その二 蜜柑
§
――頭が痛いのに……笑いが込み上げてきそうで、困る。
しかし笑うわけにはゆかぬ。
目の前の巳乃殿は床に這いつくばったまま、見るも哀れな程に震えている。
ここで私が笑ってしまったら、さぞや居たたまれない思いに苛まれるであろう。
今朝は若君が風邪の気がおありとの事で表方にはお出ましになれず、出仕してその事を表方にて聞き知った私は奥向の若君の御居間に伺候した。
幸い若君の御容態は軽く、床には就いているが半身を起こしたまま
「こうしているだけでは退屈でならぬ」
しきりに動きたがるのを
「なりませぬよ松寿丸様!御仏間御拝礼にお出ましになれなんだ御方がうろうろと歩き回られては累代の御先祖様方に申し訳が立ちませぬ!今日は一日大人しゅう御寝っていらして下さいませ!」
「……相変わらず、由並は堅苦しゅうていかぬの」
母上にぴしりと言われてぼやきながらも、言われた通り大人しくしていらせられる。
母君・秋陽院様の御記憶がない若君は、御誕生より御側にお仕えしている乳母の我が母を母君の代わりと慕われ……そして怖れておられる。如何にしても逆らえぬ存在であるらしい。
主である若君にしてからがこの御有様ゆえ、実子の私などは母上には全く頭が上がらぬ。
「甲午丸、そなたも今日はしかと若君をお見守り申し上げるように。わたくしがおらぬ間に御褥を抜け出されるような事あらば、身を挺してお諫め申し上げるのですよ!」
そのような母上、風邪如きで大仰な……と喉元まで出かかるのを辛うじて抑えて
「仰せ確かに承りました、由並様」
慇懃に、そう返した。
うっかり口答えなぞしようものなら、後が恐ろしいゆえに。
母上が座を立ったのと入れ違うように、巳乃殿がやってきた。
姫君様より若君への御風邪御見舞いを持参したとの事で、襖を開けて迎え入れようとしたところ。
「っ……!」
いきなり頭に衝撃を覚えた。
しかも一回ではない。連続してどかどかと。
「も、申し訳ございませぬっ!」
悲鳴のような謝罪の声で、我に返ると……目の前に蜜柑が四つ五つ、転がっていた。
何となく何があったか、把握出来た。
その様を客観的に想像して……思わず噴き出しそうになったが、どうにか堪えた。
ここで笑ってしまったら、粗相をひどく恥じているであろう巳乃殿に、気の毒だ。
蜜柑の直撃を喰らった己が頭を撫でさすりながら。
這いつくばって平伏している巳乃殿の横にある三方に、取りあえず蜜柑を積み上げた。
奥の褥の上に座している若君を見ると、ひどく複雑な表情をしていらせられる。一見真面目なお顔なのだが……口許が微妙に横に引きつっている。まるで込み上げて来る笑いを無理に噛み殺そうとしているかのように。
おそらく、若君は私の上に蜜柑が降り注ぐまでの一部始終を目撃されたのであろう。
母上がこの場に居れば流石に一言あったであろうが、若君がこの程度の事でお怒りになる事はまずあるまいと判っていたので、平伏したままの巳乃殿に御前に進むようにと促した。
顔を上げた巳乃殿が、落とした物を若君の御前に差し上げる事を躊躇している様子に
「ああ、気にせずとも良い。蜜柑は皮をむいて食するものゆえ、床に転がした位では差し障りはあるまい?私は何とも思わぬよ」
若君がちいさく笑いながら、けろりと仰った。
若君とて食される機会が滅多にない珍品、それも若君が日頃より実の姉君の如く慕っておられる姫君様よりの御見舞いの御品だ。このような事で引っ込められてしまっては御痛恨の極みであろう。
そんな思いがつい言葉になって
「例え庭に落としたものでも、義姉君よりの御見舞いの品なれば若君には何よりの御妙薬……」
「甲午丸っ!いきなり何を申す!」
若君の慌てた風の叱咤に遮られた。
「姫君様には若様が御風邪にて御仏間御拝礼にもお出ましになられなんだ事を大層ご案じになられ『柑子は古来よりの妙薬。酸味がきついやもしれませぬが、何卒義姉よりの薬と思うて召し上がられ、よくよく御養生遊ばしませ』と、仰せられました」
姫君様よりの御口上を巳乃殿から伺って、おや?と思った。
若君も御同様であったらしい。御前の三方から蜜柑をひとつ取って、しげしげと眺めておられる。
「のう、甲午丸」
「何でござりまするか」
「これはやはり、蜜柑だの?」
「そのように拝察致しまする」
そのやり取りに、横から
「あの……恐れ入りまする……」
巳乃殿の小さな声が入って来た。
「『みっかん』というのは、その、柑子の事でございますか?」
巳乃殿は蜜柑を知らなかったようだ。おそらくは、姫君様も。
巳乃殿の話によると、これは昨日、若殿が三島(大三島。現・愛媛県今治市)の明神様(大山祇神社)に御参詣の折に大祝様(大山祇神社神職)より賜った御品らしい。姫君様への御土産にと今朝、表方より届けられたのだそうな。
おそらく姫君様は、それをひとつも召し上がる事なく、若君の御風邪御見舞いとしてこちらに下さったのであろう。召し上がられれば柑子とはまるで違う甘味を感じられるはずだ。
その事を口にすると、巳乃殿はひどく驚いて
「あの、これは……柑子では、ないのですか?」
