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孤悲ごころ拾遺  作者: 宮ノ上りよ
第三章 渦中に立つ ~天文十八(一五四九)年・春~夏
6/18

その一 薨去

                     §



 ――若殿が、身罷られた。



 「若君!すぐに大広間にお越しを!若殿が……!」

若殿の御近習頭の、今岡左馬之助さまのすけ様が酷く慌てて若君の御居間に飛び込んできた。


 駆け付けた大広間の上段に、若殿が横になっておられた。

顔色が遠目にも、白い。

傍らで脈を取っていた奥医師の玄安げんあん殿が、やがて小さく首を振った。

「……もはや、こと切れておられます」


 馬鹿な、とか、もう一度よく確かめられよ、とか。

周りを取り囲む家臣一同が騒然とする中、若君が呟くように仰った。

「誰ぞ奥へ、火急の用とのみ申し上げて、義姉上を……」

「はっ!」

短く応えて、踵を返した。


 表と奥の境の錠口にて、杉戸の向こうに

「誰ぞ!火急の用向きにて、御方様に急ぎお取次ぎを!」

大声で呼ばわると、目の前の杉戸が開いた。妹の千保がそこに居た。

「千保!御方様に……若様より火急の御用件にて、表方にお出まし下さるようにと!」

「兄、上?」

「大至急だ!頼む!」

「は、はい」


 急ぎ足で奥へ去っていく千保の背中を見送りながら。

普段は公用中『八千穂やちほ殿』と局名で呼びかけていたものを慌てて名で呼んでしまったと……どうでもよい事を思い返した。

こういう時、決まって千保に

『大野様、今少し落ち着いて物を仰せ下さいませ』

と慇懃無礼に窘められるものだが。

千保もまた珍しく『兄上』と口にしていた。

余程私の様子が尋常に見えなかったのであろうか。

そんな事を考えていた私の視線の先に、やがて千保と共に御方様が現れた。

「大野殿、火急の用と聞いたが」

「仔細は若君より!ご案内致しまする、お早く!」

千保を後に残し、御方様を御先導申し上げて大広間へと急いだ。



 大広間の中ほどに、若君が放心したように佇んでおられた。

「若君、御方様をお連れ申し上げました」

柑次郎こうじろう殿、火急の御用とは一体……」

私と御方様の声が耳に入ったのか入らぬのか。

「義姉上……兄上が」

上座の方にぼんやりと視線を彷徨わせたまま、ちいさくそこまで仰って、若君は絶句なされた。

「若殿?」

若君の視線の先にある情景を認められた御方様の、お顔の色が変わったのが判った。

「わか、との――少輔太郎しょうたろう様……っ!」


 駆け出して行かれた御方様の後ろ姿を、若君は呆然と眺めていらせられた。


 大勢に囲まれて、若殿の御様子が窺えぬ。

ざわめくその中に入って行かれた御方様が、玄安殿に何か話しかけておられるのが、見える。

全て目の前で起こっている事なのだが……とても、現の事とは思えなかった。


 程なくして、御方様が玄安殿を伴って、こちらへ戻って来られた。

「柑次郎殿!」

「……っ、はい」

私の隣で、それまで黙ったまま立っていた若君は、御方様の叱咤に近い呼びかけで我に返られたようだった。

「この事、御館様……義父上様には?」

「え、あ……いや、未だ、何も」

日頃に似合わぬ程にしどろもどろになっている若君と対照的に、御方様は常と変わらぬ御様子で

「義父上様は本日は、お加減は如何なのですか?」

冷静に、そう問われた。

「お加減……」

若君は瞬時、きょとんとされた後

「今朝方は、幾分およろしかったように見受けられました、が……?」

何故そのような事を今聞かれるのか、といった調子で、答えられた。すると御方様が

「では、この事すぐに義父上様にご報告を!もしやお加減に障るやもしれず……念の為、玄安殿を御同道下さいませ」

有無を言わせぬ調子で、そう仰った。

と、御方様の後方に控えていた玄安殿が、おずおずと口を開かれた。

「御方様、本日は本来ならば御方様の御診立てをとの若殿の御命にて参じておったのですが、御方様にはどこぞお加減でも」

言いかけるのを制するように

