その三 遺言
§
――御家中が、揺れる。
一夜明けて。
御方様の御容態は落ち着いておられるとの事で、昼前に今いちど玄安殿に診て頂いて、奥向に戻る事が可能かどうかの判断を仰ぐ事となった。
今日は、若殿の初七日の御法要がある。
御方様も御臨席の御予定であったが終日の安静を言い渡されているため叶わず、また御館様も御憔悴甚だしく床から起き上がるのもままならぬ御様子との事で、若君おひとりで全てを取り仕切られる事となった。
その席上。
若君より、若殿の御事を今後『涼泉院殿』の御院号でお呼び申し上げるべしとの御触れが出された。
そして、御方様の御懐妊についても、正式に公表された。
既に昨日から今朝のうちに噂は御家中を駆け巡っていたらしく、皆しんとして若君のお話に耳を傾けていた。
が。
「御子は兄・涼泉院殿の御遺子ゆえ、和子であれば当家後嗣と成し、成人まで私が後見の任に就く。皆も左様心得るよう」
若君のその御言葉が終わるか終らないかのうちに、皆がざわめきだした。
あちこちで口々に何かが囁かれているのが、判る。
若君はその場の喧騒を意に介さぬ風で
「ではこれにて散会とする。皆、大儀であった」
きっぱり仰って、座を立たれた。
正念寺から戻る途上、若君は一切無言であられた。
後に続く我ら近習衆も、皆無言だった。
御館に帰り着いたのは昼過ぎだった。
留守居の者から、昼前に玄安殿が来て御方様の御様子を拝見し、奥向までの移動であれば支障はないと言われた事と、それを受けて御方様が先程奥向に戻られた旨、報告があった。
半日ぶりで御自分の御居間に戻られた若君が、烏帽子の顎紐を解かれた。
すかさず後方に回って烏帽子を外しながら
「何故にあのような事を仰せられましたか!」
つい強い口調で申し上げてしまった。
若君は相変わらず、黙ったままだ。
「御方様御懐妊の件はともかく、御後嗣の事に言及されるなど時期尚早にござりまする!如何に若殿の……涼泉院殿の御子とは申せ、赤子を御後嗣になど、得心がゆかぬ者も少なくはござりますまい」
辺りに誰もおらぬを幸いと、遠慮のない意見をぶつける、と。
「……御遺言、だ」
ぼそりと、ちいさな声が落ちた。
「御遺言?」
咄嗟に意味を掴み兼ねて、問い返す。
「兄上の御遺言だ。琴島は義姉上御所生の御子に継がせたい、と」
「若殿が……」
そのような御遺言があったとは、初耳だ。
そもそも、あのように急に御薨去なされるなど誰も……若殿御本人も、思ってもおられぬ事であっただろうに。
「何時そのような事を仰せられたのですか」
問うと、若君は瞼を閉じられて
「……義姉上御懐妊の事を打ち明けられし折に」
抑揚のない口調で、仰せられた。
それは御薨去の数刻前の早朝、御二方で浜駆けをされた折の事。
あの時の事を思い出すと……今も御心が波立たれるのであろう。殊更に感情を面に表さぬように抑えておられるのが、よく判る。
「『私が琴島を継がせたいのは澪が生む子だけだ』と……はっきりと、仰せられた」
「若殿が……」
再び呟きをこぼしながら、ふと。
若殿が仰せられたという、若君の御言葉に、引っかかるものを覚えた。
何時か……何処かでそれと似たような御言葉を、耳にしたような。
『私がこの手で抱きたいのは、澪が生む子だけだ』
両の腕で、目の前の宙をふわりとくるむように抱いて。
そう仰せられたのは確か、御家中の方々に『御世嗣を得るために御側室を』と言われた折の事。
十五で御元服の後に初陣を飾られてから、これまでの間に、若殿は幾度か御館様の御陣代として近隣の騒乱の折々に出陣されている。
いずれもさほどの争い事ではなかったが、戦は戦。何時何処で御討死なされぬとも限らぬ。
