その二 涕泣
§
――御方様が御懐妊なされておられる、と?
玄安殿を同道して急ぎ御館に戻ると、式台の所で待機していた朋輩の今岡勝二郎に、若君の御居間に案内するようにと言われた。
奥向ではなく若君の御居間に御方様を運び込んだのだという。
それ程に切羽詰った御容態なのかと……とにかく玄安殿を一刻も早くお連れせねば、と焦る私に、横から勝二郎がこそりと囁いた。
「御方様、どうやら御懐妊の御様子」
と。
御館へ戻る道中、玄安殿が言っていた事を思い出した。
『若殿御薨去の折、御方様は些細な事と仰せられておったが、やはりどこぞ御具合がお悪かったのか』
もしや。
若殿は……御方様御懐妊の御診立てを依頼するために、あの日玄安殿を御館に呼ばれたのか。
若君の御居間の、閉じられた襖の向こうに声をかける。
「玄安殿をお連れ致しました」
「こちらへお通しを」
由紀江様の声がして程なく、襖が静かに開いた。
中へ入る玄安殿の背からふと視線を外した際、襖を内側から開けてくれたひとと、目が合った。
門の前で見掛けた時以上に難しい表情を浮かべている巳乃殿が、軽く頭を下げるのに、こちらも礼を返す。
多分……彼女の目に映っている己が顔も、似たようなものであろう。
玄安殿が御方様を診ている間、他の朋輩達と若君を囲んで別室で待機していた。
誰も、一言も発しない。若君も。
先程勝二郎から聞いた話によると、私が御門前から駆け出して行った後、御方様を御館内に運び込む際に若君が『義姉上は御懐妊中ゆえ手荒に扱わぬように』と仰せられたのだそうな。
という事は、その場に居た数名はその御言葉を耳にしている。
御方様を運び込んだのが奥向ではなく若君の御居間ゆえに、御館内の皆がこれは只事ではないと思ったであろう。おそらくあの場に居合わせた者に問う者達は少なくないはず。
もはや、御方様御懐妊の件は少なくとも、御館内には知れ渡っていると見るべきだ。
室内に漂う、重苦しい空気。
若君はともかく、朋輩達は皆、同じ事を思っているに違いない。
――それがまことならば、若君の御身辺も御家中も、今後落ち着かぬ事になるであろう……と。
そして、程なくして。
玄安殿より、御方様御懐妊の診立てが伝えられた。三箇月程だという。
ただこの所の御心労に加えて、馬で御帰館なされた折の不安定な揺れが御身体の御負担になったらしく、御流産の怖れなきにしもあらずとの事で、一両日中の安静を指示された。
若君は顔面蒼白の態で、御方様の枕辺にひれ伏して馬にお乗せした事の許しを乞われ、それに対して『わたくしが自儘に館を出たのがいけないのです』と御方様が恐縮されて。
御二方とも思い詰められた御様子でいらせられるのを玄安殿が、お腹の御子に障りは出ておりませぬゆえ落ち着かれませ、と取り成してどうにかその場を収めた。
もはやお目にかかる事が叶わぬ若殿の……忘れ形見の御子が、御方様のお腹にいらせられる。
今まではただ、予想の外の事態をどう考えたらよいのかと、それだけで頭が一杯だったが。
御流産の怖れ云々の話の後で、ともあれ御子は御無事の御様子と伺って、改めてその事に思い至り。
何とも言えぬ感慨が、胸の奥から込み上げてきた。
一瞬の後。
感傷に浸りきれぬ現状に、再び思いを馳せた。
今後、おそらく御家中は揉める――御後嗣の座を巡って。
ふと、目を上げた時。
こちらに顔を向けていた巳乃殿と、ほんの一瞬、視線が合った。
……彼女はすぐに、目を伏せた。
巳乃殿はこの事を、存じておったであろうか。
御方様御側付として今、何を思っているのであろうか――。
その晩は、御方様は御安静にとの事で奥向に戻られる事は叶わず、若君の御居間で休まれる事になった。
若君の御寝所は御居間の次の間だが、流石にそこで就寝する訳にはゆかぬと、若殿が御生前使われていた御居間に移られた。
今宵は宿直の役に当たっていたので、私もそちらに御供した。
御寝所の設えを整えた後、若君の御就寝の御支度の介添をしながら
「御方様はどちらにいらせられたのですか」
先程から気になっていた事を、問うてみた。
こちらの御居間に入られてからずっと、黙ったままでいた若君は
「……琴路ヶ浜に」
寝間衣に袖を通しながら、ぼそりと言葉をこぼした。
「まさか、若殿の御後を……」
館の下方から船着場まで緩く広がる琴路ヶ浜は、日中以外は殆ど人気がない。
そのような所へおひとりでなど……よもや御入水の御覚悟であったのか、と思ったが、それには若君が首を緩く横に振られた。
