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「君は先日あった侯爵家のパーティーで、魔法を使っていたと言ったね」
「……はい」
聖杯の話に戻るのかと思えば、パーティーでの出来事を蒸し返され、ヘルミーナは思わず身を固くした。
しかし、テーブルの上で両手を組んだルドルフは、悪戯を思いついた子供のように楽しげだった。
「でも、それは不可能なんだよ。あの屋敷の中で、君は勿論のこと誰一人として魔法は使えなかったはずだ」
「────……え?」
ドキドキしながらルドルフの言葉を待っていると、彼の口から出たのは思いがけない事実だった。
あの場所で、魔法は使えなかった……?
ヘルミーナが目を丸くしてルドルフを見た後、隣のカイザーと、目の前のアネッサに視線をやったが、誰も嘘だとは言ってくれなかった。
理解できずにいると、ルドルフに代わってアネッサが説明してくれた。
「王族が出席するパーティーや舞踏会では、魔力を無効化する魔道具を置くのが礼儀なの」
「無効化する魔道具、ですか?」
「ええ。王族の能力には劣るけど、余程魔力が高い人でなければ魔法は使えなくなるわ。無効化する魔道具は王宮でのみ作られていて、とても貴重で高価なの。でも、自分たちが招待した席で王族が狙われるなんてことは絶対に避けたいでしょう?」
魔道具とは魔力を含んだ石を媒体に、生活に必要な作業を補ってくれる道具のことだ。
エルメイト王国が他国より豊かで生活水準が高いのは、大半がこの便利な魔道具のおかげだ。自身の魔力は必要とせず、誰でも簡単に使えるようになっていて、暮らしていくのに必要不可欠な物だった。
ただ、魔力を無効化にできる魔道具があることは初めて知った。
ヘルミーナは教えてくれたアネッサに頷いた。
それは、これまで王族を邸宅に招いた屋敷の者にしか知り得ないことだろう。
王族が滞在する家門は決まって侯爵以上の爵位がある邸宅だった。
アネッサの言う魔道具が必要となれば、それなりに格式と財力のある家門でなければ、設置することが出来なかったのかもしれない。
「義務ではないにしろ、私たち王族は魔道具の有無を調べてから出席する先を選んでいてね。侯爵家でも間違いなく使っていたよ」
「それなのに、なぜ私は魔法を使えたのでしょうか……」
言った後にヘルミーナは口を噤んだ。
ルドルフの目が一段と鋭さを増したからだ。
一瞬、また疑われていることも考えたが、彼の表情は期待と好奇心に満ちていた。
「王族が無効化できない属性があることは知っているかな?」
「それは、……はい」
魔力を無効化できる王族は無敵に思われていたが、彼らにも弱点はあった。
ヘルミーナは(そんなはずはない)と思いつつ、震える唇で答えた。
「……光の属性と、闇の属性です」
「正解だ。光の属性は光の神エルネスそのものだから、彼らの力を無にすることは王族であってもできない。だから、光の属性を持った聖女は当時、王族より立場が上だったと言われている。そして、光の属性とは正反対にある闇属性は、王族の力を以てしても消し去ることができない」
意気揚々と話すルドルフに対し、ヘルミーナは徐々に落ち着かなくなっていた。
逃げ出すことは出来ないと分かっていても、今すぐルドルフ──否、聖杯から離れなければと思ったのだ。
無効化の魔道具が使われていたにも関わらず魔法が使えたのは、光の属性があったから? それとも闇の属性が?