蜜柑は何時の頃からか三島にて栽培されていた。何処からもたらされたものなのかはよくわからぬながら、従来ある柑橘の類とは明らかに違う美味が珍重されて、例年伊予の太守様(河野通直)に大祝様より御献上なされているとも聞いている。
それ程の御品を御当家が拝領出来るのは、おそらく御館様の亡き御正室・秋陽院様が、太守様の御養女であられた御縁によるのであろう。若殿と若君は、義理ながら太守様の御孫君にあたられるのだから。
……と。
そのような事情を若君と代わる代わる、巳乃殿に説明した所。
巳乃殿は納得するどころか、顔面蒼白になり、今にも卒倒するのではないかと危ぶまれる程、ぶるぶると震え始めた。
「顔色が、悪いようだが」
心配になって声を掛けると
「……ま、まことに……申し訳ございませぬっ……わたくし、何という事を……」
切れ切れにそう言って、巳乃殿はまたしてもその場に突っ伏してしまった。
確かに、粗忽で床に落としてしまった品の大層な由来なぞ聞かされたら、悶絶したくもなるだろう。
だが幸い、若君が全く気にしておられぬのだからと
「各務野殿、その事はもう気にせずとも良い。若君も先程仰せられたであろう?」
取り成すように言いながら、同意を求めるように若君を見ると。
「そうか……義姉上は御自身はおひとつも召し上がられずに、私にこれを下さったのか」
ひとつ手に取った蜜柑を目の高さに掲げられて。
微笑みを満面に浮かべていらした……恍惚と。
若君――貴方様は……。
若君の御配慮で、異例の事ではあるが頂いた蜜柑を敢えてひとつだけ、姫君様にお返し頂くよう巳乃殿に渡した。
巳乃殿は目を丸くしていた。それはそうだろう。私も正直、如何なものかと思わぬでもない。
だが、若殿が姫君様へと持ち帰られた御品を、ひとつも召し上がられずにこちらに贈られたというのは、傍目には若殿に対して姫君様が礼を欠いているとも誤解されかねない。若殿御自身は、事情が判れば特に何とも思われぬであろうが……。
そのことを危惧された若君が、頂き物をお返しするという非礼を敢えてなされて、姫君様に蜜柑をご賞味頂くようにと巳乃殿に言付けられたのだ。
巳乃殿が退出した後、言い忘れた事があったのに気付いて、後を追った。
慌てていたのでつい背後から
「巳乃殿」
真名で呼びかけてしまった。
「ぅあっはいっ!申し訳ございませぬっ!」
……物凄く素っ頓狂な反応付きで、振り返りざまにまたしても謝られて。
ほんの少し、気持ちが萎んだ。
年明けの若君の御元服に伴い、若君は起居の場を表方に移される。
ただ、御文庫のみ姫君様への御配慮として奥向に残されるとの事で、収集した本の目録を今、若君と共にまとめている所だった。
その作業を、巳乃殿にも手伝ってもらいたいという依頼を、うっかり忘れていたのだ。
当初は姫君様や、それ以上に上役の由紀江様の思惑を気にしてか返答を渋っていたが、若君より姫君様に正式に御依頼申し上げる旨を伝えたところ、それならば、と頷いてくれた。
若君が御元服なされたら、私は二度と奥向に入る事はあるまい。
巳乃殿と共に、御文庫で他愛もない話をしながら書を探したり整理したりする事も、もはや出来なくなる。
最後にその成果を目録としてまとめる作業が、共に出来れば……奥向での日々の、何よりの思い出となろう。
その場で少々、立ち話を交わしている中で。
巳乃殿が蜜柑の味の程を相当気にしていたらしいと、判った。
先程、若君より私も巳乃殿も御相伴を勧めて頂いたのだが、姫君様がお口になされていないものを流石に畏れ多いと、ふたりで固辞してしまった。
あれは確かに美味だ。
私は数年前に妹の千保と共に、一度だけ若殿の御相伴に預かった時以来口にした事はないが、柑子とはまるで違う甘味に、その場にいらした若君も含めて四人で陶然としながら食べた覚えがある。
と、巳乃殿が
「さぞや美味なのでしょうね。若様があのようにお嬉しそうなお顔で眺めていらせられましたもの」
そう言った。
「え?」
瞬間、鼓動が跳ねた。
思わず、巳乃殿の顔をまじまじと見る。
「太三郎様は、お気づきになられなんだのですか?」
訝しげに首を傾げる彼女の表情に、何の衒いもないのを見て取り
「あ、いや、そう言われれば……そうであったな。若君は蜜柑が大層お好きであられるゆえ」
笑みを作って、どうにか取り繕った。
§§
引き留めた事を詫びて、ではこれにて、と各務野に頭を下げて。
踵を返して松寿丸の居間の方へと戻りながら、太三郎はほうっと、安堵の溜息を洩らした。
『さぞや美味なのでしょうね。若様があのようにお嬉しそうなお顔で眺めていらせられましたもの』
あれが、久々に大好物の逸品を前にしての言い様のない喜びを満面に表したものと。
巳乃殿はそのように捉えたのか……良かった、と。
主のあの表情に、太三郎は見覚えがあった。
だがずっとその折のことは、敢えて思い返さないようにしていた。
思い返すべきではないと、思って。
心の奥底にしまいこんで何時しか忘れかけていた記憶を、太三郎は久々にそっと、手繰り寄せていた――。