「些細な事ゆえ、大事ありませぬ」

きっぱりと言い切った御方様の御表情は、微動だにせぬ、面のようであった。


 喪を秘する必要はない事を若君に確認して

「わたくしはこれより奥向に立ち戻り、皆にこの事を告げまする。後の事はまた後程」

そう仰せられて、御方様は奥向へ戻って行かれた。

顔色こそ青ざめておられたが、その口調も足取りも確かなものであった。

突然、御夫君に身罷られて、衝撃や動揺がないわけではあるまい。まして若殿と御方様は日頃より大層、御仲睦まじくいらせられたものを。

若君も、そして自分でさえも、驚天動地の出来事に何をどうすればよいのかも判らなくなりかけているというのに。

流石、とより他に、言いようがなかった。


 だが。

己が目が思い切り曇っていたという事を……この数日後に、思い知らされた。



 若殿の御葬儀は、琴島家菩提寺である正念寺しょうねんじで執り行われた。


 突然の御薨去の原因は、玄安殿の診立てによると心の臓の発作。

若殿の母君・秋陽院しゅうよういん様も御同様の病で、やはり突然逝かれたのだと……当時秋陽院様を看取られた母上が、涙ながらに話して下さった。

だが、秋陽院様はそれより以前、若君を御出産遊ばして以来病がちであられたのに対して、若殿には何の予兆もなかった。

あの日の早朝、若殿は奥泊まりから戻られたその足で若君を浜駆けに誘われた。

若殿御近習頭の今岡左馬之助様と共に私も馬で御供したが、特に変わった御様子は見られず、若君と御一緒に楽しそうに馬を駆けさせていらした。

……まさかその日の昼に御薨去遊ばされるなぞ、誰が予想しただろう。


 近々、若殿に御当主の座を譲りゆるりと御病身を養われる御所存であられたらしい御館様は御憔悴ごしょうすい甚だしく、御葬儀の間中ずっと御近習に両側から支えられながらどうにか座しておられた。

御館様に代わり、若君が御葬儀の一切を取り仕切られたが……常に頼りにしておられた御兄君を突然喪われた事が相当に御心身に堪えていらせられると、傍目にも痛い程に判った。

その中にあって、終始凛としておられたのが、御方様だった。

御館様の御体調の急変に備えて寺の一室に玄安殿を待機させ、御館様の御様子に気を配られつつ、諸事慣れぬ若君を側面から支えられ、故人御正室としての役割を見事に果たされた。

とても私と同じ齢十六の女人とは思えぬ、御立派な態度であられた。


 うららかな春の日差しを浴びながら、御近習衆に担がれて墓所へと向かう若殿の御霊柩に、境内の桜の花びらが降りしきる。

長く御病床にある御館様の御名代・御陣代として、近隣の戦にも幾度か参じ、琴島の内政をも過たず取り仕切られ、次期御当主としての貫録を十分に備えられながら……齢十八にして桜花の如く散り急がれた若殿を、惜しむかのように。



 その、二日後。


 「太三郎!馬引け!」

奥の方から、物凄い音を立てて廊下を走って来た若君と廊下ですれ違いざまに、怒鳴られた。


 何が何だか判らぬままに、若君の後について厩に走り、馬を引き出した。

くつわを着け鞍を載せ終えた私を突き飛ばさんばかりの勢いで、若君は馬に飛び乗った。

「若君!どちらへ参られまする!」

「義姉上を探しに!」

え、御方様?と。

問い返す間もなく、馬は門の外へ賭け去って行った。


 若君が消えた方角を、呆然と見送って。

ふと振り返ると、朋輩の近習達が式台(玄関)の前に立って、不安げな表情でこちらを見ていた。



 傾いた陽が、空を茜色に染めている。

春の日は短い。もう程なく辺りは闇に包まれるであろう。

馬を駆って飛び出して行ったきり、未だ戻られぬ若君の御身が案じられて、朋輩達と共に御門前に立って、御帰館を待つ事にした。


 御方様が、奥向のどこにもいらせられぬと。

奥向を訪われた若君がそれを聞いて、即座に飛び出して行かれたのだと。

侍女の誰かから事情を聞いたのだろうか、朋輩の一人がそう、教えてくれた。

門番に問うと、被衣かずきを被った女子がひとり出て行ったが、慣れた様子で軽く会釈をして通り過ぎたので侍女の外出かと思い、さほど気にも留めなかったのだと、酷く恐縮しながら語った。