「私も、もしや早まった事を、と慌てて飛び出してしもうたが、お腹に兄上の御子がおるのにそのような事をなされるはずがないと、途中で思い直しての。落ち着いて探したら、浜におられた」
ならば、何故に誰にも何も仰らず単身そのような所へ、と訝しく思っていると、私の内心の疑問に答えるように
「館では泣けぬ、ゆえ、な」
ひとりごちるように、若君が仰せられた。
「……泣く?」
その言葉が示す行為が、常日頃の御方様の御様子や御気性からはひどく程遠いように思えて。
語尾を上げて発してしまったひとことに、若君が苦笑いを返された。
「皆がそなたのように思うておるゆえ、館では泣けぬのであろうよ」
「いえっ、そのような……申し訳ござりませぬ」
心の内が言葉の響きに出ていたのか。
見透かされたような若君のお言葉に、恐縮して平伏すると
「……私も、そなたの事は言えぬがの」
頭の上に、自嘲めいた呟きが降って来て。
顔を上げると、若君はくるりと向きを変えて隣の御寝所に入られた。
若君がこちらに背を向けて褥に横たわり夜具を被られるのを見届けて、襖を閉めようとして、ふと。
先程、何気なく仰せられた事を思い出した。
「今ひとつ、伺うてもよろしいでしょうか」
お休みになられる所に無礼であろうかと思いつつ、恐る恐るお声をかけると、よい、と背中越しにちいさなお応えがあったので。
「若君には、御方様御懐妊の事、何時から御存知でいらせられましたか」
聞いてよいものかどうか迷っていた問いを、投げかけた。
御館へ戻られる折に、御方様よりお話があったのかと思っていたが……どうやら、違う。
『お腹に兄上の御子がおるのにそのような事をなされるはずがないと、途中で思い直しての』
若君は、御館を飛び出された時には既にその事を御存知だったのだ。
しばし、沈黙が流れる。
やはり聞くべきではなかったかと……申し訳ありませぬ、と言いかけた、その時。
「浜駆けの折に……兄上より伺うた」
ちいさな応えが、返って来た。
「私も秋には父になる、ぞ……と」
語尾が揺れて、途切れかけて。
「……もう、休む」
お休みなさいませ、と背中にお声をかけて。
静かに、襖を閉めた。
やがて。
襖の向こうから、ほんの微かに鼻をすするような音が、聞こえてきた。
時折、気を付けて聞いていなければ判らぬ程の、ちいさな嗚咽が混じる。
聞くのが申し訳ない気がして廊下に出ようかとも思ったが、それでは宿直の役目が果たせぬ。
やむなく、襖と反対側のなるべく隣室から離れた所に、座を占めた。
『館では泣けぬ』
それは、御方様の御悲嘆を慮られただけではない、若君御自身の御心情でもあったのだろう。
若殿御薨去の直後こそ、呆然自失の態でいらしたものの……以来今に至るまで、若君は皆の前で涙ひとつ見せなかった。
御館では……皆の前では泣けぬ御二方は、御二方だけで泣いたのだろうか。
迫る夕闇がその姿を隠してくれる、誰も来ない浜辺で。
ふと。
居間の隅にある文机が、目に入った。
きちんと整頓されたそこにそぐわぬように、ほんの少し斜めに置かれている、一冊の書物。
若殿が、執務に向かわれる前に読んでいらしたものだろうか。
戻ってすぐ続きを読むつもりで、無造作に置いて出られたのやもしれぬ。
御薨去から数日、御近習の誰かが気付いて片付けていても良さそうなものなのに。
気配を殺すようにそうっと立ち上がり、文机の前に静かに腰を下ろして、それを手に取った。
古い書物らしく、擦り切れた題箋に書かれた書名の字も擦れていて判読し難い。
開いてみてすぐに、歌集だと判った。和歌が数首、書き連ねてある。
若殿は雅事にも御造詣が深くていらしたが、座右に歌集とは、と少し意外な気がした……その時。
記憶の底深くに埋もれていた事にふと、思い至った。
何時ぞや若殿が、三島明神様(大三島・大山祇神社)の連歌の会の事を口にされて、大層御興味を示されておられた、ような。
都から遠く隔たった地ではあるが、伊予国内や近隣の島々の名のある家の方々は皆、武芸のみならず教養をも磨き都の文化にも親しんでいた。それが武将の嗜みとされてきた。
昔からそのような方々が折々に明神様に集い、連歌の会が盛んに行われていたと聞く。
それが近年、伊予近海の各地で戦が続いていたがゆえに、長い間途絶えていた。
当時、太守様(伊予守護・河野通直)が三島の大祝様(大山祇神社神職)に宛てた御書状の内で、近頃は連衆が集まらず会が開かれぬと嘆いておられたとか。
