34話 君の中の思いは色褪せてもⅥ
「お帰りなさいませセドリック殿下、エドゥアルド殿下と面会は出来ましたか?」
「間が悪く不在だった、後日日を改め…いや事前に申し込んでから面会する。先方の都合に合わせて面会の日取りを決めてくれ」
「はい、それと―――」
「気分が悪いから部屋で休む、昼食もいらない、火急の用事なくば誰も部屋に寄越すな」
「かしこまりました」
出迎えた執事の言葉を遮って、セドリックはまるで頭痛か吐き気に襲われているという表情で、誰も部屋に近づけるなと言い終わると、少し覚束ない足取りで自室へと向かう。
その後姿を見守る執事は、ヴァレリーは能面のように表情を変えずにただ『まだ発作が残ってる』と、冷静にセドリックの様態を分析する。
ここは王家がイリアンソスに所有する別荘の一つで、大きさはエドゥアルドが住んでいる屋敷の半分程度の広さだが、日頃の激務を癒す為の保養所という側面もあり、精神的なバランスを崩したセドリックに静養させるにはうってつけの場所でもある。
彼は表向き、というより風聞としては停学、実際は謹慎処分を下されここへ、療養という体で押し込まれたのが、マリアローズ達が入学する前、年が明ける前だった。
その間の医者や世話人の手配は、この地に深く根ざし何より多くの傑物を育て上げた実績を持ち、王太子と元宰相の恩師であるアンダーソン男爵に一任され、彼の支援を受けながらの療養は着実にセドリックの精神を安定させた。
十一月に入ればすぐに謹慎が解かれる予定で、そのことから自分の不在の折に随分と好き勝手に動き回る叔父へ、宣戦を布告すると同時に腹の内を探ろうと、数か月ぶりの外出をしたのが数時間前。
結果は思い通りにいかず、何より自分の感情の起伏を自分の思った通りに抑える事が出来ない、という事実を痛感する羽目になり、今でも愚直な気質は変わっていないので、そのことを噛み締めて気を静める為に、セドリックは自室へ引きこもる選択をしたのが先程である。
ただ顔色が悪いのは、これ以外が原因だった。
というのも、あの悲しそうな、下男の表情が酷く心に突き刺さり、強い罪悪感を抱いてしまっていたから、初対面の面識のない筈の少年の涙を流す姿が、脳裏に焼き付き自分の心を酷く締め付ける。
だというのにその相手にまるで見覚えが無い。
この不明瞭な感覚が不快なので、セドリックは気分が落ち着くまで誰かに当たり散らす事の無いよう、自室に引きこもる選択をした。自らの心の虚に漬け込まれて、汚く染め上げられても、根っこの部分だけは代わっていなかった。
そんな彼の胸中は業務上、知らなくても差し支えないヴァレリーは、他の普通の亜人や、ルサールカとルッツフェーロが山脈の外から新しく送り込んだ魔族の使用人に伝え、カリギュラから任せられている仕事へと戻る。
愚かを極めながらもその救いようのない気質と悪質にも噛み合った異能を、まるで制御する気の無いアリスと、肩書や経歴だけは立派な老害達に胃を痛めつけられたアンダーソン男爵が、ちゃんと療養に励んでいるか監視する仕事に。
その前にセドリックの監視と、この別荘に『口約束だけど婚約者だから!』という理由で入り浸っている、獅子身中の虫と同義語のようなアリスの監視は、自分の先輩でもある兄弟子に引き継いで行くのを忘れずに。
「面倒…あんなのでも異能があれば特別に遇される。どうでもいいけど、委員会が壊滅したのは、そんな体制を続けたからよね。まあ今の私はどうでもいいけど……機会があれば害虫は駆除する必要は、あるわよね」
ヴァレリーはそう小さな声で独り言を口遊む。
害虫とは?流れとして言うまでもないがアリスの事である。
以前は良き理解者だと思い、彼女の甘言に踊らされたヴァレリーだったが、目前に迫っていた死の恐怖からの解放、混血児という束縛からの解放によって、倫理観だけでなく物事の捉え方も変わっていた。
つまりアリスを、文字通り獅子身中の虫として、いずれは駆除すべき存在として認識するようになっていたのである。
そして自分がどう思われているかなど、まったく考えない自己中心的な思考だけで動くアリスは、セドリックの精神が安定したという朗報を、今更になって使用人達の世間話から知り、なら会っても問題はないだろうと結論付けていた。
