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「ヘ、ヘルミーナ嬢……っ!?」
突然ぼろぼろ泣き出すヘルミーナに、カイザーは椅子から立ち上がった。
余程慌てていたのか、彼は下がっていた使用人を呼び、屋敷中のタオルを掻き集めてくるよう命じた。
しかし、それはアネッサによって止められた。
その間もヘルミーナは嗚咽を漏らし、カイザーはただ狼狽えることしか出来なかった。
これが討伐戦では数十頭の魔物を一人で焼き払ってしまう男とは到底思えない。
親友の慌てふためく様子を微笑ましく見守っていたルドルフは、にやりと笑って助言した。
「抱き締めてあげたらいいんじゃないかな?」
「ば……っ、そんなこと出来るわけないだろ!?」
「泣いているレディを慰めるのも騎士の務めだよ?」
尤もらしい理由を作ってやると、カイザーは(確かに)と納得して、泣きじゃくるヘルミーナを見下ろした。
彼女がここまで泣くのは、今まで泣くのを堪えてきたからだろう。
堰を切ったように溢れ出す涙には、幾度となく傷つけられてきた痛みが含まれていた。
公爵家の跡取りなのに、社交界は妹任せで碌に目を向けてこなかったから知らなかったのだ。
いつも会場の隅に現れるヘルミーナが、社交界でどんな目に遭っていたのか。
なぜ、皆が綺麗に着飾っている中、誰よりも質素な格好で化粧や宝石も身につけずにいたのか。
自分には好ましく映った姿も、ヘルミーナにはそうしなければいけない理由があったのだ。
……愚かだった。
カイザーは小さな体を震わせながら泣きじゃくるヘルミーナに手を伸ばし、そっと自分の方に引き寄せた。
「今だけ、ヘルミーナ嬢を守る騎士だと思ってほしい。貴女の泣き顔を誰にも見られたくない」
「……っ、う、ぅ」
抱き寄せた体は力を入れたら壊れてしまいそうで、何度も触れる指先から力を抜いた。
一方、大きな手に包まれたヘルミーナは、すぐに離れようとしたが、そうすることが出来なかった。
それだけカイザーの温もりがとても心地良かったのだ。
この優しさに縋るべきじゃないと分かっているのに、結局突き放すことはできず、ヘルミーナはカイザーの腕の中で声を上げて泣いた。
盛大に泣いたヘルミーナは、その後アネッサと侍女の手を借りて化粧直しに向かった。
彼女が戻ってくると、カイザーは椅子から転がり落ちそうになった。
随分時間が掛かっているとは思ったが、まさかドレスまで着替えてドレスアップしてくるとは思わなかったのだ。
首謀者はアネッサだろう。
「どうですか、お兄様」と訊ねられたが、カイザーは美しく着飾ったヘルミーナに言葉を奪われ、答えがすぐに出てこなかった。
それを「変だ」と言う意味に捉えてしまったヘルミーナは、「やはりおかしいですよね、着替えてきます!」と逃げ出しそうになった。
カイザーは必死で弁解してヘルミーナを留まらせたが、ルドルフとアネッサから向けられた視線は冷たかった。
ヘルミーナが椅子に着いてから暫く、カイザーは彼女の姿に見惚れていて他の会話が全く耳に入ってこなかった。
ルドルフはどうやらヘルミーナに、今後の身の振り方についていくつかの選択肢を提案していたようだ。
光の属性が宿った彼女は王族と同等か、それ以上の存在になる可能性がある。
どうしたいか決めるのはヘルミーナだが、今まで通りというわけにはいかないだろう。
自然と身の安全についての話になった時、それまで大人しかったカイザーはいち早く反応した。
「今後については、暫く考えさせてください……」
「分かった。だが、君の身の安全を考慮し、王家から派遣した騎士を護衛に加えてほしい。ご家族には私が説明することにしよう」
「……承知しました。宜しくお願い致します」
「ルドルフ、ヘルミーナ嬢の護衛なら私が任されよう」
「カイザーは駄目だ」
「なぜだ!? 彼女の能力を知っている私が一番適任だろ!」
「一週間も休んでいる男が何を言っているんだい。さっさと仕事に復帰して私の補佐をしてくれ」
自分こそが適任だと意気込んだのに、カイザーは呆気なく撃沈した。ルドルフの「何を言っているんだ、お前は?」な顔がまた癪に障る。