そのゆえに御家中では一日も早い御世継御誕生が待ち望まれていた。
だが若殿には、御側室を置いてまで御子を望むおつもりはなかった。
御出陣の都度、若殿は
『私に何かあれば、琴島を頼むぞ、柑次郎』
くれぐれも、と若君に言い置かれてゆかれた。
万が一の事があっても、まだ弟君がおられる。それゆえにそうまでして焦る事ではないと思うておられたのではないか。
だから。
『私が琴島を継がせたいのは澪が生む子だけだ』
というのは、御側室ではなく御方様の、という意だ。
跡目は若君でなく御方様の御子に、という事ではない。
その事を御指摘申し上げようと、若君のお顔を正面から見て。
……開きかけた唇を、ぎゅっと噛んだ。
これ以上ない程に真率な表情で、若君は私を御覧になっておられた。
「そなただから話した。他には言わぬ。要らぬ混乱を招くだけゆえ」
その御言葉で、若君のお気持ちを悟った。
若君は、若殿の御言葉の御真意をきちんと把握しておられる。それが判らぬ御方ではない。
その上でなお、若殿と御方様の御子を御世嗣に、と仰せられておられるのだ。
それはもしや、御方様御所生の御子に琴島を、というのが、若君が直に耳にされた若殿の最後の御言葉ゆえか。
はからずも御遺言となってしまった兄君の願いを、何としても叶えてさし上げたいと思うがゆえに、であろうか。
若君のお気持ちは、痛い程に解る。だが。
「若殿の御遺志に沿われたいと思召される若君のお志、まことに尊いものと存じまする。されどやはり御後見の事は如何なものかと案じられまする。申すも畏れ多い事ながら太守様の……湯月の御家の御先例もござりますれば」
その昔、伊予国主・河野家では今回の琴島と同様、時の御当主の御薨去の折に御正室が身籠っておられ、御当主はもしその子が男子ならば器量次第で後に家督を譲るようにと弟君に御遺言なされたという。
その後御当主になられた弟君は御遺言を忠実に守られ、兄君の御遺子である和子様が御成長の後に御家督を譲られた。
弟君御自身は全て御納得の上での事だったようだが、弟君のお子様方を始め周囲はそれを不服に思い、以降何かにつけて嫡流の御本家に敵対した。
予州家と称されたその御分家は、御本家と近年まで長きにわたり御家督の正統性を巡って争いを重ねられ、御家中では混乱の余波を未だに引きずっていると聞く。
今の太守様(河野通直)は御嫡男の法雲院殿(河野晴通)と御家督の事で争われ、一時は居城である湯月城を追われるような形で国主の座を譲られたものの、思いもかけぬ法雲院殿の御早逝で再び御当主となられた。
その折の争いは単に御家中のみならず近隣諸氏や周防の大内氏も絡んだ激しいものだったため、近隣諸氏の間では、法雲院殿が太守様の御実子ではなく実は予州家からの御養子だったのでは、という疑念が持たれている程だ。
若君の義理の祖父君にあたられる太守様に関わる事を申し上げるのは畏れ多いが、あまりにも身近にある深刻な事例ゆえに、御不興を買うのは覚悟の上で口にせずにはおられなかった。
無論、若君もその事は御存知であられるはずだ。
と、若君はお怒りになられるかと思いきや、意外にも口許を綻ばせて
「叔父が甥を後見する先例ならば、何もそのような昔の事でなくともごく身近にあるぞ」
さらりと仰せられた。
「百島の喜兵衛殿(村上高吉)や、能島の少輔太郎殿(村上武吉)の事、そなたも存じておるであろう?」
「……あ」
「どちらも幼い折に父御を喪われたが、叔父御の後見を受けて当主となられた」
その御二方は、どちらも亡き若殿とほぼ同じ御年で、それぞれの島を総べておられる。
百島殿は御当家と同じく因島御本家の御連枝。父君が御本家に反旗を翻して敗れ、一時百島から落ちのびられたが、その後叔父君の御尽力で御本家と和解し晴れて御家を継がれた。