さらに久しぶりの外出で疲れ気分を悪くし、何やら落ち込んでいるらしいと話も聞いてしまったので、誰かに請われた訳でもないのに不可思議な使命感も抱き、にここは自分の出番だ!と身勝手な使命感を胸に廊下を歩く。
「セディ―が落ち込んでるなら、ここは口約束でも婚約を結んだあたしが励ます!出来る女って感じだわ、さあ待っててセディ―」
鼻息荒く、使命感を胸に歩く姿はお世辞にも軽やかとは言えなかった。
というのも、ヴァレリーを唆した頃と比べて明らかにふくよか、もしくはふくよかを幸いにも、まだ僅かに通り越した辺りなのである。
以前はアンダーソン男爵の監督によって、強制的に節制をさせられれいたが、ここ数年は監督する者が入退院を繰り返しているので、自制の出来ないアリスは案の定、肥えて太ってしまい。
その姿はまさにタヌキ、無害そうなタヌキ顔なのである。
だから歩く姿に軽やかさは無く、動き一つ一つに教養の乏しさを感じさせ、少年のように粗野に大股で歩く。監督する者がいないというだけでこのありさまだったが、最近は見るに見かねた者達が、率先して監視役を務めている。
「何やってんすか?殿下には近寄るなって、アンダーソンの旦那から言われたっすよね?」
「っひ!?……もう、ベルナップ!驚くから急に出ないでよ」
「鋭角あるところに自分ありっすよ、で…何してんすか?もう一度言うっすけど、アンダーソンの旦那から言われたっすよね、殿下には近寄るなって」
唐突に、まるで鋭利な角から這い出たかのようにアリスの後ろに現れたベルナップと呼ばれた、若干小柄で猫背な、全体的に鋭利な顔立ちの執事服を身に纏った青年は、苛立ち混じりの声でアリスに問い詰める。
「何って、殿下が落ち込んでるんでしょ?だったら、そこはあたしが励ます!分かった?」
「……ちっ」
舌打ちをしたベルナップはこれで何度目の釘差しなのだろうか?と自分に尋ねる。と同時に誰の所為で、セドリックが精神のバランスを崩したのか?という呆れも脳裏に過る。
失態に次ぐ失態からの大失態。
しかし異能者であるというだけで許される実情が、ベルナップをもういいや、という結論に導き、明らかな変容が始まる。
それはタコが擬態を解くように、もしくは無理やり押し込んだ服がタンスからはみ出すように、ベルナップの体の一部が鋭角の何か異様な生物に変容する。
「千害あって涅槃寂静の利なしっすね…涅槃寂静は分かるっすよね?一応、そっちの世界の単位っすからね」
「っ!知らなわいよ!?何それ必殺技!?ね、ねは…ねはじゃなんたら何て知らわないよ!」
「ゼロよりもさらに少ないって意味らしいっすよ、自分の師匠のカリギュラの師匠の、先代カリギュラから聞いたっす。ゼロよりも少ない言葉があるのだから、才能がないだけで失望する必要は無いって」
「ええと、つまりカリギュラの師匠の言葉って事よね?それと、私に危害を加えようとしているのは?」
「…?そりゃあ、涅槃寂静の利もないっすからよ」
そう言い終わるとベルナップは変容を続けながらアリスに近づき、後ろからさっと現れたヴァレリーの手刀を、後頭部に無防備に受けて悶絶する。軽い手心しか加えれていない手刀は、いくら眷属でも普通に痛い。
「はあぁ…このやり取りは何回目?不要になるまで我慢なさいって、カリギュラ様やアンダーソン様に言われてるでしょ。それにこんなの食べたらお腹が内側から腐るわよ」
「大丈夫っすよ、自分悪食なんで、これくらいなら余裕っすよ。それと何か引き継ぎっすか?」
「ええ、これからアンダーソン様の所へ行くからあとをお願い。それとあれを食べる時は、お腹を壊さないように私の毒で消化が良くなるように溶かすから、その時まで待って」
「いや~食べるなら骨ごと肉をバリバリやりたい派っすよ自分、気持ちは嬉しいっすけど、ああいう根っこが既に腐り果ててるのはこれ以上柔らかくしたら歯ごたえが無くていやっす、まあその時まで我慢するっすか、それとかしこまりっす」
許可が下りたら自分をどう食べるか?
そういう話をにこやかにしながらも、生真面目に仕事の引継ぎを進める二人の精神性を理解することが出来ないアリスは、自分から注意が逸れた今が好機だと、何でここまでベルナップが怒っていたのか理解しようともせず、そそくさとセドリックに会う事を諦めて、自室へと逃げるのであった。
 