どちらにしても、ヘルミーナには大きすぎる力だった。
「あの、私は……何かの間違いだと思います」
「そうかな? 私は、君にも少なからず光の属性が宿ったんじゃないかと考えているよ」
「──っ、そんなはずありません! 私はっ、……聖女様のように治癒能力もなければ浄化する力もありません。きっと何かの間違いです!」
違うと言い張るヘルミーナには、妙な必死さがあった。
光の属性が宿れば、ヘルミーナの立場は一転するだろう。
けれど、彼女はそれを望んでいないように見えた。真っ青な顔にうっすらと涙を浮かべた表情には、ルドルフの前で跪いた時のような絶望が滲み出ている。
どうか、期待させるようなことは言わないで──と、そう訴えているようで痛々しい。
「……落ち着いて、ヘルミーナ」
「君の魔法は本当に素晴らしいんだ。もっと誇ってもいいんだよ」
アネッサとカイザーに宥められたが、ヘルミーナは両手で顔を覆った。
エーリッヒに認めてもらいたくて努力してきた。少しでも彼の力になれれば、見直してくれると思ったから。
けれど、ルドルフの言う力を手に入れてしまえば、エーリッヒは絶対に喜んでくれない。きっと背中を向けて、ヘルミーナの元から去って行くだろう。
ずっと彼に従ってきたのに、一人になることを考えると恐ろしくて堪らなかった。
自分だって、エーリッヒの行いが間違っていると理解していたのに。
その時、ルドルフに「ヘルミーナ嬢」と呼ばれて両手から顔を上げた。そこには、先程までとは違い、真剣な眼差しで見つめてくる王太子がいた。
「私は王太子として、君の魔法を確かめなければいけない。だが、結果はどうであれ君が気に病む必要はない。カイザーが言う通り、君の扱う水魔法は素晴らしい。だから深く考えずにやってほしい。あの日やってくれた魔法を、もう一度お願いできるかな?」
これはお願いではない、間違いなく命令だ。
ルドルフには分かったのだろう。
ヘルミーナが見えない鎖に縛られ、自分ではまだ断ち切れないことを。だから、より強い権力を持ったルドルフが命じることで、ヘルミーナは自分の意思ではなく、命令に従ったと言い訳が立つ。今はまだ、彼女が一人で立ち上がるには弱いのだ。
ヘルミーナは暫く恐怖と期待の狭間で揺れたが、ルドルフの「何があっても君を悪いようはしない。私だって命は惜しい」と肩を竦めたのを見て、小さく頷いた。
再び聖杯を見やると、聖杯についたガラス細工が光っているように見えた。
まるで導かれている気がした。
ヘルミーナは呼吸を整え、今度は右手の人差し指を向けた。
パーティーの時はただ皆に見られないように、誰からも笑われずに済むように。
自分だけの為に作った。
「──出来ました」
作り終えたヘルミーナは顎を持ち上げて、ルドルフに合図した。
先程とは違って、水の球体が現れることはなかった。それどころか何も見えなかった。聖杯にヘルミーナの魔力が注ぎ込まれる気配はしたが、それだけだった。
実際のところ聖杯の中に水らしきものは見えなかった。光が当たっても水面が輝くことはなく、本当に入っているのかどうかも疑わしい。
しかし、それは確かに存在していた。
「これは凄い……私の能力も効かないようだ」
ルドルフが感嘆の息を漏らすと、聖杯のガラス細工から白い光が溢れ出した。
かの聖女が使っていた時は、聖杯から止めどなく光が溢れ、感動するほど幻想的な光景が見られたと言われている。
それには遠く及ばないが、優しい光だった。
「どうやら光の神エルネスは努力を惜しまないヘルミーナ嬢に、相応しい祝福をお与えになったようだ」
隣から聞こえた優しい声に振り向くと、カイザーが嬉しそうな笑みを浮かべていた。
ルドルフやアネッサもまた柔らかな表情をしていた。
刹那、彼らの期待に応えられた気がして胸が熱くなった。
光の神エルネスは見ていてくれた。
そして、認められたいという自分の願いを聞き入れてくれたのだ。
──大きな祝福と共に。
ヘルミーナは我慢できず唇を開いた。
同時に、ぽつり、ぽつりと落ちてきた水滴が頬を濡らす。それはやがて大粒の涙になって、彼女の顔をくしゃくしゃにした。




