その三 元服
§
――あれは、夏の初めの事だった。
黄昏時。
若君に誘われて、館のやや下手にある別邸の裏手の蛍ヶ沢で、蛍狩りをした。
別邸は元々、御家中で五代様と称されている若君の曾祖父君が御隠居の後に終生住まわれた邸で、五代様御隠居所と呼ばれている。今では主に、島外からの賓客を迎える際の宿所として使われている。
その裏手にある細い沢は、周りに木々が生い茂っていて大人は滅多に近寄らず、童達の格好の遊び場となっている。夏になると沢山の蛍の群れが行き交うので、童達の間では蛍ヶ沢と呼び習わされていた。
思いの外沢山取れた蛍を、御隠居所の少し破れた垣根の前で、虫籠から袂の括り紐を括った童水干の袖の中に移し、逃げぬようにもう一方の端を持って抑えながら。
『そなたはここで待っておれ。これを庭に放したらすぐ、戻ってまいる』
悪戯っぽく笑って、垣根の向こうに消えた若君。
都より、若殿の御正室となられる姫君様が下向され、御婚儀まで御隠居所に御滞在なされると母上から伺って。
『裏の蛍ヶ沢で蛍を採って、姫君の御慰みに庭に放して来よう。甲午丸も参れ』
他には内緒で、御隠居所に向かった。
御婚儀までは御一族の方々との御対面はない。若殿は御館様の御名代で、姫君様御来着の前日から他所の島へ出掛けていて御不在である。
未だ誰も見ていない、新たに義姉君となられる姫君様を、あわよくば垣間見たい……そんな悪戯心で、若君は蛍を庭に放つ事を思いつかれたのだった。
蛍を放して、首尾よく姫君様の垣間見が叶ったとしても、すぐにお戻りになられるであろうと思っていたのだが。
若君はなかなか垣根の向こうからお姿を現さなかった。
辺りはどんどん暗くなっていく。
奥向の侍女や門番には適当に言い繕って館を出てきたので、出来るだけ早く戻らねばならぬ。
あまりに遅くなると無断外出が母上にばれて、大変な事になる。
無礼を犯す事になるがやむを得ぬ、と。
覚悟を決めて、自分も垣根の内に入ろうと思ったその時、若君のお姿が見えた。
『若君!あまりにお戻りが遅いので案じておりましたが、ようございました』
垣根から出ていらした所へ駆け寄って御無事を確かめ、ほっとしたが、若君からは何の反応も返ってこない。
『若君?』
辛うじてお顔が識別出来る程の、薄闇の中で。
押し黙ったまま……若君は心ここにあらずといった表情でいらした。
悪戯が成功して、してやったり、という風ではない。
お仕えしてきたこれまでの年月の中、見た事のない……夢でも見ているのかと思われるような眼差しで。
『如何なされました、何方かに見咎められでも致しましたか?』
心配になってそう問うと
『玉鬘の君……いや、葵の上に……見咎められた』
『は?』
ぼそぼそと、訳の分からぬ事を呟かれて。
何があったのかとますます不安になったものの、日が落ちて闇の帳が急速に降りつつあるそこに長居は無用と、詳しくは聞かずに若君を促してその場を離れた。
月明かりだけを頼りに館へと急ぐ道すがら。
若君がぼそりと、仰った。
『義姉上は、お優しい御方であったぞ』
おそらく若君は、姫君様に見咎められたのだ。
『玉鬘の君』の意味を後で確認して、そうと確信した。
古の『源氏物語』の、主人公の源氏を取り巻く女子達のうちのひとりだという事位しか知らなかったが、『源氏物語』を持っている千保に訊ねた所
『兄上はそのような事も御存知ないのですか?如何に武門の男子と言えど雅事に全く疎いようでは、先が思いやられます』
散々こき下ろした後、それでも書を開いて当該箇所を示しながら、丁寧に説明してくれた。
源氏の養女で、類まれなる美貌の噂を聞いて求婚する男が後を絶たぬのだが、そのうちのひとりが彼女を訪なった際、源氏が悪戯心を出して玉鬘の居る室内に蛍を大量に放ち、彼女の姿を几帳越しにその男に垣間見させるのだそうな。
なるほど、だから『玉鬘の君』なのか。
