた邸宅や、生まれ育った領地という狭い世界の中でしか過ごしてこなかったから、自分が他の人より劣っているという感覚がなかった。
でも一気に拓けた世界へ飛び込んだ瞬間、ヘルミーナは思い知らされた。
自分は平凡だ、と。
それが原因で婚約者のエーリッヒは周囲から同情されている、と。
初めて知った事実に、ヘルミーナの自尊心はズタズタに切り裂かれた。
以来、彼女は深く心を閉ざし、笑うことも滅多になくなった。
「……まったく、あの侯爵夫人もいい加減にしてほしいものだ」
「────」
テイト伯爵家の紋章がついた紺色の馬車に乗り込んだとき、先程まで優しくエスコートしてくれたエーリッヒは態度をがらりと変え、ヘルミーナと護衛の騎士がいる前で乱暴にソファーへ腰を下ろした。
馬車は何事もなかったように走り出したが、中の空気は異様なほど冷めきっていた。
「また僕に今の婚約を破棄して、自分の娘と婚姻しないかと迫ってきた」
「そう、ですか」
「慰謝料を肩代わりするとまで言われたが、相手は火魔法の一族だ。彼女たちは気性が荒くて、水属性の僕とは相性が良くないというのに」
困ったものだ、とエーリッヒは嘆息した。だが、その顔には優越感が滲み出ていた。
領地を持たない子爵家の長男に、侯爵夫人自ら声をかけてきたのだ。
心が揺さぶられても仕方ない。
けれど、エーリッヒはどんな条件を提示されてもヘルミーナとの婚約を破棄する気はないようだった。
「ところで、ミーナ。今日のドレスは少し露出が多いようだ。次はもっと地味なものにしてくれ」
「今日のドレスはお母様が用意して……」
「口答えは無しだ。僕には必要以上に話しかけるな。必要以上に近づくな。婚約者としての役目を果たしてくれるだけでいい。そう約束したじゃないか」
それは一方的な約束だった。
ヘルミーナは隣に座る騎士がエーリッヒの態度に動こうとしたのを感じて、反射的に騎士を手で制するとエーリッヒに向かって頭を下げた。
「……次は、そのように致します」
「女性は従順な方が好かれるよ。君は他の令嬢と比べて自慢できるところなんかないんだから」
「…………」
「ああ、でも魔法の技術だけは磨いておいてくれ。君と僕の間に生まれてくる子供に影響が出たら困るからね」
エーリッヒは紺色の瞳を細め、薄い笑みを浮かべた。
二人の婚姻まで一年を切ると、エーリッヒは最近獲物を狩るような目で見るようになってきた。ヘルミーナはその目が苦手だった。背筋がゾクッとして震えが止まらなくなる。
彼の元に嫁ぐのが急に怖くなるなんて、昔はそんなことなかったのに。
一体、いつからそうなってしまったのだろう。
「わかり、ました」
震えているのが気づかれないように、ヘルミーナは自分の体を抱きしめながら頷いた。
素直に応える婚約者にエーリッヒは満足そうに顔を歪めた。