番外編「原石は解き放たれるのを待つ」
ヘルミーナは、朝ドレッサーの前に座って鏡に映る母親を見るのが好きだった。
数人のメイドに囲まれ、小瓶に入ったいくつもの化粧品によって母親の顔がみるみる美しく仕上がっていき、魔法のような技で髪が結い上げられる。
ただ、それを見ているのはいけないことのような気がして、鏡越しに母親と目が合うと、気恥ずかしくなってしまう。けれど、気になって見ずにはいられなかった。
「奥様、今日のネックレスとイヤリングはこちらになさいますか?」
「そうね、ドレスの色に合わせてそれにするわ」
メイドは宝石箱を開いて、水色の宝石がついたネックレスとイヤリングを取った。それは小さな頃から見慣れている宝石だった。
自分の髪や瞳に良く似た色の宝石は、自分たちの領地で採れるアクアマリンだった。ヘルミーナはその宝石が好きだった。
「お嬢様も成長したら、このような宝石をつけて舞踏会へ行かれるんですね」
「そうね……。今から心配で胃がひっくり返りそうだわ」
当時、まだ婚約者もいなかったヘルミーナは、舞踏会がどういうところか分かっていなかった。
ただ、自分もまた母親のように着飾ってもらい、美しい宝石を身に付けて出掛けられる日が来るのだと喜んだ。
「でも楽しみではあるわね。私の化粧品をいつも遊び道具にしてしまうお転婆娘が、どのようなレディに成長してくれるのか」
早速、台に置かれた化粧品を手に取り、床で転がし始めた娘を抱き上げて、母親は肩を竦めた。
本当に誰に似たのか。目を離すとすぐに悪いことばかりしている。これでも厳しく育てているつもりなのに、周囲が甘やかせてしまうので効果はいまひとつだ。
「大丈夫ですよ、奥様。お嬢様はきっと立派なレディに成長されます」
盲目的に可愛がっている使用人たちの言葉は信用ならないが、母親はヘルミーナの手から化粧品を取り上げつつ「そうであることを願いたいわね」と苦笑した。
★★
「────ヘルミーナっ! 貴女はまたそのような格好で歩き回って……っ!」
十年後──。
テイト伯爵領では、ほぼ毎日のように伯爵夫人の雷が落ちていた。
叱りの声を上げた先では、母親の期待とは裏腹に、元気にたくましく育ったヘルミーナがいた。十五歳になった彼女はスカートを膝までたくし上げ、庭先を裸足で歩いていた。
見つかってしまった、と首を引っ込めたヘルミーナは、恐る恐る母親の顔色を窺った。
「怒らないでくださいませ、お母様。セルジュたちと水魔法の練習をしていたら、頭からかぶってしまったのです」
「貴女がまたおかしな練習を教えていたのでしょ!? って、こら、待ちなさい! ヘルミーナ……!」
メイドが持ってきたタオルを受け取ると、ヘルミーナは急いで逃げ出した。昔から足だけは速い子だった。
その光景を眺めていた使用人たちは必死で笑いを堪える。ここで笑ってしまったら伯爵夫人に睨まれてしまうからだ。それでも微笑ましい光景に、笑みがこぼれてしまった。
一方、母親に捕まらず逃げてきたヘルミーナは、同じくびしょ濡れになった弟妹の元に戻ってきた。
「姉上、お母さまの声が聞こえました」
「怒っていましたか?」
歳の離れた弟と妹は、ヘルミーナが持ってきたタオルに包まれると、心配そうな表情で見上げてきた。まだ幼い子供たちは、母親が仁王立ちになっているだけで恐れるものだ。
しかし、ヘルミーナは口元を持ち上げて「大丈夫よ」と言った。
「三人一緒に叱られれば怖くないわ!」
叱られるようなことをしなければ良いのだが、お転婆が過ぎて叱られるのが日常茶飯事になると、今は堂々と叱られるようにしている。
おかげで、えらそうに叱られているヘルミーナを見て、使用人たちはやはり笑いを堪えなければいけなかった。ある意味、拷問だ。
「分かりました、姉上!」
「お姉さまがいれば、こわいものなしです!」
