脳内会議
午前中はシチューに火を入れながら、パンをひたすら焼いた。
せっかくパンを焼いて王宮に持って行くので、職場のみんなにも食べて欲しい。
それに「一緒にパンを焼きたい」と王女は言っていた。出来るだけ王宮と同じ条件でパンを焼けるように予行演習をしておきたい。
バスケットの中がパンだらけになった頃、そろそろ用意しなくちゃいけない時間になった。
社会人になってから私服で外に出るのは初めてだ。というか学生の時には制服を着る事が多かったので、私服を着るのは久しぶりだ。
どんな服を着れば良いのか・・・しばらく考えたが「王女に合わせた方が良い。王女と同じ『女の子っぽい格好』にしよう」という結論に達し、コーディネートする事にした。
ヒラヒラした格好をした時、心の底から抵抗感がわいてきた。恐らくこれはイシスの趣味だ。イシスはグレースにこの格好をさせたがって、これを着たグレースを想像しながらこの服を縫ったのだろう。でもあまりにも自分の趣味ではなかったので、この服に袖を通したのは数回しかない。イシスがあまりにも不憫だ。
よし、今日はこの服を着よう。ぶっちゃけ女の子の服なんてどれが良いかわからない。だったらイシスが喜び、王女に合わせられるこの服が良いに決まっている。グレースの主人格が不平不満を言っている。よっぽど着たくないらしい。でもそれを言ったら女性の服を我慢して着ている俺に一つくらい譲ったってバチは当たらないだろう。着て行く服が決まった。あとは化粧だな、って化粧!?だって化粧なんてした事なかったじゃん!グレースがしないだけでこの世界では年頃の娘はプライベートでは化粧をするらしい。というか化粧は服の仕返しだろ!普段化粧なんてしないじゃん!しょうがなく化粧を手に取ると、体が覚えているのか鏡に向かって薄化粧を始めた。ここでも「可愛いメイクが良い」のか「大人っぽいメイクが良い」のかグレースの主人格と俺の間で意見の対立だあったが、「可愛い服に大人っぽいメイクは似合わない」という事で、主人格が折れた。ピンクのルージュを薄く軽く引きながら思う。
思った以上に不便がない。人格が二つなくても二つの考え方で迷う事はあるし、主人格も俺も「他の人の考え方がすぐに聞けて便利だ」と思ってさえいる。たまにこうやって意見が対立する事があるが、「自分のために言った事」はあまりマイナスにならず、意見の対立はむしろ歓迎すべきものなのだ。特に男性と疎遠で奥手なグレースの主人格にとって「男の意見を聞ける貴重な機会」を得た、という事はうれしい事なのだ。
弱火で煮ていたシチューの火を止める。
ガスもIHもない世界で、火を着けっ放しで出かけるワケにはいかない。
煮込めば煮込むほど美味しくなるとは思うがしょうがない。
戸締りをすると王宮へとグレースは歩きだした。