そのような話を聞かせて下さったのも、確か、若殿だった。
『連歌とやら、皆が一堂に会して次々に歌の上の句と下の句を読み連ねてゆくのだとか。面白そうだの』
今少し近隣の情勢が落ち着けばいずれ再開されるであろうか、それまでに歌詠みの素養を身につけて、叶うならば連衆の端にでも加えて頂きたいものよ、と。
蜜柑の皮を剥きながら語っておられた、鶴寿丸様。
そうだ。
きっかけは蜜柑だった。
その年の大祝様からの蜜柑御献上に対する御礼の書状の内で、太守様が連衆不在を御嘆きでいらしたのだそうな、と。
明神様に御参詣なされた御館様が持ち帰られた蜜柑を手にしながら、未だ御元服前で奥向にいらした若殿……鶴寿丸様が話して下さったのだ。
『さ、そなた達も食するがよい』
『いいえ、太守様へ御献上されるようなお品、おそれ多く……ってこら千保!』
横から手を差し出して、鶴寿丸様が剥かれた蜜柑の一房を遠慮なく受け取ろうとする妹を、慌てて止めた。
『だって兄上、鶴寿丸さまがくださるのをいらないって、ごぶれいではないの?』
『いや、それは……』
だからとて安易に頂く訳にはゆかぬ品なのだと。
それを幼い妹にどう説明すれば解ってもらえるのか、自身もまだ幼くて知る限りの言葉を繋ぎ合わせてもうまくまとまらず、言葉に詰まっていたら
『兄上がみなでというんだから、みなでいっしょに食すればいいだろう?甲午丸』
妹同様にまだ舌足らずな喋り方で、松寿丸様が仰った。
『松寿の言う通りだ、甲午丸。遠慮は要らぬ、皆で分けよう』
そう言って笑っていらした、鶴寿丸様。
そう仰られても、となおも躊躇して。
『松寿丸様は弟君ゆえよろしゅうございますが、私と千保は乳母子の分際で御一緒になど』
とんでもない、と言いかけたのを遮るように
『皆一緒だ』
さらりと、鶴寿丸様が仰せられた。
『私にとってはそなたも千保も、松寿と同じぞ』
「……っ」
喉の奥から突然込み上げてきた何かを堪えようと、咄嗟に口を手で塞いだ。
『鶴寿丸さまがわたしの兄上さまだったらよかったのに。松寿丸さまはいいなあ』
事ある毎に鶴寿丸様の御前で遠慮なく言い放つ幼い妹を、無礼な事を言うなと毎回窘めながら。
……私も、いつもそう思っていた。
松寿丸様が羨ましい。
私も、貴方様のような兄上が欲しかった、と。
良い兄君だった。
きっと、良い父君にもなられた事だろう。
ずっと待ち望んでいらせられた御子の御懐妊を御方様から打ち明けられて。
その喜びを真っ先に弟君に伝えたくて、あの日、奥泊まりから戻られて早々に若君を浜駆けに誘われたのだ……多分。
『私も秋には父になるぞ』
御子のお顔を御覧になることなく。
数年前に再開された三島の連歌の会に、ついに一度も参じられることなく。
この本の続きを開かれることも、もはや、ない。
もはや、二度と――。
頬から指へと、冷たいものが伝って落ちてくる。
歌集を汚してはならぬ、と。
空いている手で、元あった通りにやや斜めに置きながら。
何故にこれが未だに文机の上に置かれたままなのかを、悟った。
……若殿の御近習衆は、おそらくわざとここに手を付けずに置いたのだ。
主の生活の痕跡を全て片付けてしまうに忍びなくて。
またすぐ戻るつもりで、読みかけの書を無造作に置いてここを立たれたあの日の……その時のままに。
「……っく」
押さえた口から、抑えきれぬ嗚咽が洩れ出そうになって。
直垂の袂を噛みしめた。
実の兄君を喪われた若君が、隣室でおそらくは夜具を被り、声を噛み殺して泣いていらせられるのに、私がここで泣いてはならぬ。
私が兄を亡くしたわけではないのだから。
若君と御一緒に、など。
『皆一緒だ』
若殿――鶴寿丸様!
§§
その夜、敦良の寝所で。
祐良は泣いた。
夜具の端を噛んで、隣室で宿直している貞盛に気付かれて気遣われまいと、声を堪えながら。
亡き兄が夜毎に見上げていたであろう天井を見ていると、来し方の兄との様々な思い出が闇の中、次から次へと駆け巡り。
抑えても抑えても込み上げて来る涙を、どうする事も出来なかった。
そして、敦良の居間で。
貞盛は泣いた。
隣室の祐良に聞こえぬように、直垂の袖で口を覆い、嗚咽を殺して。
口にこそ出せなかったが、幼い頃から心の内で兄とも慕った、憧れていた……もはや二度と会う事が叶わぬ、ここに二度と戻ることはないこの部屋の主を、思って。
文机の前の床に伏したまま、長いこと、顔を上げ得なかった。
主従共に、夜もすがら。
ただ、泣き続けた――。