胸を張って言い切る姉の姿に、弟のセルジュと、妹のエヴァは尊敬の眼差しを向けた。
ヘルミーナが生まれた後、彼らが生まれるまで間が空いたのは、伯爵夫人がヘルミーナのお転婆ぶりに悩まされ、しばらく子供はやめておきましょうと言ったとか、言わないとか。伯爵家一の問題児である。
「それじゃ訓練の続きをしましょう」
弟たちの水気を拭いてあげたヘルミーナは、庭園の端にある木の前に立って両手を掲げた。
魔力のコントロールを学び始めた弟たちに、時間があれば教えてあげると約束したヘルミーナは、まさに今訓練中だった。
頭上で水の球体を作り、木に向かってぶつける。
魔力量は少ないため威力はない。だが、美しい球体を作り、狙った場所へ正確に飛ばす技術は伯爵家でもヘルミーナが最も優れていた。
弟たちは「すごいー!」と、飛び跳ねながら喜んでくれた。
ヘルミーナは「次はセルジュとエヴァの番よ」と立っていた場所を弟たちに譲った。
セルジュは緊張しつつ、エヴァはやる気に満ちた顔で、それぞれ姉のやり方を真似て両手を持ち上げる。しかし、二人が魔力を練ると、歪な形の球体が現れた。水魔法によって作られたそれは、丸い形を維持できず波を打っている。
だが、ヘルミーナから比べて魔力量の多い二人の球体は大きく、崩れた形のまま木に向かって放たれた。セルジュの放った水の球体は辛うじて木にぶつかったものの、エヴァの水魔法はあらぬ方向に飛んでしまった。
刹那、木から飛び出してきた黒い影がエヴァの放った水魔法と接触した。
「まあ、大変っ!」
黒い影の正体を目撃していたヘルミーナは急いで木の傍に駆け寄った。すると、一匹のリスが地面に横たわっていた。セルジュたちも駆け寄ってきて、ヘルミーナと一緒にリスを見下ろす。
「どうしましょう、お姉さま……! わたしのせいでリスさんが……っ」
「だ、大丈夫よ! すぐに動物のお医者様に連れて行きましょう」
自分のせいで被害にあったリスを見て、エヴァが今にも泣き出しそうな顔でしがみついてきた。
ヘルミーナは両手でそっとリスを持ち上げ、妹を泣かせないためにはリスが無事であることを願うしかなかった。
「どうか、無事であって……!」
祈る思いで念じると、両手の中でぐったりとしていたリスが突然跳ね起きて、周囲を見渡すとヘルミーナの手を離れてそそくさと別の木に登って行ってしまった。
一瞬の出来事だった。
呆気に取られた三人は、リスが駆け上がっていった木をしばらく眺めていた。
「……気を失っていたふりをしていたのかも」
「ぶじでよかったね」
下からほのぼのした会話が聞こえてきてヘルミーナは自分の手を見下ろした。妹を泣かせたくはなかったが、リスは間違いなく瀕死の状態だった。無事であってほしいと思う反面、助からないかもしれないという気持ちもあった。
だが、リスは次の瞬間には復活して元気に走り去ってしまった。不思議なこともあるものだ。
ヘルミーナが首を傾げると、離れた場所から母親の呼ぶ声が聞こえた。この声を無視したら、今度こそ長時間に渡って厳しいお説教が待っていそうだ。
「お母様が呼んでいるから戻りましょう」
ヘルミーナは手を下ろして、セルジュたちに声を掛けた。まだまだ訓練をしていたかったセルジュたちは不満そうな顔を浮かべるも、ヘルミーナが両手を差し出すとそれぞれ手を握ってきた。
仲良く手を繋いだ三人は、母親の待ち場所に向かって歩き出した。
翌日、伯爵家の庭師が庭の手入れをしていると、一か所だけ雑草が伸びきっている場所があった。
そこは昨日、ヘルミーナたちが魔法の訓練をしていたところだ。
「おっかしいなぁ。つい最近、この辺りの草を刈ったばかりだっていうのに」
一日で育つはずもないのに、元気に揺れている雑草を見下ろして庭師は首を捻った。
その頭上では一匹のリスがどんぐりを頬張っていた。