中に入ろうとする者であれば、厳しく誰何する事も被衣を上げさせる事もするであろうが、外に出る者の場合、ましてそれが女子であれば、被衣の中を覗き込む訳にも行くまい。


 門の横の篝火を挟んだ向こう側に、女子がふたり、並んで立っていた。

由紀江様と……巳乃殿だった。

何時の間に出て来ていたのだろう。


 巳乃殿の姿を見るのは、何時以来の事であったか。

元服して奥向に足を運ぶ事がなくなってから、巳乃殿とは話すどころか、顔を合わせる機会もあまりなかった。

千保が宿下がりの折に語る奥向の他愛もない日常の出来事の中で、たまさか巳乃殿の話が出てくるのに、辛うじて彼女の消息を知る事が出来る程度だった。

……大抵それは、相変わらずの彼女の粗忽ぶりを伝えるものであったが。

千保はそれを楽し気に語る。決して巳乃殿を貶めているのではなく、彼女が常に誠実に懸命に務めている中でつい見せる可愛気として捉えているようだった。ちょっと手のかかる姉を持った妹の心地なのかもしれぬ。

そのようなほんの僅かな話題からも、相変わらずの巳乃殿の様子が伺えるのが、嬉しかった。


 思いもかけず同じ場に会して、せめて挨拶なりとも交わしたいとほんの一瞬思ったが。

篝火に照らされた彼女の横顔の厳しさが、それを拒絶しているように見えた。

……多分、私も似たような表情をしているのだろうが。


 日没の残照がすっかり消えた頃。

闇に包まれた、麓から館まで続く道の奥の方から、微かに馬の歩を進める音が聞こえてきた。

やがて……馬と、それに乗る人と、それを曳く人の形が見えて。


 「若君!」

「姫様!」

「御方様!」


 篝火が照らす光の中に、御方様が乗られている馬を若君が曳いて、ゆっくりと入ってきた。

門の前で止まるのを待ちかねるように、皆がわらわらと御二方を囲む。

若君が御方様を抱きかかえるようにして馬から下ろした所へ、由紀江様と巳乃殿が駆け寄った。

と。

「義姉上!」

「姫様!如何なされました!」

御方様がその場に蹲られたのが、若君の肩越しに見えた。

「大事、ありませぬ……少し気分が……」

か細い声でそう応えて、御方様が立ち上がろうとなされる。

「いけませぬ義姉上!誰か!」

肩越しに、若君が叫ばれた。

「玄安殿の許へ!急ぎ館へ参ずるようにと!」

「はっ!」


 何を思うより先に、身体が動いて。

朋輩のひとりが持っていた松明を奪うように取って、麓に向かって駆け出していた。



                     §§



 麓にある玄安の邸宅に駆け込んだ貞盛は、息も整わぬうちに再び、玄安と共に館に向かって駆け出した。

とは言え来る時とは異なり上り坂、その上往診用の道具を持っている玄安を同道するとあっては、急ぐと言っても限度があった。

咄嗟の事とは言え、馬で来なかった己の思慮の足りなさに、貞盛は内心、ほぞを噛んだ。

畏れ多い事ではあるが、若君の御馬をお借りすべきであった、と。

途上、息が上がり始めた玄安に

「お差し支えなければ私がお持ちします」

申し出て、貞盛は往診道具を預かった。


 足元がやや危うい場所で、走るのを止めて松明で道を照らしながら慎重に足を運んだ。

ゆっくり歩いているうちに息が整ってきた玄安が

「若殿御薨去の折、御方様は些細な事と仰せられておったが……やはり、どこぞ御具合がお悪かったのであろうか」

ぼそぼそと語るのを聞いて、貞盛はその折の事を思い返した。


 玄安殿はあの時確か、若殿の御命で御方様の御診立てのために御館に参じたと仰せられていた――と。


 その後の、敦良の葬送に関する一連の儀式の間、澪乃の様子に特に変わった所はなかった。

「この所の御方様の御様子を拝見していた限り、お心の内はともかく……御身体は至ってお健やかなようにお見受け致しておったのだが」

当主・久良の容態悪化に備えて葬儀の間ずっと近くに待機していた玄安は、それでもやはり澪乃の事が気になってか、注意深く様子を見守っていたのだろう。


 前方に、館の門前の松明の明かりがぼんやりと見え始めた。

「玄安殿、足元に気を付けて、お急ぎを」

玄安を促して、貞盛は再び足を速めていた。

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