しかし、悔しそうに歯軋りしてもカイザーの要望が通ることはなかった。
そのことに誰よりもホッとしていたのはヘルミーナだが、カイザー本人が気づくことはなかった。
「そろそろ時間ですわね。ヘルミーナ、今日は色々ごめんなさいね。でも楽しかったわ」
「こちらこそ有難うございました、アネッサ様。ルドルフ殿下も、私をお導き下さり感謝致します」
「気にしなくていい。さて、カイザーはヘルミーナ嬢を馬車までエスコートして──」
「言われなくてもそのつもりだ」
一通り話が終わった頃。
ルドルフが言い切らない内に、カイザーはヘルミーナの横に立って手を差し出していた。
その素早さに、ルドルフとアネッサは口元を引き攣らせた。
最後にドレスを広げて挨拶をしていったヘルミーナは、案内された時と同様にカイザーにエスコートとされ、温室から出て行った。
「──考えさせてほしい、か」
ヘルミーナとカイザーがいなくなった後、アネッサと二人になったルドルフは、絶えず光を放っている聖杯の口を指先でなぞった。
侯爵家のパーティーに出席した時、目の前で起きた出来事がにわかには信じ難かった。
屋敷には魔力を無効化する魔道具が設置されていた。王族の能力を込めた魔法石で発動している道具である。
だが、ヘルミーナはルドルフの前に来るまで魔法を維持していたのだ。
親友の想い人だとは思わなかったが、ルドルフもまた彼女の存在を無視出来なくなった。
「焦らせてはいけないわ。彼女の心の傷はあまりに深いの。けれど、ここでヘルミーナ自身が自分と向き合わなければ、今までのように命じられたまま従って生きていく人生を歩んでしまうわ」
「……さて、どうしたものか」
聖杯から指を離したルドルフは椅子にもたれると、何を思ったのか護衛の騎士を呼んだ。
近づいてきた騎士は、ルドルフに命じられて黒い布で覆われた箱を運んできた。
「ヘルミーナの婚約者については私に任せてくれないかしら」
「いいのかい?」
「ええ、勿論。侯爵夫人が婿養子に考えているようだけど、英雄気取りの勘違い男を我が一族に加えるつもりはないわ。それに、これまで社交界の評判を聞きながら何もしてこなかったウォルバート一族にも問題があるようですし。……彼らは見誤ったのよ」
本当に守らなければいけないのは、どちらだったのか。気づいたところでもう遅い。
彼らは一族の英雄を選択し、お荷物扱いされてきたヘルミーナを簡単に切り捨てるだろう。
アネッサが怒りに震えた手を握りしめると、ルドルフの護衛騎士が「温室は公爵夫人のお気に入りなので壊したらまずいっすよ」と言ってきた。カイザーの直属の部下だけあって怖いもの知らずだ。
「一族同士の争いは避けたいんだけどなぁ」
「選んだのは向こうだわ」
薄い笑みを浮かべたアネッサに、ルドルフは肩を竦めた。
小さい頃から知っている女性はいつの間にか、自分と肩を並べるぐらい逞しくなってしまったようだ。けれど、そうでなければこの世界では生き残れない。
ルドルフはテーブルに置かれた箱に手を伸ばし、黒い布を取った。
そこには頑丈な鉄の棒で囲まれた小さな檻があり、中には一匹の蜘蛛が入っていた。
随分弱っているが、この蜘蛛一匹で数名の騎士が殺された。
猛毒を含んだ魔蜘蛛だ。
頭でも潰さない限り死なない魔物だが、ルドルフは奇声を発する蜘蛛を見下ろし、魔法水の入った聖杯を手に取った。
「ここ数年で魔物の数が異常に増えてきている。討伐するのも厄介になってきた。彼女に、小さくも光の属性が宿ったのは偶然ではないだろう」
「ルドルフ……」
「光が輝きを増せば、また闇の色も濃くなる。聖女が現れる裏には必ず魔王の存在があった。──私達にはヘルミーナのような力が必要なんだ。王国と、王国の民を守る為には」
檻の上で聖杯を傾けると、目では見えない水が蜘蛛に降り注ぎ、蜘蛛は悲鳴を上げて瞬く間に黒い煙となって跡形もなく消えた。
近くにいた騎士やアネッサは驚きのあまり声を上げたが、ルドルフだけは冷静だった。
彼が向ける視線の先には、すでに多くの犠牲と戦いが見えていたのかもしれない──。