若殿と同じ仮名の能島殿は、長年の能島御家中の家督争いを叔父君の御後見の下で戦い抜き、先頃ついに御当主の座に就かれた。
詳しくは知らぬがどちらも御幼少の折に騒乱の中で父君を喪われたものの、叔父君の手によって辛うじて難を逃れ、長じて家督を継がれたと聞いている。
「いずれの叔父御も傑物と評される方々ゆえ、家督を巡って乱れる家中を取りまとめつつ、幼い甥御を見事な後嗣として育て上げられた」
しみじみとした口調で仰せられた後
「到底、私如きの及ぶ所ではないと、解ってはおるがの」
そう付け加えられた若君に対して、返す言葉に詰まった。
今のお話を伺うて、なお御後見の件を否定するのは、若君がその御器量において百島殿や能島殿の叔父君方には及びもつかぬと断じるようなものだ。
しばしの沈黙の後
「……狡うござりまする」
辛うじてそれだけ返すと、若君は黙られたまま、口の端ににやりと笑みを浮かべられた。
それ以上はもはや何も言えず、私は口を噤むより他なかった。
若君は何事もなかったかのように
「さて、これから何かと忙しゅうなるぞ。まずは滞っておる執務を片付けねばの。太三郎、ついて参れ」
そう言って、廊下へと出られた。
は、と短く応えて、後に続きながら。
『私を黙らせる事は出来ても、御家中の方々は……そう容易くは参りませぬぞ、若君』
口に出来ぬ懸念を、心の内から若君の背に向けて、投げかけた。
おそらく早晩、御家中は揺れる――。
§§
貞盛の懸念が現実のものとなるまで、そう時はかからなかった。
祐良の発言を受けた家老職四名は協議の上で、祐良の意向に従う旨を確認した。
もし敦良存命中に男子出生を見ていればその時点で世嗣とされ、このような場合であっても変更はないはず。それゆえ、澪乃の出産を待った上で結論を出すという事に衆議一決した。
これで方向は定まったかに見えた。だが、家中の混迷はそこから始まった。
異論が上がったのは、若手の家臣達の間からだ。
戦乱続きの昨今の状況の中、赤子を世嗣とするのは心もとない。それよりは父や兄と共に内政に参画してきた祐良が自ら後嗣となり家督を継ぐのが順当であろう、というのが彼等の主張であった。
どこからかぼつぼつと上がり始めたその声に、祐良を最も身近に見てきた祐良の近習達がこぞって同調した事で、若手の者達の間に祐良支持の意見が一気に拡がった。
主だった重臣達は嫡子相続を物の道理とし、一方で若い者達は現実的な対応策を求めて。
両者の齟齬は日を追うごとに深まっていった。
家臣諸家にも様々な思惑がある。敦良の遺子と祐良とどちらが家督に就くかによって、家中の勢力図が塗り替わる。
当初は祐良と家老職の意向に皆が従うかと思われたが、若手家臣からの異議の声が高まるにつれて、中堅以上の家臣の間にも表立ってこれに賛同する者達が現れた。
若者達も全てが祐良を推していた訳ではなかった。
敦良の近習衆は亡き主の代わりにその遺子に仕えこれを盛り立ててゆこうと意気軒昂である。
これに同調する若手も決して少なくはない。
こういう折に家中の齟齬を抑え鎮める立場であるはずの当主・久良は、敦良の急逝以降、長年思わしくなかった病状が更に悪化して、床から出られぬ日々が続いていた。
久良の容態の悪さが、後嗣問題のもつれに拍車をかけた。
口にするも畏れ多い事ではあるが、そう遠くないうちに御代替わりとなるやもしれぬ。これは単なる御後嗣の選定ではなく、近いうちいずれの御方を琴島家八代目御当主として推戴するか、という喫緊の課題なのだ、と……誰もが認識していた。
花を散らせた桜の木々が萌え出る若葉を青々と茂らせる頃には、もはや家中の混乱は収まりがつかぬ様相を呈していた――。