11話 黒衣の来訪者
僕は馬鹿だ、二階から一階の入り口が見えていたのに……。
誰も表の入り口から入って来ていなかった、なら音は裏口から聞こえてきたと判断できたはずだ、なのに馬鹿正直に駆け足で走って階段を下りるなんて、気づいて立ち止まったけど半分まで下りてしまっている。
皆は荷物の受け取りに行っている。
だから宿舎には誰もいない、それに隣の建物との間に隙間は無く宿舎にはお店側からしか入口がない、何故なら宿舎の後ろにも別の建物が建っているからだ。
宿舎には誰もいない、それは間違いない。
朝、皆を見送った。途中で誰かが先に帰って来ていたら二階と一階を行ったり来たりしている時に気づく、何より聞こえて来るのは忍び足で慎重に警戒した足音だ、お店の人でそんな歩き方をする必要のある人物はいない。
つまり泥棒か最悪、人攫いだ。
僕が今まで二階に住んでいたのは人攫いを警戒しての事だと昨日、女将さんから聞かされた。アーカムは年々治安が悪くなっていて、子供の誘拐事件が時折起こっている、だから引っ越しをリーリエさんが最後まで反対していた。
「…クソ」
自分の迂闊さが憎い、盛大に僕が居ますよと足音を立ててしまった。
泥棒なら足音が聞こえた時点で逃げ出している筈だ、逃げないのなら人攫いの可能性が高い。
僕の存在は侵入者に確実に気付かれている人攫いなら逃げる前に捕まえ様とする筈だ、けど僕が立ち止まると足音が急に聞こえてこなくなった、これはつまり立ち止まって様子を伺っている?なら、まだ逃げるチャンスがある!
「……」
僕は息を殺して一歩ずつ後ろ向きで階段を上る。
隠れれる場所は?自分の部屋は?子供を狙った人攫いなら必ず入念に調べる筈だ、あそこに隠れるのは自殺行為だ、なら隣の休憩室は?さして変わらない!事務所は?金銭目的の線もある、金庫がある以上は危険だ、なら物置だ!!
「!?」
僕は振り返って走ろうと思った瞬間、ゾッという悪寒を感じてすぐに立ち止まって後ろを振り向いた。
そしてそこには黒い外套を纏った男が立っていた。
危なかった、振り返らなかったら僕は捕まっていた。
さっき止まっていたのは僕に逃げ隠れする暇があると思わせる為だ、振り返らずに走っていたら後ろから一撃を受けて昏倒させられ攫われていた、今そこで男が止まっているのはたぶん必死に逃げていると思っていた餓鬼が、自分の存在に気付いて振り返っていたからだ。
男は僕を警戒して様子見に徹している。
どうする?時間はない、たぶん皆が帰って来るまでに仕事を終わらせ様とする。
考えろ、何か手がある筈だ。
「―――!」
男が構える。
僕がポケットに右手を入れて何かを探る仕草をしたからだ。
選択肢は一つ、敵の虚を突いて騒ぎを起こして助けを呼ぶ。
幸いな事に僕が一人で留守番している事を警邏官に伝えるとお母さんが言っていた、それにこの街の警邏官はとても仕事に対して情熱を燃やす素晴らしい人たちだ、騒ぎを起こせば駆け付けてくれる可能性が高い。
さて、そろそろ時間が無くなって来た。
2歳の幼児に警戒を強いられた所為か、男に明らかな苛立ちが見えた。
先に動いたら負け、なんてよく言うけどこの場は先に動いて主導権を奪う!
「死んでも知りませんよ!!」
僕がポケットから手を出そうとした瞬間、男が恐ろしい速さで動いた。一瞬で距離を縮めた。投げる暇も無い一瞬の出来事だった。
外套のフードの下から見えた顔は酷く醜い顔でゴブリンですと名乗っても通じる程に醜くそして勝ち誇っていた。
だからこそ。僕は言うのだ、馬鹿めと!
手を伸ばした先には僕はいない、最初から投げるつもりは無い。投げる暇も与えずに捕まえようと全力を出したのが失策、僕の狙いは全力を出して視野が狭くなった瞬間に態勢を低くしてその横を擦りぬけ一気に駆け抜けることだからだ。
そして男が僕を追い掛けようと振り向くその瞬間、子供どころか幼児に一杯食わされて判断力が鈍り焦るその瞬間も僕の狙いさ!
「ひぎゃああああああ?!」
どうだレモン汁の目潰しは、眼球で新鮮なレモンの味をしっかり味わえ!
「あ?!ああ!?あぎゃああ!?」
そう、ポケットに入れていたのは投げる為の物ではなく後でレモン水を作ろうと思ってポケットの中に入れていた、切ったレモンだ。
朝ご飯に添えられていたレモンをポケットに入れていてよかった。
そう焦りから考えも無しに、無防備に振り返るその瞬間の僅かな隙が僕の狙いだった。幼児からレモン汁を盛大に目に向けて浴びせかけられるなど、誰が想像しようか。
男は思っていた以上に悶絶している、これなら正面から大通りに出られる!と思ったら耳元でヒュン!という音がしてトン!という音と共にナイフが床に刺さる。
目が見えない状態で正確にナイフの投擲、悠長に鍵なんて開けてたら殺される!
「ちくしょう!」
僕は思わず悪態を付いて裏口に向けて走る、二回も死因が同じとか洒落にならないよ!
裏口は予想通りに閉まっていない、宿舎に誰も居ない以上は中庭側から人は来ない。逃走ルートを確保する為に開けっ放しにしていたのは明らかに失策だ。男は思っていた以上に間抜けなのかもしれない。
僕は中庭に出た瞬間、眩しくて目が眩んだ。だけどすぐに助けを呼ばないと…。
「たす――」
お腹に衝撃を感じて声が出なかった、何が起こった分からず思考が止まってしまった。そして飛ばされて地面に叩きつけられて何が起こったか分かった、蹴り飛ばされたのだ。
憎悪、男の目に憎悪に満ち溢れていた。
「この糞餓鬼…攫って来いと言われているが…はっ!五体満足でとは言われてなかったな!」
酷い声だ、フードが外れて露になった男の顔は醜悪を極めてているのに、声が耳障りな程に高く裏返っていて、より一層不気味に思えた。
「どうせ、変態貴族に売られるんだ…今切り落としても後で切り落としても…同じだ……」
男が近寄って来る。
動けない、お腹を蹴られて苦しくて息が出来ない。地面に叩きつけられて体も痛くて動かない。
「安心しろ、殺しはしない…」
嘘をだな、その目を僕は知っている。
父さんと同じ目だ、人を殺す事を決めた人の目だ。
殺される。
嫌だ。
死にたくない。
誰か、助けて、誰か、死にたくない。
まだ、何も返していないのに、まだ何も出来ていないのに、まだ一緒に居たいのに……。
「お…かあ…さ…ん……」