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ヘルミーナが聖杯に向かって両手を突き出すと、杯の上空で水の球体がいくつも出現し、最後は一つに纏まってゆっくりと落ちていく。
魔力を含んだ水は一滴も溢れることなく杯を満たした。
指示通り出来たヘルミーナは安堵の息を吐いたが、ルドルフの表情は決して良いとは言えなかった。
「……ふむ。なるほど」
聖杯に入った水を暫く眺めていたルドルフは、突然右手を伸ばして杯の口を撫でるように動かした。
瞬間、パシャンと音を立てて中に入っていた魔法の水が弾けた。
それはパーティーの時に経験したものと同じだ。
王族だけに与えられた「無効化」の力。
動揺を隠せなかったヘルミーナは、しかし彼の機嫌を損ねてしまったような気がして俯いた。
今度はどんな失敗を犯してしまったのだろうか。
己が無能で、役に立たないことは誰より知っている。けれど、相手が王太子であるルドルフである以上、何かしらの罰はあるかもしれない。
強迫観念にかられたヘルミーナは、両手を強く握り締めた。
だが、横から口を挟んできたカイザーによって、それは打ち消された。
「パーティーの時にも言ったが、ヘルミーナ嬢は魔力の使い方が上手だね」
「え、あ……ありが、とう、ございます……?」
「お世辞ではなく、本心だよ。私は立場上、部下に剣術や魔法を教えているが、ここまで緻密に魔力をコントロールできる騎士はまずいない。いくら魔力があるからと言って手当り次第放つのは子供のすることだ」
王国騎士団の中で、最も攻撃力のある第一騎士団はこれまで多くの魔物討伐に参加していた。その副団長として隊を率いてきたカイザーだからこそ、彼の言葉には不思議と説得力があった。
魔力だけが重要ではない、と。
裏表のない褒め言葉に、ヘルミーナは頬を染めた。
魔力の少ない彼女が、婚約者から努力しろと言われて力を入れたのが魔力のコントロールだった。
勿論、自分だってエーリッヒと同じように覚醒が起こることを願ったこともある。
しかし、ヘルミーナの願いは光の神に届かず、少ない魔力で毎日、毎日技術だけを磨いてきた。
エーリッヒの婚約者として皆に認めてもらいたくて、努力を積み重ねてきたのだ。
──忠実に。
それがエーリッヒではない人に褒められるなんて。
嬉しい反面、虚しさが込み上がってくる。
ヘルミーナは自嘲気味に笑いそうになって、誤魔化すように意識を聖杯へ向けた。
「ですが、聖杯に入れた水が……」
「ああ、何も言わず能力を使ってしまってごめんね。先にきちんと説明しておくべきだったよ」
ヘルミーナは何も入っていない状態に戻った聖杯に、ルドルフの顔色を窺った。
すると、ルドルフは拍子抜けしてしまうほど軽い感じで謝ってきた。
「全くだ。お前はいつも言葉が足りない」
「カイザーはもっと王太子である私を敬うべきだと思うよ。ヘルミーナ嬢と私に対する態度も違うし、言葉遣いも酷いじゃないか」
「私に首輪を付けるだけじゃ飽き足らず、妹まで奪っておいて何を言っている」
「それは仕方ないさ。私だって最初は妹のように可愛がっていたが、これほど素敵なレディに成長したアネッサを私以外の誰が幸せにできると言うんだい。ねぇ、アネッサ?」
「……お兄様もルドもいい加減にして下さいませ。ヘルミーナが困ってしまうわ」
ルドルフとカイザーの口喧嘩がアネッサに飛び火し、ヘルミーナにも火の粉が飛んできて慌てた。
他の一族が嫉妬するほど、王家とレイブロン公爵家の仲が良いことは知っていたが、次の世代も間違いなく固い絆で結ばれそうだ。
とくに今度の王太子夫妻は歴代の中でも一番のおしどり夫婦になるかもしれない。
ルドルフに愛を囁かれて、平然を装いながらも耳まで真っ赤に染まっているアネッサを見てヘルミーナは羨ましくなった。
──好きな人に愛されたら、皆あのような表情になるのだろうか。
柔らかな笑みを浮かべるアネッサに眩しさを感じて、自然と目を細めた。
自分にも、いつか。
「それじゃあ、話を戻そうか」
「お願いします」
……本当にそんな日が訪れるのだろうか。
愛し合う二人を前に、ヘルミーナは今まで振り返ることなく抑え込んできた気持ちが溢れてくるのを感じた。




