パン
イシスはしたたかだ。王女が「今日はパンを焼かない」と言うまで、「パンを食べよう」とは言わないし、言わせなかった。もし王女が先にパンを食べたら「このパン私も焼いてみたい!」と言って、パンを焼く事になっていただろう。自分の意のままに王宮を操る・・・イシスが野心家だったら大変な事になっただろう。野心家じゃないからこそ信用を得たのかも知れないが。
そして「昼に来い」と言った理由は、食の細い王女が昼にパンを食べるようイシスは仕向けていたのだ。
王女と一緒に昼食を食べる。主食のパンはグレースが持って来た物だ。
「失礼します」とイシスは王女が食べるパンをちぎり、口に含むと簡易的な毒見をした。
別にイシスがグレースを信用していない訳ではなく、毒見をすることは王族へのエチケットのようなものなのだ。
こういった行動の違いは「文化の違い」「時代の違い」「身分の違い」として気にするべきではない。逆にグレースが卵を数秒間熱湯に浸すのがイシスには儀式的に映っていた。この世界の鶏は抗生物質の投与はされておらず、サルモネラ菌の殺菌のためには卵の表面の殺菌をしなくてはならなかったのである。グレースにマヨネーズの作り方を伝授された料理人は「まず湯の中に卵を入れて『美味しくできますように』とお祈りをする。あまり短すぎてもお祈りの効果はないし、長いとゆで卵になってしまう」と認識していた。
コレラやペストが「悪魔の病気」と言われ、細菌やウィルスが認識されていない世界なのだ、ある程度の常識の違いは「そんな物かもしれない」と、気にしないほうが生きやすい。
一口パンを食べた王女は驚きの声を上げた。
「こんなに柔らかくて白くて美味しいパンを食べたのは初めて!」
王女は歓喜し叫んだ。
この少女が喜ぶと何でこんなにうれしいんだろう?何でこの可愛い少女に惹かれるんだろう?
もしかして、これが恋?こんなオッサンがこんな少女に?いや今はオッサンじゃないけど・・・。
よく考えたらこの歳まで恋愛をしてこなかった。という事はこれが初恋?
グレースの主人格が呆れている。女の子との恋愛はしたくないらしい、が好きになってしまったものはしょうがない、と思っているようだ。「好きなんて感情は制御できるものではない」というのがグレースの持論だ。16歳の少女のほうが恋愛については先輩なのだ。
まあ男女の普通の恋愛であっても、王族との恋愛は成就しにくい。だからグレースの主人格は王女への恋慕の感情に何も言わなかったのかもしれない。この感情が恋愛感情かどうかはわからないけど。
しばらく談笑し帰る時間になった。
「次は必ずパンを焼きましょうね!」
王女が次の約束をした。次はお菓子を焼いて持ってきたいな。砂糖って簡単に手に入るんだろうか?
「それと私の事はヘラと呼んでね?」王女は上目遣いで言った。
「それでは『ヘラ様』と呼ばさせてもらいますね」よし!王女の名前を聞きだしたぞ!
「こうやってパンを御馳走になったからお礼をしないと。何か欲しい物はない?」王女はグレースにきいた。
「欲しい物って言っても・・・オムレツを作れる小さなフライパンと、お米と砂糖くらいしか欲しい物ないですし・・・」グレースは王女の申し出に断ったつもりだった。
しかし家に帰ろうとしたグレースは王女の爺やから大量の米と砂糖を受け取り、後日フライパンを届けると約束をした。
こうして休日の王宮訪問は終わった。
その頃、食堂に置いたパンを食べた国王付きの侍女が、パンの話を国王にする。
グレースは本人が知らないところで国の最高権力者に覚えられたのだ。