泉 鏡花「逢ふ夜」現代語勝手訳
泉鏡花の「逢ふ夜」を現代語訳してみました。
本来は原文で読むべきですが、現代語訳を試みましたので、興味のある方は、ご一読いただければ幸いです。
「勝手訳」とありますように、必ずしも原文の逐語訳とはなっておらず、自分の訳しやすいように、あるいはずいぶん勝手な解釈で訳している部分もありますので、その点ご了承ください。
浅学、まるきりの素人の私が、言葉の錬金術師と言われる鏡花の文章をどこまで現代の言葉に置き換えられるか、非常に心許ないのですが、誤りがあれば、皆様のご指摘、ご教示を参考にしながら、訂正しつつ、少しでも正しい訳となるようにしていければと考えています。
(大きな誤訳、誤解釈があれば、ご指摘いただければ幸甚です)
この作品の現代語勝手訳を行うに当たっては、「鏡花全集 巻十三」(岩波書店)を底本としました。
上
路地にかたかたと、小刻みで忍びやかではあるけれど、どこか蓮っ葉な駒下駄の音がする。と、木戸際の闇に腕組みをして、ひったりくっついて立っていた男は、ふっと柔らかな霞に包まれたように……身を引き締めた両肩の緊張も解け……夜露に冷たい袖にも、ほんのりと梅の香が通うように思った。
秋も半ば、午後七時を過ぎて、婦も二十五を越しているというのに。
……その足取りに思い出した。
そのまだうら若かった十九の春、……日の暮れ方、男が微酔いで年始の挨拶にやって来た。親しくしている人は後回しにして、ゆっくり、という気持ちなのだろう。
女は羽子板を袂に懸けて、相手が欲しそうに、両側の小松に隠れて、この裏通りの向こうの湯屋に早くも燈が灯ったのを、日が短くて物足りないと、得も言われぬ顔をして覗いていた。正月三が日を大事に持たせた水の垂れそうな高島田の、三日目頃の、ちょっとほつれた美しい姿である。
ト、男を見ると、見迎えの会釈に、黙って、目の縁をほんのり赤らめ、羽子板を胸に抱くや、八ツ口をひらりと翻し、襟足が雪のように白い、すっきりした背後姿を見せて、
「母さん、兄さん(*相手の男のこと)が」
で、カタカタと、路地を右側の中ほどに駆け込んだものだっけ。
……つい、その時の足音を、今ので、ぎゅっと音〆(*三味線などで弦を締めて音の調整をすること)を聞くように思い出した。
通う千鳥の辻占は、行くのも、来るのも恋路である。
駒下駄がカタリと留まると、すっと痩せぎすな肩を出して、仄かに白く差し覗いた顔は、艶っぽく細って、また、哀れに窶れている。
「可いのよ」
「構わない?」
「ええ、ずぅっとお入んなされば可いのに」
「そう気軽にはいきませんよ。店に人でも居ると悪い」
と低音で言う。路地の、やっぱり中ほどに、ぶわりとした、頼りない灰色の暖簾から漏れて射す電燈がそれで、この婦の弟が屋台で鮨を売っている……。
両側の長屋は真っ暗で、皆寝静まっている。
音の沈んだ陰気な電車が、細い行き抜けの大通りを、星が流れるように走ると、風が颯と通って、柳は揺れないけれど、微かに暖簾が戦ぐ。……
「大丈夫よ。今頃食べに来るのは、皆近所の若い衆や、お店の人たちですもの」
「なお悪い。……口が煩いから」
「何、構うもんですか、知れると恐い旦那なんかありゃしませんですよ」
「その代わり借金だらけだ」
言われて、
「可厭ねえ」
と、しょんぼり俯く。トくっきりと襟が白い。
実は大病だったので、親許へ帰って養生して、もうこれくらいにまでも快くなったが、まだ完全には治りきっておらず、寝たり起きたりの状態で、抱え主の方へは帰っていないから、その義理があって、男とは晴れて逢うこともままならないのである。
そんな事情を、優しい実の母親が気を利かせて、今夜なども何処か近所の目立たない鳥屋の奥二階辺りで密と逢ったのである。その帰り際、
「貴方がお好きだから、今日はね、朝から支度をして、新栗で『ふくませ(*煮物)』を拵えておいたのよ。……宵に逢おうって誘って下すった時、お茶うけに上げましょうと思ったけれど、これからお酒をあがるのに、先に甘いものはいけませんから、出さないでおきました。帰りがけに寄って頂戴」
「母様や小児たちはもう寝たろう。狭い所を気の毒だ」
「ご遠慮は無用ですよ」
「持って来りゃよかったのに」
「だって、おかしいんですもの。……ねえ、お寄んなさいな、お家へ来たって、まだ時間は可いわ」
と、こんな会話が交わされて、その店を出て、柳と塀と、軒燈と、土蔵の壁を行く時、人目を気にするように、時々分かれて歩行いたのが、この路地口へ来ると、婦が躊躇わず、つかつかと入った後を、男は遠慮して木戸口で待っていたのであった。
「入らっしゃいな、誰も居ない」
と、先に立って、地内に祭った小さな稲荷堂の前を、婦はちょいと拝んで通った。
暖簾越しに、男が
「松ちゃん、前刻は」
「や、お帰んなさいまし」
松次郎という弟が、浴衣の上へ紺の細縞の筒袖を着て、向こうの台に腰を掛け、小鰭の鮨の酢の香の中、笹の葉色をした柳の下で、屋台の上のたった一つの蛍のような電燈と、寂しそうに睨めっこをしていた。
「さあ、どうぞ」
「お邪魔しますね」
「どういたしまして……」