普段、学問や読書よりも武芸に打ち込んでおられる若君が、王朝文学からの引用で当意即妙な御言葉を口にされる程の雅ごころをお持ちでいらせられたという意外な事実に、改めて感服した。
兄君の若殿は雅事にも優れた感性をお持ちでいらせられるが……あるいは若殿が『源氏』をお手にされている折にでも、兄君を慕われて何かと兄君の模倣をしたがる若君が、横から覗かれて御自身も目を通されたのか。
『玉鬘の君』の意は理解出来たが、『葵の上』は……さてどう考えたらよいのだろう。
こちらは猿楽(現在の能)の演目にもなっており、源氏の正室で出産直後に源氏の恋人の生霊に祟り殺される、という程度の知識はあったのだが、そこに千保の解説を加えても、何故若君がそのような事を仰せられたのか皆目見当がつかない。
千保には無論、事情は話さなかった。けれどひとりでぶつぶつ言いながらしきりに首を捻る兄が相当滑稽に映ったのだろうか
『鶴寿丸様、いえ若殿でしたら、即座に御理解遊ばされるでしょうに。兄上には『源氏』はちと荷が重すぎましたでしょうか』
日頃から畏れ多い事ながら実兄の私よりも兄のようにお慕い申し上げている若殿を引き合いに出して、嫌味たらしいひとことを残し、その場を去って行った。
そして、若殿の御婚儀当日。
夕刻の姫君様御入輿をお迎えする際の、若君の御召し物を母上から預かり、表方の若君の御居間で衣桁に掛けて細部を確認している際
『……はかなしや、人のかざせる……あふひゆえ』
庭をぼんやりと眺めていた若君が、ふっとそう呟くのを、耳にした。
千保に借りた『源氏物語』の『葵』の巻に、確かあった。
読みながら一々、千保に解説をねだったばかりだったゆえ、覚えていた。
女連れで賀茂祭(葵祭)を見物に来ていた源氏に、他の女が詠みかけた歌の一節だった。
『はかなしや人のかざせるあふひゆえ神のゆるしのけふを待ちける』
神が許してくれた逢う日(あふひ=葵)の今日を待っていたのに、貴方は他の方と御一緒で空しい、と。
そのことを思い出したものの。
それ以上、強いて考えるのはやめにした。
考えない方が良さそうだと、思ったから。
あれ以来、若君は何も仰らない。
姫君様御入輿以来、若君は兄君であられる若殿をお慕い申し上げると同様、姫君様にもよく懐いておられる。
以前は連日、兄君のことを話題にされぬ日はなかった程だったが、この頃ではそれがすっかり
『義姉上が……』
に様変わりしている。
姫君様も、梅林寺家の末の姫君としてお育ちゆえか、いきなり出来た義弟君に義姉君らしいお心遣いを見せようと精一杯振る舞われておられる様が、見ていてとても微笑ましい。
御年もひとつ違いと近く、その上に妙に気が合われるらしく、読んだ書物の話などになると時のたつのも忘れて楽しげに話し込んでいらせられる。
その様を御覧になられた若殿が
「松寿は姫にすっかり懐きおって、近頃は兄の事なぞ目に入っておらぬようだの。まるで姫の方が松寿のまことの姉のような」
苦笑しながら、少々、姫君様に妬かれる程に。
……それはまるで実の御姉弟のような、穏やかな睦まじさであった。
だからずっと、忘れていた。
考えまいとしていた事を。
だが、今日のあの表情で、思い出してしまった。
『義姉上は御自身はおひとつも召し上がられずに、私にこれを下さったのか』
若君は解っておられるはずだ。
それは、義姉としての義弟への御慈愛の情なのだと。
それを見誤る程愚かな御方ではない。だから、案ずることはないと思う。
……ないと、思いたい。
程なく、姫君様のお許しを得た巳乃殿が御文庫の目録作成の作業に加わった。
人手が増えたことでかなり進度は上がったものの、時間が足りない事に変わりはなかった。
何としても、年明けの若君御元服の前に目録を完成させねばならない。
御元服後も若君は奥向にお渡りになる事は出来る。が、これまでのように奥向で長く時を過ごす訳にはゆかぬ。
御元服の後は御館様の御次子として、御館様や若殿の日々の御政務を側面からお支え申し上げる御立場となろう。奥向にて書の目録を作る暇なぞ、おそらく寸分もない。
そして私は、元服の後は奥向に入る事なぞ許されぬ。
目録を仕上げぬままに年が明けたら……残りの作業は巳乃殿お一人に任せる事になってしまう。
それはあまりに酷な話だ。
若君御元服に向けての諸準備の合間を縫って。
若君と巳乃殿と、三人で連日、限られた時をぎりぎりまで使って黙々と作業に勤しんだ。
書に関する事以外、余計な話を交わす暇すら惜しんで、ひたすら筆を動かし続けた。
時折まとめた目録を基にして、巳乃殿とふたりで御文庫の書物の整理を行うのが、ささやかな息抜きのひとときとなった。
忙しく御文庫の中を歩き回り、あちこちに書を動かす手を止めぬまま、それでもあれこれと四方山話に花を咲かせた。
話の合間に、ふっと脳裏を掠めて過ぎる、思い。
――もうすぐ、こんな日々は終わる。そして、こんな日々は二度と来ない。
父上に『太三郎貞盛』の名乗りを内々で賜った日からずっと、元服の日が待ち遠しくてならなかった。
早く一人前の大人として御家中の皆様の端に連なりたい、そして武人として華々しく初陣を果たしたい、と。
だが、今は。
もう間もなくやって来るその日の事を思う度に……何故か心の奥が、ちり、と疼く気がした。
§§
目録が完成した三日後――年明けて、天文十七年元旦。
家中一同が見守る中、琴島館大広間において松寿丸の元服の儀が厳かに執り行われた。
これよりは松寿丸改め、琴島柑次郎祐良を名乗る、と。
近習とは申せ未だ元服せぬ身とて広間の片隅に控えながら、一同の前に披瀝された奉書に記された主の新たな名を目にして、太三郎は息を呑んだ。
諱の祐良は父である当主・久良から賜ったもの。だが仮名の方は本人の希望も考慮されたと聞いている。
蜜柑の、柑。
読みは柑子と、同じ。
一瞬の後に、まさか……な、と。
流石にそこまで考えるのは穿ち過ぎであろうと。
太三郎は己が懸念を打ち消した。
翌日、大野の邸にて太三郎自身も元服。正式に『貞盛』の諱を記した奉書を父の大野兵部から示された。
その後、当主・久良に元服の挨拶のため、初めて烏帽子を着けて父と共に館に参じると、久良より祝いの品として太刀一振りを授けられ、併せて祐良の近習頭に任ずるとの命が下った。
謹んでこれを拝受した太三郎貞盛は、単身、祐良の許に上がった。
予め貞盛が来る事を伝えられていたらしく、祐良もまた烏帽子を被り、しかつめらしい表情をして座していた。
互いの元服を寿ぎ、次いで貞盛が近習頭就任の挨拶を申し述べ、祐良が神妙にこれを受けた後。
「ああ疲れた、後は無礼講で良いぞ。由並はもうおらぬゆえ叱られる事もないからの」
にっと笑って祐良がそう言った後は、主従共に普段のざっくばらんな調子に戻って、互いの元服の儀式の事などをあれこれと語り合った。
ふっと、話が途切れた折。
「……もはや互いに後戻りは出来ぬな、太三郎」
宙に視線を向けて、祐良がぼそりと呟いた。
は、とちいさく返しながら。
祐良が、早くも奥向での日々を懐かしく思い返しているのだと、貞盛は悟った。
もはや今までのように頻繁に、義姉と親しく語り合う事はままならぬのだ、と。
だが。
『互いに』とはどういう意味なのか。
まるで貞盛も祐良と同様の郷愁を抱いているとでも言いたげな。
首を傾げた、その時。
『申し訳ございませぬっ!』
すっかり耳に馴染んでしまった謝罪の声音と、見慣れた慌て顔が、何故か一瞬だけ脳裏に浮かんで。
ふ、と貞盛は口の端にちいさな笑みを浮かべた。
貞盛だけが、祐良の心の奥底に隠された想いに、早くから気付いていた。
始まりから既に終わっていた――兄の妻となる姫への、どうにもならぬ恋心に。
そして。
主のことに気を取られるあまり、己が心の内に仄かに芽生えかけていた思いの正体に、その時貞盛は未だ気付いていなかった。