横に折れると、別についている出入り口の格子戸が……差し当たり誰に遠慮もなさそうだが、それでも慎ましく細めに開けた心遣い。その癖、いそいそと気が急いたか、ちょっと粗雑な形の駒下駄が土間に……。
下
出入り口から直ぐに上がり框になっていて、梯子段の下に、ただ一間、狭い四畳半がある。向こうの壁の前に爐(*囲炉裏)が切ってあって、店を仕切る障子の隅に、帳場を兼ねて小児たちが復習する小机が据えてある。
そこに座蒲団が直してあった。
「松ちゃん、涼しくなりましたね」
「めっきり、どうも」
と、肩越しに向けた顔は、ふっくりとして、姉の二十歳の頃の面影がある。
「景気はどうです」
「へい、ぼつぼつ」と、莞爾する。
婦が二階から、みしみしと、その細く、力のない、病み上がりの身体にも響くのではないかと思われる音がして、盆にも乗せず、慎重に蓋茶碗を持って下りて来た。そして、その机の上に乗せ、自分は爐の向こうへ、疲れたようにくの字に座った。飲んではいけないと言われている酒を内緒で、男の相手をして、五、六盃、久しぶりに口にしたので、寝ている二階の母親の前を、酒臭い息を吐かないようにと一生懸命、我慢をしてきた、その呼吸づかいがうっすらと乳の透くような胸へ響く。
突然手を出すのを、
「お待ちなさいよ」
と、繻子の帯をぎゅうと言わせて、紙入れを抜いて解く。と、楊枝を細く長い指で、『ふくませ』に二本刺す。
「これは有り難い」
と、一口食べる。
「旨しくって? ねえ、旨しくって?」
婦は嬉しそうな笑顔で、
「中の方を、あれさ、お露のある所を」
「中も下も、皆食べらあね」
と、ひそひそ語り合う。
「姉さん、お茶が沸いています」
「あいよ、有り難う」
と、茶棚から茶碗を取って、男の背後を、一段低くなった、店の板敷きの方へ足を運ぼうとした、その時、浅く冷たく友染の暖簾が掛かった所に、どしどしと路地を踏む音。
ひらりと婦が姿を躱して、壁際に隠れた時、暖簾を上げて、赤ら顔の髭面をぬいと出したのは、でっぷりと肥った中山高の帽子を被った紳士。
毛むくじゃらなのがこちらからよく見える。丸々とした太い手で、前に並んでいる鮨を一つ引っ攫まんで、
「鮪を握ってくれい」と言う。
目はきょろきょろと射るように奥を透かして見越すから、男は机に肱をついて、中を覗かれないようにと、ぐいと障子に胸を入れた。
「見えやしませんよ、暗いから」と、密と言った。
店先では、
「身体はどうかい」
もしゃもしゃと舌の音を大きく立てる。ト、それを聞いて、婦は慄気としたように肩をすくめた。
「へい?」
と、松次郎が斜交いになって、すかすかと握りながら、怪訝そうな目色をして、
「どうもしやしませんです」
「うんや」
ひちゃひちゃと舌舐めずり。
「病気はどうじゃときくんじゃが。貴様ん許に娘が居るじゃろ。何へ……出て居る。……姉か?」
「へい、どうもはっきりいたしません」
「不可んなあ、どうじゃ、ちょっと様子を見てやろうか。……ああ、俺は酔ってはおらんぞ。医者だ」
「あの(*花街の)頭取よ……」と、男の耳へ、爐を膝で越しながら、肩を抱くようにして囁いた。――男は黙って頷く。
「へい」とだけ返事を返して、松次郎はニヤリと笑う。
「うむ、見舞うてやろう、俺が来たと言うてくれい。そう言や分かる。何は、……居るじゃろう」
「ですが、もう寝ましたよ」
「寝床で可え」
「否、母親だの、大勢寝てますから。また昼間でもお出で下さいまし。……ですがね、姉は病気のせいか、何だか他人さまにお目に懸かることを嫌いましてね、へい」
その時、楊枝を上へ取ると、婦のも同じ栗に刺さっていたので、一緒にスッと宙へ上がる。目を見合わせて、莞爾笑うと、言い合わせたように、黙って落ちた。それを見た婦は、もう、擽られたように身を揉んで、男の膝へ、前髪を冷やりと伏せた。
後で路地口で別れた時は、その店ももう閉まっていた。
婦は木戸の扉に凭れるようにして、男の背を眼で追いながら、ふらふらと、路地の内から別れ難い胸の思いと共に戸を鎖したのであった。
男の姿は見えない。が、声を掛けてみようと、木戸にひったりと顔を当てて、
「済みませんがね、……私が内へ入るまで、そこで見ていて下さいましな。小児の時からお馴染みなんですけれど、暗いとお稲荷さんの前が恐いんですから」
古い木戸の懸金が壊れているので、お長屋中の約束で、手頃な石を拾い上げ、秋風に弱く撓う両手で圧して、木戸の戸の根へひたりと着けた。
男は外から、密と一つ、軽く叩いて、トンと言わせ、
「心細いなあ、そうされると」と言えば、
「可いのよ、貴方の力で圧せば開くのよ」
(了)
鏡花の文体は、いわゆる時制(tense)が絡まっていて、(これは私だけかも知れませんが)一読しただけでは、「ん?」となって、流れを理解しにくいことが多いです。
この作品もそうだったので、勝手訳を行う際に、流れが分かるように、余計な言葉を加えている部分もあります。私の読み方が違っていたら、ご指摘下さい。
この作品は現在「青空文庫」にはありませんが、ネットで探せば、全文が読めるサイトもありますので、興味のある方は検索してみて下さい。
そして、是非、原文を読んでいただき、繰り返して言っていますが、私の拙い現代語とは次元の違う鏡花の繊細な文体に触れて欲しく思います。